8月の雨、午後6時
                  根岸香織

     1

 夢の中の孤独にたえられず、目を覚ました。
 現実の孤独は、しっくりくる。ひとりのベッド。かかりっぱなしのCD。開いたままの三冊の文庫本。はちきれんばかりの灰皿。半分残ったウィスキーボトル。それらが私の輪郭をゆっくりなぞる。
 昨日も飲みすぎたみたいだ。キッチンドリンカーへの道は遠くない。夢の風景を抱きしめながら、ふらふらと起きあがる。
 ぼさぼさ髪をかきむしりながら、まず、パソコンの電源を入れる。スタートアップ画面の英語の羅列をぼんやり見つめ、Eメールのチェックをする。
 受信は28通。時間がかかる。
 鏡をにらみながら、顔を洗い、歯をみがいているときに、携帯電話が鳴った。やりすごすと、もう一度。
 歯みがきを切りあげて、電話を開ける。吉田君からだ。
――もしもし。
――よ、よう。
――K?
 電話を持つ手に力が入る。
――久しぶりだな。
――どうしたの。
――つれないなあ。
――切るよ。
――ちょっと待てよ。
 タバコをくわえ、火をつける。長期戦になりそうだ。
――今日さ、花火大会がある予定だったんだ。
――へえ、それは初耳。
――でも、雨ふってんだろ。
――雨?
――そう、すごい雨。
 窓を開けると、雷が光った。びっしりと雨が降っている。あわててパソコンの画面を見る。残り18通。ウィルスがまぎれこんでいるのかもしれない。キャンセルして、パソコンを終了させる。
――これって、夕立じゃないの?
――まだ夕方って時間でもないだろ。
――確かに。
――で、おれの作戦は失敗に終わったわけだ。
――もしかして、あたしを花火に誘おうとか。
――バカ野郎。亡命だよ、亡命。
――ボウメイ?
――そう、この街が花火に浮かれてるときに、おれは去る。
――国境の警備も少なそうだしね。
――それが、雨でパーさ。
――でも、雨天決行の花火大会もおもしろいかも。
――飛ぶわけないじゃないか。
――いやさ、あの爆発音が、戦争みたいでいいじゃない?
 Kの沈黙。お気に召したみたいだ。
――そうだな、クーデターは雨の花火大会に起こすべきだ。
――自衛隊の出動も遅れるかもしれない。
――だけど、おれは亡命することにした。
――本気で?
――それで今、吉田の車に乗ってるんだ。
――道理で。
――おまえも一緒に来ないか。
 ふきだしそうになった。
――なんで、あたしが亡命しなくちゃいけないのよ。
――いや、おまえは亡命じゃない。新たな旅の始まりとしてだ。
――ジプシーらしく?
――ジプシー気取るのに、この街は不似合いだ。
――でも、雨の日に旅立つジプシーなんている?
――長老が占いで、今日と決めたんだ。雨天決行。
――ジプシーが予定通りに動くなんて、あるはずないじゃない。
――風が吹いたら遅刻するし、雨が降ったらお休みだもんな。
――それ、ハメハメハ。
――似たようなもんだろ。
――まあね。
――でも、チャンスだと思わないか?
――そうねえ。
 予定はない。やるべきことはいろいろあるのに、やりたいことがない。だから、どんどん体が重くなる。
――ところで、吉田君とあなただけ?
――そりゃそうさ。
――わかった、少しだけ、付きあうわ。
――じゃあ、五分後な。
――ちょっと待ってよ。早すぎる。
――いつでも、旅に出る用意をしてるわけじゃないのか。
――あいにく、この街に飼いなされてしまったからね。
――じゃあ、十五分。
――あと一声。
――わかったよ。三十分後に行く。
 電話が切れた。
 あわててシャワーを浴びようとする自分がいる。長い時間の空白を無視したようなKの口調に、少しだけ腹が立った。

     2

 ドアを開けたのは、吉田君だった。
――あれ、Kは?
――車の中。
――もしかして、Kが運転してるの。
――まさか。あいつ、免許持ってないだろ?
 旅の準備とか言いながら、持ってきたのは、ポケットの中の財布とタバコと使い捨てライター。当然、手ぶらだ。
――いったい、何様のつもりかしらね。
――まったく。
 吉田君は寛大だ。演劇部に入ったのは、吉田君がいたからだと思う。一方通行な会話ばかりのKの言葉に、あいづちをうつ吉田君は、何でも許してくれる人だと思った。
 ちなみに、吉田君は私とKの一つ上の先輩である。どうして敬語を使わないのかといえば、やりにくいと吉田君が言ったからだ。もちろん、公式の場では敬語を使う。
 Kは助手席でふんぞり返っていた。吉田君の車は2ドアなので、イスを倒して、後ろに座る。かつて、助手席にはナナミさんがいた。吉田君の幼なじみの恋人だ。
――よう、慰安婦。
 Kは数ヶ月ぶりの再会に、開口一番こう言った。
――イアンフ?
――そう、おまえは従軍慰安婦として連行されることになった。
――そりゃ人選ミスね。ジプシーの慰安婦なんて、聞いたこともない。
 吉田君は笑った。
――久しぶりに聞いたよ、それ。
 でも、この車にナナミさんはいない。
 タバコを吸おうと思ったが、二つばかりの障害があった。まず、後部座席には灰皿がないこと。次に、雨が降っていて窓を開けられないこと。なけなしの荷物は早くもお役御免となった。
――ところで、どこに行くつもり?
――そう、どこに亡命するんだ? 運転する俺ぐらいには教えてくれよ。
――南だ。
 Kは断言する。
――まず、この雨を逃れる。それから密入船に乗る。
――亡命してから、あてはあるの?
――少なくとも、この街よりは、革命を受けいれてくれるさ。
――また、革命を起こすつもり?
 Kのいう革命とは、演劇部の内部抗争みたいなものである。ちっぽけな地方大学の、これまたちっぽけなサークルの、小さな革命。
――だいたい、吉田君をまきぞえにするなんて、ひどいんじゃない?
――まあ、亡命には仲間の協力が不可欠だから。
――それに、こいつだって、亡命するだけの理由はあるんだ。
――吉田君が?
 バックミラーに反射する吉田君の表情を見る。表情は変わっていない。時々、ナナミさんが吉田君と別れた理由がわかる気がする
――ところが、こいつ、就職決めちゃったからなあ。バカだよ。
――へえ、それはおめでとうございます。
――ありがとう。
――ただの車のセールスだけどな。
――立派じゃない? まっとうな仕事につくなんて。
――車のセールスなんて、夫探しの女の仕事だよ。
――まあね。俺もさっさと嫁さん見つけるとするか。
 吉田君は力なく笑う。
――だけど、あなたの亡命の理由はなに?
――おれの?
――いや、何で突然、こんなこと言いだしたのかなって。
 ちょうど一年前の夏だっただろうか、Kは本気で、この街を出ていくと言った。
――脚本書きをクビになったからさ。
――嘘?
 おどろいた。
――あそこまで、独裁政権を築いていたのに。
――あれ、知らないの?
 吉田君が話に加わる。
――実は、うちの演劇部、合併することになったんだ。
――ガッペイ?
――ああ、O大の演劇部と。
――へえ。
――で、おれは安心して脚本書きをやめることができるわけだ。
――そんなふうになってたんだ。知らなかったなあ。
――新聞にも載ったんだよ。現部長がインタビューされた。
――どっちの?
――こっちの。
――おれの教えたこと、言ってるだけだけどな。
――歴史的大事件じゃない。
――まったくだ。
――だけど、知ってると思ったけどなあ。
――すっかり、うとくなってるからね。
――さすがに来ずらいとは思うけど、ホームページもあるからさ。
――へえ、ウェブで展開するようになったのか。
――ウェブ?
――ああ、インターネットのこと。
――でも、作ってんのは、O大の奴らだよ。
――掲示板ぐらいに書きこんだら? みんな懐かしがってるよ。
――検索したら、行けるの?
――向こうのサークル名でね。
――すっかり、主導権にぎられたのね。
――まあな。向こうの方が勢いがある。良い悪いは別として。
 O大と交流しようという話は、私が演劇部に所属していたときから、あった。あるとき、O大から台本が届けられた。Kはそれを添削した。その結果、三分の一の分量になった。せいぜいこれぐらいの内容だな、とKは言った。
――でも、こいつ、すごいよ。ここまで政治力あるとは思わなかった。
――Kがやったの?
――合コンから始めたんだ。
――政治家っぽいじゃない?
――で、Kが大演説をぶったらしい。
――吉田君もいたの?
――いや、現部長から聞いた。
――どんなこと言ったの、K。
――この街の閉塞状況と地方分権について。
――吉田君、どんなこと言ったか聞いてる?
――なんか、大学生というブランドを利用しろとか言ったらしい。
――へえ。
――たしかに合併したら、観客は増えるんだよな。
――マスコミにも宣伝できる。批判勢力を持つことができる。
――なるほど、そこまで考えて、合併したんだ。
――一年前にやってりゃ、良かったのにね。
――そりゃムリだ。おれがそんなこと許さなかった。
――うん、あのときは、あたしとKが私物化してたから。
――でも、良かったなあ。あの頃のギラギラした雰囲気。
――青春だね。
――いろんな人が、やめちゃったけどね。
――そのことで罪悪感持ってるの? だから、やめたの?
――まさか。ただ、まわりが見えなかったと思う。あの頃は。
――でも、そういうもんじゃないのか。
 Kが後ろに身を乗りだした。
――青春なんて暴走したバイクみたいなもんさ。
――あたしには、狂ったフォークダンスのような気がした。
――ラッタラッタ、ルルルルってか?
――それをみんなに見せるだけで幸せだった。
――うん、あの頃は輝いてたな。二人とも。
――戻りたくないけどね。考えただけで、疲れる。
――じゃあ、もうあんなこと、やらないの?
――演劇ではやらないと思う。
――演劇では?
――なんか、たくらんでるのか。
――いやいや。ただ、あの頃の熱気とか、そういうのは忘れてない。
――あらら、おまえもまともじゃなくなったのか。
――なんか俺、就職決めたのがバカみたいに思えてくるよ。ここでは。
――だから、おれは亡命するのさ。もう、この街を信じるのはやめた。

     3

 吉田君の車のBGMはヒップホップである。ヒップホップは、あまり好きではない。なぜ、ヒップホップの一人称が「俺たち」という複数形なのか、それを知ろうとせずに歌っている連中が多すぎる。
 ただし、吉田君が好きなのは洋楽のヒップホップである。クールな感じがボサノヴァっぽくて良い。雨によく似合う。
 敬意を抱くことのできる曲が好きである。その敬意は、作者ではなく、作品に向けられなければならない。そして、その敬意は受け手だけに限らない。作者自身が作品に敬意を抱くことのできる曲でなければならない。例えば、作者がその歌を演奏するときには、必ず初めに右手でちょこんと胸をおさえるとか、そういう仕草を感じられる歌が好きである。
――でも、こいつの場合は、ずっと悲惨だね。
 Kが吉田君にあごをふった。
――なあ、あのこと、話していいか。
――どうぞ。
 ちょっと吉田君の声が震えた。これは珍しいことだ。
――おまえ、ナナミさん、覚えてるよな。
――この車で、そんなこときかれてもねえ。
――そのナナミさんが妊娠した。
――え?
 知らなかった。知らないことが多すぎる。
――だって、吉田君、もう別れたんでしょ? なぜ。
――しかも、こいつの子じゃないんだな。
 何も言えなかった。時々、知らないで生きるのは幸せなことだと本気で思う。バカげたことだけど。
――そして、物語は続く。
 Kもいつもの口調とは、ちょっと違う。ろうそくを頼りに会話しているような繊細さがあった。
――そのことをナナミさんは、こいつに相談したんだ。
――妊娠したってことを?
――はらませた男ではなく、昔の恋人に相談したんだ。信じられるか?
 かつて、吉田君とナナミさんとKと私で、ドライブに行った。演劇部は内部抗争の泥沼に入っていた。吉田君はその調整であたふたして、Kと私は二人の愛のメッセージを演劇で表現していた。もちろん、それは「恋をしようよ」というタイトルではない。ただ、その演劇での登場人物の対立は、とどのつまり私とKの対立だった。そういう劇を演じたくないと退部者が続出したのは、当然のことだった。
 ナナミさんは演劇部ではない。大学にも入っていない。浪人するつもりが、そのままフリーターになったらしい。ナナミさんは美人で、それを幼なじみに持つ吉田君が寛大なのが、何となくわかる気がした。ただ、ナナミさんと二人で会ったことはない。友達にはなれなかったと思う。ナナミさんは憧れの対象だった。ああいうふうになれたらなあと何度も思った。
 あのダブルデートは、風景画のように思える。私とKは後部座席で永遠に終わらないくだらない会話を続け、吉田君が合いの手を打ち、ナナミさんはくすくす笑った。思い出として、それは、あまりにも美しかった。それは、私の信仰のよりどころであり、自分の居場所を確認する作業の座標軸でもあった。
――まあ、あいつは流されやすいところがあるからな。
――と、こいつは言うんだ。わからないよ、おれには。
――じゃあ、もし、あたしがそうだったら、Kはどうする?
――おまえ、そうなったら、おれに相談するか?
――絶対にしない。
――だろ? それがまともじゃないか。妊娠なんて当事者の問題だ。
 吉田君は雨の中を冷静に運転している。本当にわからない人だ。
――それで、吉田君はどう返事をしたの?
――堕ろすべきだと言った。
――当然だな。
――で、ナナミさんはどう言ったの?
――そうするべきだと思うと言った。
――わけわかんないだろ? じゃあ、なんで荷物背負わしたんだ?
――でも、吉田君とナナミさんの間にあるものは、きっと。
――んなこと、どうでもいいんだ。
 Kは首をふった。
――おれは、はらませた男が許せないんだ。本当に、許せないんだ。
――それは、吉田君のセリフじゃない?
――いや、俺はそんなに恨んじゃいない。恨めないんだ。
 吉田君がぽつりとつぶやく。
――あいつが、そういうことを許した相手だからな。
――じゃあ、見る目がないよ。ガキのことを考えない男なんて、クズだ。
――でも、事故みたいなものかもしれないじゃない。
――だから、それをこいつに相談したということが許せないわけだ。
――うん。そういうことを相談できない人とつきあったのは、良くない。
 演劇部に入ったのは、洪水するぐらいの言葉を浴びせるKと、それに付きあう吉田君がいたからだと前に述べた。そもそも、演劇には興味がなく、大学に入ってから知り合った友人に誘われたから、演劇部の部室に入った。その友人はしばらくして、やめた。雰囲気が合わなかったらしい。
 Kと恋人待遇の関係になったのは、Kが酒に酔って、こんなことを言ったからである。「なんで、おまえは男に生まれなかったんだよ」。だから、Kを信じた。よほどのことがないかぎり、泣きそうな顔でそんなことを男は言わないはずだからだ。
――別れても、吉田君のこと、好きだったのかなあ。
――で、油断して、はらんだってわけか。とんでもない逃避行だな。
――確かに、もう戻れなくなったからね。
――でも、戻るという保険のために、吉田に相談したのかもしれない。
――そんな打算的な考えじゃないよ。不安だったのよ、ナナミさん。
――水子供養とやらか? あんなの坊主の金もうけじゃないか。
――たしかに、胎児には人格がないから、殺人罪は適用されないけど。
 避妊に対しては敏感だった。あらゆる女性雑誌から、合法ピルの記事をスクラップして、いろんな薬を飲みまくった。しかし、残念なことに、それらの実験には結果がともなわれない。これは、健康神話と同じような際限なき信仰である。
――結局のところ、堕ろすしかないんだよな。どう考えても。
――親に望まれない子供は、産むべきじゃないってこと?
――だいたい、この国のガキには金がかかりすぎる。
――たしかに、今の小学生をあおるファッション熱は不気味ね。
――金の価値も知らないガキが、人並みになりたいと親をつつく。
――うん、子供時代はそれが当然のように思ってるのよね。
――で、気づけば、大量の借金だ。その最たるものが大学だ。
 Kは留年しそうだ。演劇部で才能を浪費して、ろくに講義に行っていない。我が大学は、三年まではエスカレーター形式で上るから、四年生になるまで、まったく単位がなくても留年扱いにはされない。
――ねえ。
 吉田君が、久しぶりに口を開く。
――もし、君が妊娠したら、どんな感じがする?
――え?
――そりゃ愚問だ。誰の子なんだよ。
――そういうことを抜きにしてさ。ただ、妊娠したとして。
――わからない。
――そりゃそうだろうよ。
――ごめん、こんな質問して。
――だいたい、産まれたガキがキチガイかもしれないからな。
 Kの言葉に、私たちは、にやりとした。これは、Kと私がひそかに最高傑作と自負する「白痴女と王子」という劇による。観客は18人。でも、あの劇は何かを生みだしたと思う。完成度は低かっただろう。Kも私も、そして吉田君も空間把握能力に優れていなかった。つまり、百人以上の観客を想定した演劇というビジョンを持つことができなかった。ただ、芸術の神様がいたら、あの演劇を見て、きっと微笑んでくれたと思う。

     4

 ジプシーに憧れる。でも、ヒッピーにはなりたくない。銃を向けた警官に、笑って花を捧げるような、ヒッピーにはなりたくない。銃に対する恐怖と憎悪を忘れたふりはしたくない。
 Kは二十歳の誕生日に一つのノートを破り捨てたらしい。そこには、中学時代の彼が書いた「嫌いな大人」のリストがずらりと並んでいた。彼はその箇条書きを反面教師にして、まともな大人になろうとした。しかし、Kは二十歳の誕生日にそのノートを捨てた。中学生の自分が、許せなくなったせいらしい。
 演劇部をやめてしばらくした後に、大阪へ演劇を見に行った。実は、プロダクションに乗せられていない、草分け的な演劇を見たのは始めてだった。
 それは私を興奮させた。
 一言でいえば、その舞台には質感があった。例えば、クラシックの指揮者。統率の取れた演奏は好きではない。その指揮者と演奏者の中の緊張感。糸をぎりぎりまで引っぱって、解き放つような。そんな重みが感じられる演劇だった。その一員となって、一つの物語を演じる。考えただけで、興奮した。
 その後、24時間営業のマンガ喫茶の中で、Kへの手紙を書いた。ルーズリーフに書いた。一度もペンを休めることなく、ありったけの回り道をして、Kへの手紙を書いた。汗でハンカチが右手とひっついてしまうぐらい。でも、出せなかった。再び、Kと共同制作者にならなければいけない気がした。それが怖かった。表現者として、私は臆病者だと思う。
 別に演劇じゃなくても良かったのだ。歌でも、小説でも。ただ、何かを証明したかった。
 しかし、私が属していた演劇部は、あまりにも不甲斐なかった。伝統がなかった。発表の場は、大学内のスペースしか用意されていなかった。それは情熱で解決できる問題ではなかった。あの演劇部には、何のコネクションもなかった。
 退部した人にも、それなりの理由があっただろう。でも、言葉にされたのは、純文学論争と同じ類のものだった。彼らは誰かの作った砦にこもり、良心を名のった。だから、証明するしかないと思った。誰かが気づいてくれるまで、物語を演じるしかないと思った。用意されたハッピーエンドではなく、達成されたハッピーエンドに近づくために。
 いくら完成度が低かったとしても、Kと作った演劇には、何かがあったと信じたい。しかし、それすらもわからなかった。賞賛してくれた人も、その言葉の奥にお世辞以上のものがあるとは思えなかった。そのもどかしさが、劇を生んだ。そして、私とKは、二人の個人的関係を劇という表現にたくすという、他人から見れば傲慢な、当事者からすればおそろしく地道な作業に没頭した。
 私たちのやり方はまちがっていたのだろうか。その核にあったのは、きわめて純粋なものだったと思う。それをどこかに導いてくれる存在が欲しかった。残酷でもいい。信頼に足る、心の底に響くような、そんな助言が欲しかった。

     5

――もしかしたら、呼んでいたのかもしれない。
 しばらくの沈黙のあと、こうつぶやいた。
――何が?
――彼女。
――誰だよ、彼女って。
――ナナミさんの腹の中の子供。
 Kは笑った。
――そんなわけないだろ? 胎児に。
――いや、胎児は存在している。人格はなくても、存在している。
――そんなこと言ったら、産婦人科は倒産するぜ。
――ねえ、想像してよ、とりあえず。
――胎児が母胎に呼びかけるの図、をか?
――ううん、その子供が産まれた後のこと。
――最悪だろうよ。父のいない子供なんて復讐の相手がいないじゃないか。
――でも、彼女の面倒を吉田君が見るの。
――女って決まってるのかよ。
――想像だからね。
――それで、吉田は赤の他人の子供の面倒を見るのか。
――まあ、あしながおじさん的に。
 Kは口笛を吹いた。
――ロマンだね。
――そうすれば、友達になれるかもしれない。
――吉田とナナミさんが? まあ、怪しい関係にはなるだろうな。
――ううん、吉田君とその子供がよ。
――それはおもしろそうだな。
 吉田君はうなずいた。
――もちろん、ナナミさんは大変だと思う。赤ちゃんを育てるのは。
――ガキは金がかかるし、わがままだからな。
――でも、服とかは、吉田君が買うのよ。
――ミステリーだね。いつもプレゼントをくれるおじさん。
――そういうふうな可能性だってあるわけよ。
――だけど、父親がいないっていうのは、つらいと思うよ。
――吉田君の言うとおりだと思う。でも、何とかなるんじゃないかな。
――まあな。そうかもしれない。
――だから、ナナミさんが決心つかずに、このまま子供を産んだときは。
――吉田はバックアップしろってことか。
――もちろん、あたしやKでも、できることがあるかもしれない。
――革命家に仕立てあげることもできるしな。
――ダブルデートの仲なんだからさ、あたしたち。そうでしょ?
 Kは腕組みをした。
――なんか、はめられた気がするな。じゃあ、避妊するなってことか。
――いや、妊娠した人が、判断できなかったときは、ね。
――なるほどなあ。
 吉田君は感心していた。
――そういうふうに、考えたことは、なかったなあ。
――でも、こう考えたあとで、堕胎したら悲惨だぜ。
――うん、やりすぎたかもしれない。夢に出てくるかもしれない。
――ナナミさんの子供だもんな。絶対、かわいいだろうな。
――だから、想像しないでよ。吉田君がつらいじゃない。
 吉田君は笑った。
――いや、ありがとう。何だか、軽くなったよ。
――いやいや、あたしは従軍慰安婦ですから。
――まだ、根に持ってんのかよ。

     6

 時間はたえまなく動いている。それはまるでガレキの山のように。人が埋もれたガレキの山のように。今日は雨が降っている。傘をささなければならない。ガレキの中で埋もれている人のために。
 そのガレキを掘り起こすことはできない。なぜなら、誰かを助けるために動かしたせいで、他の誰かが死んでしまうかもしれないから。誰がそれを判断できるのだろう。助ける保証のない人を助けるために、予想できない死者を招くという作業を。だから、私は傘をさしにいこう。
 闘いの代償、愛の報酬。Kはガレキの山の上に立っている。私は叫びたい。そうすれば、誰かが死んでしまうかもしれない。まだ、ガレキの下には人がいる。Kは笑う。死んでるよ、みんな。
 雨にうたれてKは立っている。ここしか居場所がなかったんだとKは言う。どうせ死んでいるのに、それを信じたくないから、誰もこのガレキをどかそうとはしない。ここには誰も来ない。亡命者のおれにはピッタリの場所さ。ねえ、抱かれてくれよ、あんた。
 ガレキにさすべき傘を左手に持った私は、そのまま立ちつくす。どうして、こんなところで、そんなことをしなくてはいけないの?
 あんたをくれよ、減るもんじゃないし。Kは言う。
 その際限なき愛はどこにいくの? 私はたずねる。
 闘いの代償、愛の報酬。Kはくりかえす。
 何と闘ったの? 私はたずねる。
 まともでいるために、まともじゃないものと闘った。Kは言う。
 それは正義? 私はたずねる。
 おれの正義はおまえにはわからないよ。Kは言う。
 抱かれたとしても? 私はたずねる。
 思想だって、正義だって、他人にそっくりそのまま伝わったという話は聞いたことないね。Kは言う。
 じゃあ、何で抱かれなければいけないの? 私はたずねる。
 物語を終わらせるためさ。Kは言う。
 物語の始まりは? 私はたずねる。
 このガレキが壊されたとき。Kは言う。
 このガレキを破壊したのは誰? 私はたずねる。
 世の中を変えようと本気で思った奴らさ。Kは言う。
 世の中は変わったの? 私はたずねる。
 変わった、でも奴らの予想のしない形で。Kは言う。
 それなら、意味ないじゃない。私は首をふる。
 奴らは追いつめられてたんだ、どうしようもなく。Kは言う。
 この下の人たちは何で死ななければならなかったの? 私はたずねる。
 わからない。Kは言う。
 じゃあ、どうして物語を終わらせなければならないの? 私はたずねる。
 気持ちのいい朝をむかえるために。Kは言う。
 それは愛? 私はたずねる。
 それも愛。Kは言う。
 あたしは多分、あなたを愛している。
 おれも多分、おまえを愛している。
 でも、本当にそう思っているのかわからない。
 だから、その傘でおれを刺しにきたのか。
 どうして、傘であなたを殺さなければならないのよ。
 おれはここから動かない。おまえを抱くまでは。
 だから、この傘は。
 おれは帰りたくないんだ。なあ、この物語を終わらせよう。
 そんなことのために、あたしはここに来たんじゃない。
 おまえはおれに抱かれなければならないんだ。
 嫌だ。

 雨が降っていた。ガレキの山に埋もれている人たちのために、傘をさしにいこう。

 きっと、私がいくら言葉を重ねても、すべてを伝えることはできない。それぞれの人には、それぞれに正義という物差しを持っている。それぞれの人が夜に見る夢を遠くで見守ることしか、私にはできない。
 多分、私と人々がつながることができるのは愛で、その愛という言葉でしかなくて、だからあらゆる言葉とあらゆる行動を使って、なんとか愛を表現しようとする。誰かが愛を見失ったとき、私はKと雨の中、愛の貨物列車を狙撃する。愛を独り占めにしようと躍起になっている人々から、愛を解き放つために。
 作られたステージ。その中でおりなされるのは、私とKの愛の葛藤というものだ。いまだに恋人と胸を張って公言できない関係の二人が奏でる、ちょっとギザギザしたワルツ。あなたに楽しんでもらえるかわからない。もしかしたら、幕が下りたとき、その物語が何を意味しているのか分析しているのかもしれない。
 でも、そのステージで、私とKがどれだけ罵りあっても、どれだけ睨みあっても二人の絆が壊れないことだけは、あなたに見てもらいたい。それだけかもしれないな。あなたがこの劇を見て、知るべきことは。
 あなたのために特等席を用意している。でも、どの席も特等席なのかもしれない。ちっぽけな会場のちっぽけなステージ。手を伸ばせば届きそうなぐらい近い観客席。
 ただ、私はあなたに見てもらいたい。誰かと誰かをつないでいる絆。それをあなたの目で見てほしいのだ。あなたの目をさえぎるものは、そこには何もない。首を左右に動かさなくてもだいじょうぶ。いざとなれば、後ろにいって立てばいい。それでも、私の表情は、はっきりと見ることができるだろう。
 今日、私たちは私たちだけのワルツを演奏する。あなたが誰かとつながっていることを知ることができるかもしれない。あなたのために特等席を用意している。ぜひ、来てほしい。

     7

――虹が、かかってたんだ。
 Kは言った。
――その上を渡れるような、がっちりとしたものじゃないけど。
 起きあがって窓を見る。雨は、なかった。
――それにしても、虹が七色なんて、誰が言ったんだろうな。
――確かに、あれは何色なんだろう。
――虹色。
――なるほど。
――そりゃそうだ。
 窓を開けると、まだ湿ってはいるものの、風が吹いてくる。
――ねえ、タバコ、吸ってもいい?
――持ってきたのかよ。
――ねえ、吉田君?
――ああ、この灰皿使いなよ。
 吉田君は灰皿を抜きとって、渡してくれた。
――このニコチン中毒女。
――それほどは、吸ってないけどね。
 タバコを吸う。最高におしかった。
――インディアンは神聖な儀式に使ったんだって。
――タバコを? 薬じゃなかったか。
――いや、大人になるための儀式に使われたって聞いたことがあるな。
――まあ、何となく神聖な気分にひたりたいじゃない?
――何の儀式だよ、いったい。
――さあね。
 車内時計を見る。午後六時だった。
――ところで今、どこに向かってるの?
――南。
――ねえ、引き返さない?
――なんでだよ。亡命の途中なのに。
――花火大会、やるんじゃない? このままだと。
――ああ、あったなあ。そういうの。
 そこで、吉田君は苦笑した。
――外、見てみなよ。何だか見慣れた風景じゃない?
――そういえば。
 道の向こうに、見慣れた景色が待っていた。私が住んでいる街。Kや吉田君やナナミさんに出会った街だ。
――なんだ、結局、引き返したのね。
――まあな、いろいろやり残したこともあったからな。
――忘れ物をしたってわけ? 亡命者失格ね。
――まあ、そういうことにしとくよ。
――ところで、花火大会ってどこでやるんだっけ?
――あそこの河川敷じゃない?
――でも、時間あるよなあ。
――パスタ、食べに行かない?
――パスタ?
――すごくおいしいところがあるのよ。
――どの辺?
――この国道からちょっと入ったところ。
――なんか、信用できないなあ。
――だいじょうぶ。何度も行ったから。
――そりゃ楽しみだ。
――それよりも本当に行けるんだろうな。この前だって。
――あのときは、雑誌で読んだだけだったから。
――でも、おれはナビゲーターとしてのおまえを信用しない。
――それは結構。
――まあまあ、俺は頼りにしてるから。

 本当は他に語るべき台詞があった。でも、とけこんでいくことしかできなかった。少しずつ空が赤らんできて、それが私たちすべてを照らすような。そしてそれが、きっと、私が手に入れることができる唯一の幸福なのだ。
 考えるのはもうやめた。今夜はいい夢を見ることができる。孤独に叫ぶことも、涙を流すこともない。もちろん、その前に花火大会がある。実は私、子供時代から、花火はとても好きだったのだ。


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