誰よりも遠くへ  
砂々利     

 今までずっと前ばかり見て歩いていた前田が、ゆっくりと振り向いた。しかし、先程までのような自信たっぷりの表情ではなく、力ない笑顔を見せていた。
「男と女のことは、正直言ってよくわからない」
 看板の青いネオンに照らされたその顔は、実に頼りなく見えた。智美は行き交う人々の邪魔になるのを承知で、立ち止まった。
「私は、あると信じてます」
 お腹に力を入れて声にした。車の音や雑踏なんかに負けないように。
 一歩だけ智美に近づいてきた前田の顔は、もうネオンに染まっていない。しかし智美は声を低くしたくなかった。
「男も女も、同じ人間だから。人間として、お互いに友情を感じることはあるはずです」
「君は、大人だな」
 前田は、また楽しそうに笑った。さっきまでの泣き出しそうな表情はすっかり消えてしまっている。
 遠くで、大型車のクラクションが鳴った。自分の失言に気づき、智美は顔が熱くなった。自分だって何も知らない。人並みの恋愛経験もないのに、分かっているようなつもりになっていた。今日だって香代に無理矢理連れてこられただけで、普段は前田と同じように異性と話をすることだって、あまりない。
 恋愛経験の多い友達はみんな、男と女の間に友情は芽生えないと言っていた。本当は、あって欲しいと願う願望が生んだ、ただの幻想かも知れない。
「まあ、あんまり……」
 落ち着き払った声だったが、前田は珍しく言い淀んだ。
「今日初めて会ったばかりの人とする話じゃなかったな。すまない」
 智美はその言葉に素早く顔を上げた。前田は車の行き交う道路の方に顔を向けていた。
 彼が謝ることではない。他のみんなが議論していたこの話題を口にしたのは智美の方だ。しかしそんなことよりも、前田がどうしてそんなことを言ったのかが気にかかった。怒らせたとでも思ったのだろうか。
 走り去る車のライトが、前田の表情を次々に変えていた。何と言って声をかけようか、智美は迷った。
「俺は、大学を卒業したら、会社を創ろうと思ってるんだ」
 流れゆくライトを眺めながら、彼はふとそう言った。
「今の自分に何ができるかわからない。けど、何かをしないといけない。俺はその何かのために生きてるはずだ。だから普通にサラリーマンなんかやってるわけにはいかないって思うんだ」
 智美に投げかけられた前田の視線は、すぐに横にそらされた。前田が何を言おうとしているのかわからず、智美は彼の横顔を見つめ続けた。
 前田はしばらく落ち着きなく指先を動かしながら道路に目を向けていたが、やがて指の動きを止め、口を開いた。
「俺には、君が必要だ」
 胸が、強く締めつけられた。さっきとは比べ物にならないくらい顔が熱くなった。そういう意味ではないことはすぐにわかったのに、胸の鼓動が止まらない。それなのに、彼から目をそらせない。
「君のように、俺とは違った視点から物事を冷静に見つめられるパートナーがいれば、うまくいく気がするんだ」
 ようやく、前田は智美の顔を見つめてきた。その恐くなるくらい真剣な眼差しに、智美はつい頷きそうになった。しかし、すぐに我に返る。叶えたい夢が、智美にはある。
「私、教師になりたいんです。教師になって、子供たちを救いたいんです」
 自分の声に、少し驚いた。こんなに強く、夢を語ったことはなかった。
「救いの手を待ち望んでる子供たちは、たくさんいるんです。だから私は教師になりたいんです」
 しかし、前田は自信たっぷりの笑顔に戻った。
「君には、子供を救うことはできないさ」
 いきなり挑発的な事を言われたが、怒りよりも先に、不安を感じずにいられなかった。彼の自信に満ちた態度は、智美の心を揺さ振った。それでも、智美は反抗した。
「たとえ無駄だとしても、私にできる精いっぱいのことはやります。少なくとも前田さんのお仕事を手伝うよりは、子供たちの助けになれます」
「本当に子供たちを助けたいなら、教師なんかやってるヒマはないんじゃないか」
 彼の言葉が尖った。もう、笑顔を浮かべてはいない。
「一生懸命やれば何でもできるなんて思い上がるな。君と同じ志を持って挫折していった教師が何人いると思ってるんだ」
 彼は激しい口調で強く言い放った。
 叩かれる、そう感じて智美は身構えた。しかし、前田は体を智美とは反対の方に向けた。智美には、その目が赤くなっていたように思えた。
 前田の背中を見つめて、智美は考えた。自分は、子供たちを救えるだろうか。そして、彼の言うように他の方法を真剣に考えた上で教師という手段を選ぼうとしているだろうか。その問いに、智美は答えを出せないことに気づき、ショックを受けた。
「だから」
 前田は背を向けたまま言った。
「だから俺と会社を創らないか? お金さえあれば、多くの子供たちを救えるさ」
 その意外な台詞に、智美は聞き返したくなった。なんだか拍子抜けした感じだ。本気でそんな事を言っているのだろうか。お金はもちろん万能ではない。物質的な欲望を満たすための物でしかない。今の子供たちが必要としているのは物ではない、心なのだ。
「お金では何も解決しません」
 智美は思い切って意見した。
「使い方次第さ」
 前田の顔は見えないが、またあの自信に満ちた笑顔をつくっているような気がして、智美は呆れた。
 結局、前田は考え方が子供なのだ。お金で何でも解決できると信じ、問題を先送りにしてしまう。それこそ、そういう考え方で失敗してきた人はたくさんいる。
 それに、おそらく彼はお金を手に入れても、子供たちのためにその多くを使うつもりではないだろう。そもそも、自分のなすべきことがわかっていないまま、いい加減に道を選んでしまうような男なのだ。
 自分は、この男とは違う。智美はその背中を睨みつけた。自分の正しいと思える道を見つけて、絶対に夢を叶えてみせる。
「前田さんのように考えることはできません。私は自分のやり方で子供たちを救います」
「だからさ」
 前田はまじめな顔で振り向いた。
「君のような考え方ができる人が必要なんだ」
 智美は前田から左に顔をそらした。
「君は賢い人だ。自分がどうすべきか、もうわかっているはずだ」
「ごめんなさい、私、もう帰ります」
 逃げたい。智美はそう思った。いろいろ言われて、頭の中がうまく整理できない。彼といると自信が奪われていくような気がする。ここから逃げ出せば、またいつもの平静な自分でいられるだろう。
 前田と目を合わせないようにして、彼の横を通り抜ける。彼は一歩も動かなかったが、最後に一言、こう言った。
「一週間後、今日と同じ時刻に、あの店で待ってる」

「それってさぁ」
 香代はストローから口を離して、コップをテーブルに静かに置いた。
「つまり、告白されたってことでしょ」
 上目遣いに見つめるその瞳は、彼女特有の輝きを放っていた。いつもこの輝きを見てきたが、自分に向けられるとは想像すらしたことがなかった。
「やめてよ。そういうのじゃないんだってば」
 こういう時に言う台詞を用意していない智美は、とっさにその台詞が口をついて出た。いつも、瞳を輝かせた香代に見つめられた友人たちが口にしていたものだ。
「ただ智美がニブイだけなんじゃないの?」
 少しつまらなさそうに、香代は口を尖らせた。
 智美は「ニブイ」という言葉に、一瞬、息が吸えなくなった。高校の頃から、友人たちにそういう評価を受けてきた。昔はそれでも構わなかったが、最近は少しつらい。智美と香代の二人以外には、男性と付き合ったことのない女友達はいない。それに香代は自分よりも他人の恋愛に興味があるという性格だから、少しわけが違う。
「前田さんは、あくまでビジネスのパートナーとして私を選んだだけよ」
「でも、合コンに来てそういうつもりがない男なんていないと思うけどなぁ」
 さすがに、香代は男を見る目が冷静で現実的だ。それでも、智美は首を振った。
「私と同じで、無理矢理連れられて来たんだってば」
 早口で言いきって、ハンバーガーに手を伸ばす。そして大きく口を開けて頬張った。こういう態度を見せないと、香代はしつこく追求してきそうだ。
「ま、いいや。そういう事にしとこう」
 香代はストローを口にくわえて、残りのコーラを一気に飲み干した。まだ、瞳に輝きが残っている。やっぱり疑っているらしい。
「それにしても、前田さんてすごいね」
「何が?」
「智美が先生になるのを、ためらわせたんでしょ」
 香代はまた、ストローに口をつけた。
「ためらってるわけじゃなくて、なんていうか、考え方を改めなきゃいけないなって、思わされたの」
「ふーん」
 ストローで解けて水になった氷をすすりながら、香代は鼻で答えた。智美も自分のストローに口をつけた。吸い上げると、オレンジジュースは少し薄くなっていた。
「じゃあさぁ」
 香代は味のない水を吸うのを諦めて、ストローから口を外すと、テーブルに右ひじをついてその上にあごを置いた。
「なんで、あたしに相談してるわけ?」
 智子はハンバーガーを口に運ぼうとしていた手を止めた。
「私、相談なんて言ったっけ」
 あまり意味はないが、わざととぼけてみせた。
「このコーラ代、相談料って約束になってるんだけど」
 香代の目が据わっている。少しでもお金が絡んでくると、人が変わる。扱いやすい性格だと智美が考えていることを知っていて、扱われているフシが彼女にはある。
「まぁ、話はだいたいわかったから、コーラ代分の仕事はきっちりしてあげる」
「でも、やっぱり相談することがないみたい……」
 言いかけたところに、香代が右手の平を突き出してきたので、おとなしく口をつぐんだ。
「相談っていうのはね、頭の中でもやもやしてどうしたらいいか判断できないことを、他人に話して答えを見つけようとすることなの。だけど、他人に話している間に、たいていその問題の答えが出るのよ。だからよく、相談する人は相談する前から答えを出してしまっている、なんて言う人がいるでしょ」
 智美は、香代の突然の饒舌ぶりに圧倒されながらも、頷いた。
「けど、そんなことを言うのは三流ね。だって相談したいことの中で一番重要なのは、もやもやとしていた部分なんだから。頭の中のもやもやは、話をするときに無理矢理論理的にされちゃって、簡単に答えの出る問題になるの。だけどそれは、もやもやの中の大事な部分が欠落しちゃってるわけよ」
 香代の瞳が、いつものとは違う輝きを見せていた。その熱心な態度に、智美は妙に感心していた。
「たいてい、悩みは隠しておきたい本心のせいでもやもやになってるの。それは論理的じゃないし、他人に話したくないし、そもそも自分でも意識してない気持ちだったりするから、相談している時にはその部分が隠れちゃってて、答えが簡単に出てきちゃう」
 輝きを増した香代の瞳を、智美はじっと見つめた。
「というわけだから、相談されたあたしとしては、智美の本心を探ってやらなきゃいけないわけよ。今の智美は、自分の本心を見失っちゃってるからね」
 そう言われても、自分ではよくわからない。いや、わからないということ自体が、香代の言葉の裏付けになっている気もする。
「いい? 今からあたしが分析した、智美の本心をいくつか言うけど、それに反論しちゃ駄目。それが当たってるかどうかは、智美が一人でじっくり考えることだからね」
 なんだか、催眠術でもかけられている気分だ。信用してしまっていいのかどうかわからない。しかしそんなこと香代には言えない。しかたなしに、智美は香代の表情を見つめながら頷いた。
「じゃあ、目をつぶって」
 真剣な口調に逆らえず、素直にまぶたを閉じた。すると、香代がゆっくりと息を吐く音が聞こえた。
「いい、絶対に目を開けたり、反論しちゃ駄目だからね」
 智美は黙って少し顔を下に向けた。
「智美は、本当は先生になる以外の道を探したくなっている。けど、今までずっと夢だと思ってきたことだから、簡単に変えてしまうことに抵抗を感じてる」
 夢だったから、というのは当たっている気がする。でも、それだけで教師になりたいわけじゃない。言い返したいが、約束通りこらえる。目を開けていたら、簡単に口が開いていただろう。香代が相談に慣れているのは知っていたが、少し見直した。
「前田さんのパートナーって言うのも悪くないと思ってる」
 それはない。ああいう考え方の人と一緒に会社をやっていく自信なんてひとかけらもない。
「子供を救うってことを使命と感じてるけど、実はそれは単なる言い訳でしかない」
 そんな風に思っていたのか。いくら友達でも、許せない。子供たちを救いたいのは本当だ。それなのに……。
「自分が何のために生きてるか、なんて事を追いかけながら生きていくのが嫌だから、子供を救うっていう言い訳を用意してるだけ。それを前田さんに見抜かれたから、気持ちがぐらついてる」
 嘘だ。香代の勝手な想像だ。反論してはいけないのなら、せめて耳をふさぎたい。本当に、香代に催眠術をかけられているようだ。
 こうして何かを言われるたびに、ひょっとしたら香代の言葉はすべて真実なのかもしれない、そんな気持ちになってきた。手の中が不快なほど湿ってきた。閉じているまぶたも疲れてきた。暗闇がこんなにも恐ろしいなんて、今までなかった。
「素直な気持ちになれば、きっと前田さんの方に行く。でも、前田さんといるといろいろと心の中を見抜かれてしまう。それが恐い」
 頭が朦朧としてきた。このまま眠れたらいいのに。
「それに、智美は……」
 香代の声が急に小さくなった。いまさら、何を躊躇しているのだろう。
「これ以上は、あたしが言ってもしょうがないから、智美が自分で考えて」
 何のことだかさっぱりわからないが、香代の言葉が切れたので、顔を上げた。
「コーラ、ごちそうさま」
 目を開けると、香代は席を離れて逃げ出していた。
 智美は何か言い返そうと思って立ち上がったが、周りの人たちの視線が気になって、おとなしく腰を下ろした。

 予定の時間よりも、わざと早く約束の店まで来た智美は、その中には入らずに、少し離れた所で立ち止まった。一人で入っても何をどうすればよいのかわからずに、居心地の悪い思いをするのは目にみえている。それに、お酒や焼き鳥のにおいが服につくのは避けたい。前田に失礼のないように、それなりの服装を選んできたのだから。
 自分の答えは出せた。あの時は少し頭にきたけど、結局は香代のアドバイスのおかげで、悩みがある程度整理できた。今度、また何かおごってあげないといけないだろう。香代がいなければ、あのまま逃げ出していただろうから。
 しばらく佇んでいるうちに、背広姿のサラリーマンたちが、ここや近くのお店に吸い込まれるように入っていくようになった。出てくるときには酔っ払ってだらしなくなるのだろうが、入る時はみんなネクタイを締め背筋を伸ばしているのが、不思議に思える。智美の父親も、大の酒好きだった。しかし、智美は子供の頃から、酔うと手のつけられなくなる父もお酒も大嫌いだった。
「早かったんだな」
 聞き覚えのある声に、智美は顔を上げた。
「来てくれてうれしいよ」
 前田は、相変わらずの自信に満ちた笑顔を浮かべていた。しかし服装はこの間のようなラフな格好ではなかった。髪もしっかりと整えられていた。
「今日は、静かな店の方が良いな」
 智美がまだ一言も喋っていないのに、前田はすでに浮かれている。こう見えて、智美が来るかどうか不安だったのかもしれない。そう考えると、少しかわいそうに思えた。だが、智美は迷わずに口を開いた。
「お店に行かなくてもいいです。話はすぐに済みますから」
 前田の笑顔が、消えた。しばらくの間、智美を見つめ続け、そして両目を足元に向けて、何度も瞬きをした。
「じゃあ、返事を聞こう」
 ややうつむいたその顔に街灯が深い影を刻み、前田をずいぶんと痩せこけたようにみせた。その姿は、智美の背中に震えを感じさせた。
「私、やっぱり教師になります」
「そうか」
 前田は険しい顔で、智美の目を見つめた。智美はそれだけで息が止まりそうになった。このまま見つめ続けられたら、また逃げ出さなくてはいけなくなる。そう感じた。
 しかし前田は、視線を外した。
「この間は、ひどいことを言って悪かった。このとおりだ」
 前田は智美に向かって、深く頭を下げた。
 それが信じられず、智美は左手で自分の口を覆った。
「やめてください。私、別に怒ったりしてませんから」
 下げたままの頭を、前田は横に振った。
「君が教師を選ぶなんて思っていなかった。だが、言い訳をしたところで、俺が君の進む道をけなした事は事実だ」
「そんなことはないです」
 智美は努めて冷静に、そして優しい声を選んだ。
「あんな風に言われなかったら、私はあのまま、何もできない教師になっていました」
 前田は固まってしまったように動かない。
「感謝してます、本当に」
 心から、そう思う。今までは教師になるという夢を盾にとって、自分というアイデンティティを確立しているつもりになっていた。だけどそれは、夢というカラをかぶって自分をごまかしているだけだった。本当の自分は何も分かっていない子供だった。自分のために他人を救いたっかったのだ。
 だけど、今は違う。他人を救うために、そのための自分でいたい。そういう人になりたい。この目の前にいる人のように。
「俺は君の思っているような考えで、あんなことを言ったんじゃない。君に教師を諦めさせようと思って、卑怯な事をしてたんだ」
 胸の鼓動が、少し強くなった。前田の目が、泣いているような気がした。彼は、こんなに弱い人間だったのだろうか。自信に満ちた態度は、ただの虚勢だったのか。
「君と別れてから、自分の事をいろいろと考えた。それで、自分が姑息で卑怯で見栄っ張りで馬鹿でどうしようもない奴だって気づいた。俺は最低な男だ。誰かのために何かをする前に、自分をどうにかしないといけないんだ」
 智美は目頭が熱くなるのを感じた。胸が、熱くて痛い。
「私も、同じです。私も、自分の事もろくに分かってないくせに、子供たちを救うなんて、生意気な事を考えてたんです。そんな資格はないのに」
 前田は、ゆっくりと顔を上げた。苦しげで、不安に満ちた瞳が、智美の視線にぶつかった。
「だけど、こうして気がつきました。私たちは変わればいいんです。今までの自分を捨てて、自分のなりたい自分に変えていけばいいんです。それは簡単なことじゃないですけど、きっとできます」
 つらそうな表情のまま、前田は微笑みを見せた。
「君は、強いんだな」
「だって」
 智美は声に力を込めた。
「私たちには、やらなきゃいけないことがあるんですから」
 前田は肩を落し、首をうなだれ、長い息を吐いた。そして、再び前を向いたその顔には、いつもの笑顔が戻っていた。
「確かに、そうだな。君の言う通りだよ」
 その顔には、少し変化があった。張りつめた雰囲気がなくなり、力が抜けていた。虚勢ではなくなったのだろう。智美はそれを真似して微笑んで見せた。
「君なら、夢を叶えられるさ」
 前田のしっかりと伸びた手が、智美の前に差し出された。その手を掴み、智美は手の大きさで負けないように、力を込めた。
「前田さんも、きっと変われます」
 しばらく握っていた手を放し、前田はスラックスのポケットに手を入れた。そして、流れゆく車に目を向けた。
「一歩だけでいいんだ」
 かすかに、呟きが聞こえた。
「俺は、まだ何をすれば良いのか分かってない。けど、どの道を進んだとしても、遠くまで行きたい。一歩だけでいい。一歩だけ、誰よりも遠くまで……」
 智美はなんとなくその気持ちがわかる気がした。智美だって、教師という道を進む以上、人の後ろばかりついていきたくはない。少しでも前に進みたい。それが夢を叶えることに近づくことだから。
「君とこうしていると、あるような気がしてくるよ」
 前田の見ている方に顔を向けて、智美は尋ねた。
「何が、ですか?」
 彼の顔を覗き込むと、子供のような笑顔を智美に向けてきた。
「ほら、この前言ってただろ。男と女の友情ってやつさ」
 智美はゆっくりと微笑んだ。しかし、賛同はしたくなかった。香代の言っていた、自分の本当の気持ちに気づいてしまったから。
「今日は、ここで別れよう」
「そうですね」
 微笑んだまま、あっさりと頷いた智美には、前田が少しさびしそうな顔を見せたような気がした。しかし、すぐに元の笑顔に戻っていた。
「俺が社長になったら、連絡するよ」
「その時は、おいしいものをごちそうしてくださいね」
「しばらくは、教師の方が給料が多いだろうけどな」
 ひとしきり笑って、前田は別れの言葉を告げた。そして、智美に背を向けて、歩いていった。遠ざかる背中が、智美の目には鮮やかに、そして大きく映った。
 走って追いかけたい。そして、同じ道を並んで歩きたい。もう自分の気持ちをごまかさずに、素直にそう思う。
 けれど、智美はその足を前田の歩いていった道とは反対の方に向けた。そして、ゆっくりと歩きはじめた。




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