大事な話  
砂々利     

 サラダを盛った器を持っていくと、ケンジは食卓代りのテーブルに片肘を立てて、部屋の隅にあるテレビを眺めていた。いつものことながら、男の人のこういう無神経さは、少々うらやましくさえ思える。料理ができなくったって、食器を運ぶのくらい手伝ってくれてもいいのに。でも、口にすればケンカになるし、もう六年もこうしているのだから、諦めるしかないんだけど。
「カレー、おかわりするでしょ?」
 テレビに集中していて聞こえないのか、返事しなくてもわかるだろうと考えているのか、全くの無反応。うんとかすんとか言いなさいよと思うのだけど、つまらないことで機嫌を悪くしてもしかたない。無言を肯定と解釈して、お皿にご飯を控えめによそう。
 そういえば電話で、「大事な話がある」なんて言ってたけど、ちっとも話し出す気配がない。ま、ケンジのことだから、どうせ大した話ではないんだろう。期待したって、裏切られるだけなんだし。
 カレーライスをテーブルに並べて、スプーンを置いても、ケンジはずっとテレビばかり見ている。いつもなら、用意ができたら何も言わずに食べ始めるのに。声をかけようとしたとき、ケンジが熱心に見ているテレビのことが気になった。
 浮気とか離婚とか、そういった文字か書かれたグラフがモニターに映り、よく見かけるようなタレントさんたちがそれについていろいろと言い合ってる。下らない、なんて思いながらもついつい目が釘付けになってしまう。ケンジって、こういう番組は嫌いなんだと思ってた。私の部屋で男女関係についてとりあげた番組なんて、一緒に観たことなかったから。
 コマーシャルになると、ようやくこちらに顔を向けたケンジと目が合った。彼はなんだか慌てたように目をそらして、テーブルの上の料理に視線を向けた。
「うまそうだな」
 そう低い声で感想を言って、スプーンを手に取った。いつもとおんなじカレーなのに、そんなことをわざわざ言うなんて。そういえば、今日は珍しく寝転ばずにテレビを見ていた。
 再び、番組が始まった。でもさっきのコーナーは終っていた。ケンジは右手で床からリモコンを持ち上げて、テレビを切ってしまった。
「浮気ってのはさ、べつにかまわないと思うけどな」
 恋だとかキスだとかを口にするだけでも恥ずかしがるケンジが、消えたテレビを見つめたまま、そんな事を言い出したから、私は呆気に取られてしまった。
「結婚してるのに浮気するのは確かに間違っていると思う。結婚って、そういうことをしないって約束することだからな」
 ケンジが何を言おうとしているのか分からなくて、とりあえず頷くことくらいしかできない。ただ、何だか嫌な予感がした。
「でもさ、ただ付き合ってるってだけの関係で、浮気をしたからって悪いことじゃないだろ?」
 その言葉には、さすがに頷けない。鼓動が、少しずつ高鳴っていくのがわかった。
「そんなこと、ないんじゃない? 付き合ってるってことは、そういう約束をしたってことよ」
 努めて冷静に意見した私に、彼はスプーンを置いて、強い視線をぶつけてきた。その目に突き放されてしまうように感じて、体が震えそうになった。
「いいか、よく聞け。結婚はちゃんと誓いの言葉や儀式があって、その約束をしてるんだ。付き合うってのはそういう形式的なものは何もないだろ」
「でも普通は付き合うって言ったら、他の人とそういう関係になっちゃいけないものでしょ」
「それは、そういう風にお前が思い込んでるだけだ。誰もそんな定義なんかしちゃいないし、一人一人が勝手に、漠然と付き合うってことの約束事を自分で決め付けてるだけだ。はっきり約束してないのにそれを相手に押し付けるのは間違ってる」
 顔が熱くなってきた。大声を出したら、たぶんそのまま泣いてしまう。
「……だって、付き合うってことは、結婚を前提にしてお互いが自分の結婚相手として合ってるかどうかを知るためのものじゃないの?」
「それはそうさ。だからこそ、一人の相手に束縛される必要なんてないじゃないか。複数の人と付き合って、自分に一番ふさわしい人と結婚すればいいんだ」
「そんなの、おかしいよ!」
 だめだ、頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。口ゲンカじゃケンジに負けたことないのに。どうして、そんなこと言い出すの? ケンジって、そんな奴だったの?
 涙が落ちたとき、はっと気づいた。大事な話って、その事なんだ。
「なぁ、カズミ」
 声のトーンが下がってる。
「落ち着いて聞いてくれ」
 体中の血が頭に上ってきてくらくらする。もう、限界だ。
「……でてって」
「おいカズミ……」
「でてってよ、そんな話もう聞きたくない!」
 手当たりしだいにクッションや本を投げつける。何がなんだかわからなくなっていた。ただ、泣き叫ぶことしかできなかった。長い間信じていたものが、ぜんぶ壊れていくみたいに、言葉にならない声を上げていた。自分はもっとクールな人間だと思っていたのに、こうすることでしか自分を表現できなかった。
 ケンジが部屋から出て行くと、心も体も真っ黒い泥みたいに重くなっていたのに、涙だけは流れ続けた。
 最近、確かに様子がおかしかった。一緒にいても妙にそわそわしてた。けどそれは、仕事のことが気になってるんだと思いこんでた。今までだって、彼を疑ったりしたことなかった。だから、裏切られたっていう気持ちより、彼を信じ続けていた自分の単純さが恨めしい。
 このまま私たち、ダメになっちゃうのかなって思ったら、息が掠れてしまいそう。でも、もうどうすることもできない。
 不意に、けたたましい音が鳴り響いた。ケンジからの電話だ。わかっていても、動く力が残ってない。しばらく放っておくと、カチャっていう音がして、テープに吹き込まれた私の馬鹿みたいに明るい声が、外出中であることを告げた。そして甲高い一本の電子音が鳴ると、ケンジがぎこちなく名乗る声が聞こえた。それから、少し沈黙があった。
「……ゴメン、怒らせるつもりなんかなかった」
 わかってる。ガラにもなく妙に気を遣って、遠回しにあんなことを言い出したことくらい。言い訳をしてたんじゃなくて、私を傷つけたくない一心だったことに気がつかないほど、ニブくない。でもどんなに工夫しても、どんな言われ方しても、傷つくのは同じなのに。
「今日は本当に、大事な事を言いにきたんだ」
 聞きたくない。そう思っても、体が重くて電話までの距離が遠い。でも、どこか私の中で、気持ちに整理がつきはじめていた。はっきりと彼の口から聞いてしまえば悩むこともなくなるかもしれない。
「俺の座ってたクッションの下を見てくれ」
 テーブルの下に目を向けたが、何も見当たらない。
「それを持って、南公園まで来てくれ。俺は、待ってるから」
 電話が、プツリと切れた。
 さんざん泣いたおかげでか、落ちついてきたためか、少しだけ体が軽くなっていた。もうこうなったら、早くすっきりさせてしまいたい。そんな気分になっていた。
 彼の座っていた辺りを探すと、本棚の横に見慣れない真っ白な封筒が落ちていた。手に取ると、紙以外のものが入っているような重さを感じる。これをわざわざ持っていくことを思えば、ここで中身を見てしまった方が楽になれる気がして、封を切った。
 さかさまにすると、手の上に小さな金属が落ちてきた。
「これって……」
 その光を見た途端、体中の力が抜けた。銀色の輪に、輝く宝石。それは曇っていた心を吸い込んでしまうくらい、澄んだ光たった。
 ひどいのは私の方だったんだと気づいて、ケンジの気持ちを想ったら、切なさで胸が痛くなった。
 それにしても、こんな大切なものを封筒なんかに入れて持ってくるなんて。でもそれが、やけにあの人らしくて、可笑しかった。可笑しかったけど、笑顔にはなれなくて、強く目をつむった。早く会いたい、そう思ったけど、彼の忘れ物を両手でぎゅっと握り締めると、さっきまでとは違う温度の涙があふれてきて、また動けなくなった。




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