若き世代のための真宗入門

    ●真宗の教えとの出遇い

  学生時代から、寺に生まれ、寺を継ぐために大学に通い、親鸞の教えに出会いたいという一心で学んでいる
 人々たちが、なかなか真宗の教えに出遇えない現状を見てきた。いや、私は親鸞の教えに出会い、大学や
 独自に学んでいるという方もおられるかもしれないが、どうしたら一番手っ取り早く直に教えに出遇えるか、少し
 考えていきたいと思う。

  もともと宗教との出遇いとは、出遇いたいと思って出遇えるものではない。「出遇いたい」と思う心が分別心で
 あるからだ。たぶん、実際に教えに出遇える時は、よきせぬところで出遇うことができるはずである。
 仮に出遇えたとしても、どうっていうこともなく、逆に出遇わなければもっと楽に生きれるかもしれない。それは、
 如来に捉えられて、離してもらえない程しんどいことになるかもしれない。「やめたくてもやめられない」求道の
 歩みが始まるからだ。出遇うことが、よいことであるかどうかはわからない。

  歎異会には、癌で余命二年と宣告されたご老人が命がけで学びに来られている。「家で寝ていても仕方が
   ないので、自然と体が動き出す」とも言われる。学ばずにいられない求道の厳しい姿勢を教えていただいた。
 ふと僕は若き頃のあの情熱を思い出した。ふしだらなことを書くが、彼女ができて会うたびに、どんなに体が
 疲れていても彼女を抱きたいという衝動に似ているのではないかと。米沢英雄先生は、「人間には食本能・
 性本能の他に宗教本能がある」と言われた。若き頃の性本能が、年をとると宗教本能に変わり、どんなに
 体がいうことを効かなくても聞法したいと、本能に呼び覚まされていく行動として表れるのではないか。

  今、君たちは本当に学びたくて学んでいるだろうか。本当にセックスしたくてセックスしているように。そういう
 ものが、実際に君の中にあるかどうか、が大切であると思う。学びたくないのであればやめればいい、真宗の
 学びを捨てることも、時には近道になる。寺を継ぐために仕方なしに、ということであれば、その学びをやめる
 ことが大切である。結局、寺に入ってしまえば、それは単なる職業になってしまい、仕事のためになるから
 学ぶということにどんどん変わっていってしまう。人間はどんどん打算的になっていくものである。まず、その
 学びを捨てることが近道であるということを頭の隅に入れておいて欲しい。

  ただ、やみくもに学んでいるうちに、自然と教えに出遇えるということもあるわけだから、一概に否定する
 こともできない。とりあえず学びを続けることも必要かもしれない。いかに自分に正直になれるかが決め手で
 あると思う。

  では、どうやって真宗聖典を読むか。そろそろ本題に入ることにしよう。僕は、真宗との出遇いは感性を磨く
 ことだと思う。もしも、君が人を好きになって恋をしているとしよう。そんなとき、ある曲が流れてきて、今の君の
 心境にぴったりだと感情移入できることは今までなかったであろうか?

                明日になれば、君をきっと今よりもっと好きになる。
                そのすべてが僕の中で時を越えていく。
                       (ラブストーリーは突然に    小田和正)

  この「時を越えている」時とはどのような時だろうか?そのように聖典の言葉も直に考えていくのである。
 この時は、「一念の時」であると僕は憶う。

               ユラユラユラ  心はゆれる
               キラキラキラ  時は輝いてる
                       (キラ キラ キラ  小田和正)

  輝いている時とは、どのような時であろうか。君が恋をしてきらきら輝いていない限り、この意味の輝いている
 時はわからないはずだ。

                あなたに会えた それだけでよかった 世界に光が満ちた
                       (アゲハ蝶   ポルノグラフティー)


  
この光に満ちた世界とは、どのような世界なのか、感じることがてきない限り、聖典の言葉は君に響いては
 こないのである。僕の経験から、恋の光の世界は、かなり宗教のひかりの世界に近いと断言しよう。
 ただ、恋の世界は永遠に光に満ちていくことはない。恋愛には、必ず終わりがくるものである。
 この世の中は無常の世界であるからだ。

     二十年前、僕は「恋愛するように宗教しよう」と呼びかけた。恋愛の世界は宗教の世界に近いと感じたからだ。
 「あんな悪い奴はやめておけ」と言われてもやめられないように、「あんないかさま宗教はやめておけ」と言われて
 やめられない。理屈ではないからであろう。理屈を超えたものに触れない限り宗教に出遇うことはできない。
  しかし、それが本当にいかさま宗教である場合もあるから恐い。昔、ある女性銀行員が、銀行の金を横領して
 つきあっている男性にすべて貢いでいた事件があった。僕は、その女性はある面幸せだったのではなかろうかと
 思った。いかさま宗教にだまされている人も、ある幸福感を抱いているように。

  ただ、ここで注意してほしいのは、親鸞はとことん醒めた人であったということである。たぶん、若き頃親鸞も
 恋愛をしただろう。公に肉食妻帯した人であったからだ。そして、実際に自分の心が醒めていくことも経験した
 であろう。性欲の果て、子供まで作って、その子供に裏切られ、義絶までしなくてはならなかった親鸞。すべては
 身から出た錆であったと深い懺悔をされた方であると思う。これも私の人生であったと、深く自分自身を掘り下げて
 道を求めた人であったと思う。

  君は、本当に言葉の響きを感じ取ることができるだろうか。恋人の愛の言葉に魅せられていくように。
 真宗聖典も、そのような響きがなければ、読んだことにはならない。親鸞からのラブコールをどう聞くか、
 それが一番大切である。ラブメールを読むように真宗聖典を読めるまで、深めていってほしい。
 だから、僕は宗教よりも先に恋愛をしてほしい。言葉を超えた世界に触れれば、後は早いからだ。

     ●凡夫の自覚などできないと知れ

  真宗の言葉を覚えるとき、必ず「凡夫・愚者・悪人」の救いということが問題になる。ところが、僕たちはその
 凡夫という言葉をすごく嫌っているのだ。よく考えてみてほしい。親鸞が凡夫という言葉に出遇ったのは、修行して
 二十年という歳月が必要だった。法然にしても「智慧第一の法然房」と呼ばれ、四十三歳にして「十悪愚痴の
 法然房」という自覚を持った。若い君たちが凡夫の自覚を持つことがいかに大変なことかわかるだろう。
 僕は若い人たちには自力を尽くして夢を追いかけてほしい。「大きくなったら凡夫になりたい」という子供は
 いないように。
  少し問いを変えてみよう。君は異性にふられた時、落ち込まないか?「凡夫だからふられて当然だ」と思える
 だろうか。なかなかそうは思えないのではないか?僕たちが一番嫌っている言葉が「凡夫・愚か」という言葉なのだ。
 親鸞の教えを聞いていると、凡夫とか愚かということがよいことのように思えてきてしまう。自力はダメで他力は
 いいなんて思ってる人がいたら注意しなくてはならない。僕たちは本当に自力を好んでいる。自力がすたることは
 挫折意外の何物でもない。君は挫折を好むだろうか?できることならば、自分の思うように人生を切り開いて
 行きたいのではないだろうか?まず、真宗に説かれている言葉を疑うこと、特に若い君たちには理解できない
 言葉ばかり並んでいる、と考えた方が自然である。凡夫も愚かも全然わからない、という素直な姿勢で学んで
 いくことが必要だと思う。真宗の言葉を頭で覚えてしまってはいけない。わが身は拒んでいるのだ。
 わからなくて当然なのだ。ただ、若い人たちにも想像を絶する挫折を経験した人もいるはずだ。そんな中で
 真宗の言葉を身近に感じられる人もいるかもしれない。それはそれですばらしいことであると思うが、まだまだ
 人生は長い。もっともっと辛い挫折も経験しなくてはならないかもしれない。まだまだ前途多難であるという
 自覚も持ち、お念仏一つに辿り着くまでには時間はかかるのではないだろうか。
  では、何故頭で覚えてはいけないのか?それは、凡夫・愚かという言葉が自己弁護で使われてしまうからだ。
 「凡夫だからどうせ仕方が無い」と決めつけてしまう危険性がある。中には、賢き人もいるかもしれない。
 それなのに、「賢き人も凡夫なんだ」と他人を批判していく方向に進んでいってしまう。あくまで、自分自身の
 凡夫の自覚なのだ。賢き人は賢き人で、真宗の教えを必要としないで生きていけばいい、それこそ「面々の
 御はからい」である。「真宗の教えが一番いい」なんて決めつけて、賢き人を批判していくのもおかしなことで
 ある。君は、安易に他者を批判していないだろうか?他者の批判などできない人こそ、本当に凡夫の自覚を
 いただいた人である。くれぐれも安易に他者批判はやめてほしいと思う。

         TOPページに戻る