『教行信証』真仏土巻ノート                   

                    

           第一回  証巻から真仏土巻へ 

  ● 凡夫の分別に即した滅度
 
   証巻の十一願について見ていきましょう。十一願は「必ず滅度に至る」ことを願ったものです。  
  滅度というのは浄土と考えてもよいでしょう。しかし、いのちが滅して浄土に行くのか、
  それとも今現在浄土に生まれることが決まるのか、難しい問題が残されています。
  今・現在仏になるべき身と定まる現生正定聚・往生が決まることと、必ず滅度に至るということは
  まだ至っていない、まだ仏に成ったとは言えない未来の問題です。十八願にも「若不生者」
  もしも生まれることができないのならば、と願われていますから十一願は化身土の問題では
  ありません。

   親鸞聖人は、浄土を未来往生として、いのちが終わったら往く場所としてお手紙に記されている
  所もあります。これは、真宗光明団・周南支部「あゆみ」348号の中で細川巌先生が「親鸞聖人は
  死後往生として浄土を使われた場合がある」と触れられていました。
  滅度としての浄土という問題も大切だと思います。ただ細川先生は例外的に述べられていました。                                              
  私は例外的というよりも、凡夫の分別に即して表現されたのではないか、と思います。その箇所は、

      また教学をよく理解している、いかにも賢げな人が訪れてくれば、この人の往生は
      どうであろうと仰せられていたのを私はたしかに聞いているのです。(法然の仰せ)
                                       末燈鈔 第六通 聖p603

      私は、今は老齢のきわみに達しておりますので、きっとあなたよりもさきに往生する
      ことでしょう。必ず必ず浄土でお待ちしております。   末燈鈔 第十二通 (聖典P607)

      信心の定まる時というのは、摂取にあずかる時なのです。私たちはその後は、
      まことに浄土に生まれるまでは正定聚の位にいるのであると説かれています。
      とにもかくにも行者の分別を塵ほども加えることがないゆえにこそ、他力と言うのです。  
                                       末燈鈔 第十三通 (聖典P590)

  いのちが終わって浄土に生まれる、往生すると三回だけ書かれておられるようです。これは、
 十九願、二十願における化身土としての浄土ではなく、十一願の滅度、真実報土を
 意識しているのではないでしょうか。
   (「歎異」 第十五号 『教行信証からのアプローチ』P32)

     

     「いのちが滅して救われていく」のならば、十九願でもよいのではないか?

                                            ●証巻の初めの検証


   願成就の文、『経』に言わく、それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みなことごとく
   正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚(十九願)および
   不定聚(二十願)なければなり、と。            (岩波P244・聖典P281)


                                    『剋念して生まれんと願えば、また往生を得』
『経』に言わく、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと
願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る」 (岩波P245・聖典P281)

 それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。
                                                                                  (「一念多念文意」聖典P536)

 もし、ひと、ひとえにかのくにの清浄安楽なるをききて、剋念してうまれんとねがうひとと、
  またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。 (「一念多念文意」聖典P537)

         『論註』引用―煩悩を断ぜずして涅槃分を得(岩波P247後五行・聖P283)
         『安楽集』引用―道綽
         『観経疏』(玄義分・定善義)引用―善導
 また云わく、西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して、有無を離れたり。
 大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。

(あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳意に
 随いて出ず。群生見る者、罪みな除こる、と。また賛じて云わく、)
  帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。
いたるところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん

                                                     (岩波P249・聖P283/真仏土巻・岩P317・聖P321)

                                   
● 真仏土巻の終わりの展開
     『法事讃』引用―善導
   また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。
   かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた
   専らならしめたまえり。                                               (岩波P317・聖典P321)

       化身土巻・二十願の問題にも引用あり(岩波P358後三行・聖P350)
       なおかつ同じ『法事讃』の引用で展開している。
      十九願の問題も化身土巻で『法事讃』引用あり(岩波P343・聖典P337)

               化身土から真実の報土(真仏土)に向かわしめる用きがある


  善導の『法事讃』は、『阿弥陀経』により、読誦正行を中心とせる臨時の行法を明すもの。

         注目すべき点は、化身土巻の十九願、二十願の帰結の所で
          『法事讃』の引用がある。そして、親鸞の三願転入の告白に入る。


      また云わく、帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。
      本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。
  (…・般舟三昧楽 願往生)悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、   
           弥陀の名願いずれの時にか聞かん。 仏の慈恩を荷いても、実に報じ難し、と。    
                                                                     (化身土巻 岩波P367〜8・聖典P355)

    愚禿釈の鸞…・・しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、
     速やかに難思往生(二十願)の心を離れて、難思議往生(十八願)を遂げんと欲う。
     果遂の誓い(真実報土へ往生させずにはおかないという願)、良に由あるかな。
                                                                                      (岩波P369・聖典P356)

    化身土に埋没している衆生を真実報土(真仏土)に生まれさせようという
        深い願いがかけられている。我々衆生は、化身土という浄土を思い描いて
        いたとしても、自然と真仏土に転じられていく。それが、他力である。


                     滅度は、化身土から真仏土に導く言葉である。

  経典に「有余涅槃」「無余涅槃」と称しているこの言葉は、秦の国では「無為」とも、
  また「滅度」とも訳されている。…・滅度というのは(肉体あるがゆえの)大きな患いが
  永久に滅して、四つの煩悩の川の流れ(欲望・存在・誤った見解・根源的な無知の川)を
  渡り超えていることをいうのである。                              (『肇論』僧肇 平井俊栄訳)

                「涅槃」は漢には「無為」と言うなり。(化身土巻 岩波P437・聖典P394)

   インドの仏教の教えを、中国語に訳した時、老荘思想などを受けて訳されたことが
     ありました。これを格義仏教と言います。クマラージュ・僧肇などから格義を離れて、
     空の教えを表現できるようになったと言われます。しかし、私は格義でもよいのでは
     ないか、中国人が仏教の教えを理解するには老荘の教えも必要だったのではないか
     と思います。空が無の思想ではなく、虚無ならばいい、というのもおかしなことです。
     このような問題も化身土巻で明らかにしたかったのではないか、と思います。

 

                                       第二回   真仮の分判

                                       真                                          真
                           願海                                         真仏
                                       仮                                          仮


               真仏―無辺光仏・無碍光仏
                    諸仏の中の王・光明中の極尊
               帰命尽十方無碍光如来―行巻(岩波P58前七行・聖典P168)

                                   真土―無量光明土・諸智土

                       往生―皆受自然虚無之身無極之体―証巻(岩波P245前四行・聖典P281)
                   如来浄華衆正覚華化生―証巻(岩波P246後三行・聖典P282)
                   同一念仏して無別の道故―証巻(岩波P247前二行・聖典P282)
                   難思議往生―化身土巻(難思議往生を遂げんと欲う)岩波P369

            これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して往生を得しむ。
                                    (行巻 岩波P72後八行・聖典P177)

      これはすなわち、浄土に生まれたいと願う念仏の人を、命の終わろうとするとき、
      誓いの力が摂め取って、生まれることができるようにさせるものである。

    ただねんごろに法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を
          証すべし、と
                                     (証巻 岩波P249前三行・聖P283)

        ひたすらねんごろに法に仕え、臨終を機会としてこの穢れた身を捨て、
        ただちに浄土に往生し、悟りの永遠の安楽をわが身にひらくべきである。

     ●行巻や証巻に死後往生が説かれているのだろうか?

     弥陀の本願に出遇っても、煩悩具足のわが身は死ぬまで煩悩を克服することはできない。
     その善導のお言葉には「難思議往生を遂げんと欲う」という本願招喚の勅命が込められている。


        願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたる 『唯信鈔文意』聖P549

                                          至心・信楽・欲生
              難思議往生を遂げんと欲う(化身土→真仏土)→欲生釈(信巻)へ

         『教行信証』のまとめ方は、すっきりしていないのではないか?
         未完の書ではないか?とりあえずまとめるために『浄土文類聚鈔』製作か?

    『起信論』にいわく、「もし説くといえども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと
    知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす。  (真仏土巻  聖典P322・岩波P319)

   ●説くこともできず、念ずることもできないのならば、人はそのようなものの真実の姿をどうやって納得、
    理解し(随順)、また、どうやってものの真実のあり方に入ることができるか?

  随順―一切法を説くものと説かれる一切法、念ずるものと念ぜられるものといった二元の区別がないと知ること

  悟入―それを知った上で、妄念を離れることができること
                                                 (『大乗起信論を読む』 高崎直道著)
 

        念を離れるためには修行がいる→真宗では行を如来の行(念仏)とする

        本来の念仏―称えるものも称えられるものもない世界(随順で表現)

     この『起信論』の引用文は、仏性論の問題の結論を出しながら、真の中に仮も含まれ、
     本来は真も仮もないことを示した上で、あえて我々にわかりやすく説明するために
     化身土巻を記していこうとする動機づけなのではないか?
   

 

                                        第三回  光明と寿命

         第十二願  もし私が仏になる時、光明に限りがあって、少なくとも百千億那由他の
                             諸仏の国々を照らすことが出来ないならば、私は仏にはなりません。

         第十三願  もし私が仏になる時、寿命に限りがあって、少なくとも百千那由他で尽きるなら、
                             私は仏になりません。
 
                          仏―不可思議光如来・土―無量光明土 (大悲の誓願に酬報す) 

                                            超世無上に摂取し  選択五劫思惟して   (正像末和讃
                                            光明寿命の誓願を  大悲の本としたまえり            聖典P502) 

                   阿弥陀仏のいる場所は浄土である。仏に出遇う=浄土が開かれる

                      ● 『帰命無量寿如来 南無不可思議光』は、なぜ命が先か? 

                     まず如来の用きを示すために、無量寿という命の問題を先にした。
                      私たちは、光よりも命の問題が大切である。

                            真仏土は、命よりも光の世界として開かれてきた。(光→命)

                                             南無不可思議光仏    饒王仏のみもとにて        (大経和讃
                                             十方浄土のなかよりぞ  本願選択摂取する                 聖P483)

                                         本願選択(選択本願ではない)―すでに本願はあった
                                                
すでにして願います(真仏土巻 岩波P279・聖典P300)

                  すでに本願がある中から、光明寿命の誓願を選んだ。

           南無不可思議光仏として、法蔵菩薩(形で表現された阿弥陀仏)が出現した。
           正信偈は「帰命無量寿如来」から始まるが、我々衆生の要求に立ち、永遠なるいのちを
           賜りたいという敬虔な気持ちを表しているのではないか?

       ●真仏土巻の展開でも、『涅槃経』引用の後、『浄土論註』の引用文で「法蔵菩薩」にも触れている。


      序めに、法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。
      この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。
                                                 (岩波P304後三行・聖典P314)


           光明―智慧  『智慧の光明はかりなし』       寿命―慈悲

                  ◎ 光明は仏を見出し、寿命は衆生を感得す
                    願成就文 光明―諸仏を比較に出す
                    寿命―諸仏を出さず、衆生を出す (金子 大栄)

               真土―諸智土(岩波P320・聖典P323)→信巻に引用あり。

              如来の勝智、遍虚空の所説義言は、ただ仏のみ悟りたまえり。
              このゆえに博く諸智土を聞きて、我が教如実の言を信ずべし。
                                   (信巻 岩波P131後六行・聖典P213)

          光明―信心の智慧が開かれてくる→浄土→柔らかな心をいただく

             それ衆生ありて、この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。
                                  (真仏土巻 岩波P280後六行・聖典P300)

                     弥陀成仏のこのかたは  いまに十劫をへたまえり
                     法身の光輪きわもなく  世の盲冥をてらすなり

             光―法身を表す 「真実の智慧無為法身をもってのゆえなり。」
                                        (証巻 岩波P261前四行・聖典P290)

                   弥陀成仏の世界―大悲の誓願に酬報する

              深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。
              如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう。
                                      (『大経』教巻 岩波P31前二行・聖典P153)

             弥陀成仏という言葉から、弥陀がまだ成仏していない時もある。
             まだ、成仏していない時は因位の時であり、法蔵比丘の時。
             『大経』では、成仏した時、法蔵菩薩と初めて菩薩になっている。

             弥勒菩薩は弥勒仏とも言われるように、法蔵菩薩は阿弥陀仏である。
             形で表現された阿弥陀仏は、法蔵菩薩と同じである。

                 法性法身に由って方便法身を生ず。
                 方便法身に由って法性法身を出だす。→光の世界
                                  聖典P292
 

         真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。(証巻・岩波P264)

                ●真実の法身を知らない者は、帰依などできない。
                あなたは本当に帰依できますか?