「月明かりの優しさに」  
砂々利     

 彼女の考え方はいつも、僕の考える常識から少しばかり外れていた。もちろん、僕の価値観と彼女の価値観は違うのだから、そういう風に感じられる面もあるのだろうし、僕の考えがいつも常識的であるとは限らないから、彼女の考えが正しいのかも知れない。しかし、彼女を知る友人たちは口を揃えて、
「カワッテルなぁ」
 と評していた。それは、彼女の女友達たちでさえも、同じ意見だった。
 電車に乗っていて、近くに老人が立っているのを見つけると、彼女は必ず席を譲る。それで、僕だけ座っていてもカッコつかないので、僕も座席を立つ。すると彼女は平然と僕のいた席に座るのだ。彼女の言い分はというと、
「人の好意は、素直に受けとくべきでしょ」
 だそうである。僕は呆れているのだが、いっこうに構わないらしい。彼女は、好意を押し付けたり好意に素直に甘えたりすることが親切である、と考えているようだ。一度など、席を譲ろうとした相手を怒らせた事もあった。年寄り扱いするな、と怒鳴られたのだ。しかし彼女は平然と言い放った。
「ごめんなさい。でも私は人生の大先輩を目の前に立たせておいて、自分たちだけ座っていることができなかったんです」
 その言葉で、老人はしぶしぶ席に座った。おかげで、それから延々と彼の人生哲学を聞かされるはめになった。あの時はつくづく彼女の性格を恨んだものだ。
 彼女は、自分が正しいと思う事は絶対に間違っていないと思っている、多少融通の聞かない人間だ。その上に、口論になるとすぐに正論で攻めてくるから、僕に勝ち目はない。でも、世の中は正論だけがまかり通るわけではない。正論は頭の中ですぐに正しいと判断できる、極めて単純な論理でしかない。そこでは現実の複雑な問題は無視される。僕は優しさから、そんなことは言い出さないが、そこを彼女はわかっていない。
 それに、彼女は人の気持ちを考えないところがある。
 僕も彼女もカラオケが大好きで、何もやることがないときは、とりあえずカラオケということになっていた。いちおう、二人ともそこそこ上手いつもりだ。たいていは、ほかの友達を誘って行くのだが、たまに二人きりで行くこともある。
 その時も二人だけだった。お気に入りの歌手が出した新曲の練習したい、と彼女が言い出したのだ。それで出掛けたまでは良かったのだが、店に着くなりちょっとした口論になってしまった。例によって彼女の悪い癖が出たのだ。

「ねえねえ、あの人、一人なのかなぁ」
 彼女が指差した方を見ると、若いサラリーマン風の男が、部屋に一人きりで熱唱していた。連れの姿のなく、飲み物の入ったグラスも彼一人の分しか見当たらない。
「そうみたいだな」
 噂には聞いていたが、ちょっと異様な光景だ。見ているとなんだかこっちが恥ずかしくなってくる。あんまり見ているのも可哀相なので、僕は彼女の手を引いて自分たちの部屋へ行こうとした。が、それよりも先に、彼女がまた突拍子もないことを言い出した。
「あの人も、仲間に入れない?」
 僕は冗談か何かかと思ったのだが、彼女の瞳は真っ直ぐに僕を見つめていた。
「余計なことはしない方がいいよ」
 うかつなことを言えば、彼女はすぐに彼を連れてきそうだった。大体、彼女の言葉が恐ろしい。普通なら、せめて「誘ってみない?」とでも言いそうなものだ。きっと相手の意志とは関係なく、無理矢理に僕らの仲間にしてしまう気だ。
「だって、楽しくなさそうだよ、一人って」
「いいの、好きでやってるんだから。楽しくないなら一人でくるわけないだろ」
 つい、言葉が荒くなる。
「でも、聞いてみないとわからないよ」
「聞かなくったってわかる。ここで哀れんで声を掛けたりしたら、失礼だよ。こういうのは見なかったふりをしておくのが、優しさってものだろ」
 彼女はそれでも何か言おうと口を開いたが、ただ唇がわずかに震えただけだった。口論で彼女に勝つなんて、初めての事だ。なんだか、妙に嬉しかった。
 その日の帰り道、車の中から空を見上げて、彼女は呟いた。
「月って、ちっともやさしくなんかないよ」
 僕は運転しながら、彼女の横顔をちらっと見た。
「さっきの歌の詞にあったでしょ。月明かりの優しさに元気づけられる、って」
 少し言葉が違っていたが、指摘するほどのことでもないので聞き流した。
「だけど、それってやさしさじゃないと思う。月は何もせずにただそこにあるだけだもの」
「それが優しさだと思うよ、僕は」
 制限速度を超えて、アクセルを踏み込む。少し、彼女の体が強張った。
「私には、そうは思えない。やさしさって、相手の気持ちを思い遣ることでしょ。だったら何もしないのはおかしいわ」
「相手の気持ちを想うからこそ、そういう時は月のように何もせずに見守るんだよ」
 彼女が体をこっちに向けて、身を乗り出した。
「何もしないのは、やさしいからじゃなくて、何もできないからでしょ」
「いちいちおせっかいを焼くのは、人の気持ちをわかってないからだろ!」
 強く言い放ってから、ゆっくりと彼女の顔色を伺う。そして、出し過ぎていた速度を落とす。少し興奮しすぎていたらしい。普段はこんなに荒っぽい運転はしない。
 彼女は、静かにうつむいていた。少し、きつく言いすぎたかもしれない。
「だって、見守ってるだけじゃ、気持ち、わからないよ…」
 気づかぬ間に、止まってしまいそうなほど速度が落ちていた。
「みんな、どうしてあんなに、人の気持ちを決めつけるの? それって、やさしくなんかない。みんな残酷だよ」
 車体が激しく震えた。僕は慌てて、噛み合わなくなったギアのまま、速度を上げる。
「自分の心の中を見られるのは、嫌だろ。だから相手の気持ちを考えて…」
「考えても、わからないよ。どんなに分かってあげようと思っても、言ってくれなきゃわからないよ!」
 そう叫んで、彼女は肩を震わせた。低く、鳴咽がもれる。
 ハンドルを握る両腕に力を込める。心臓の鼓動が高鳴っていた。初めてだった、彼女が僕の前で泣くのは。
「何か、あったの?」
 ゆっくりと速度を落とし、車を停めた。そして彼女の顔を見ないまま、僕は返事を待つ。
 いくつもの光が二人の間を通り抜けていく。さまざまな台詞が、僕の頭によぎる。だが、車の座席の距離が、それを口にするのをためらわせた。
 ふと、空を見上げると、半分もその姿を見せていない月が、淡い光を放っていた。ただ、光を放っていた。

 結局、彼女を理解できなかった。僕らの関係はこじれ、気持ちがすれ違う事が多くなり、別れるより他はなかった。もう心が擦り切れそうで、彼女に優しくしくする事ができなくなっていた。いや、僕ははじめから、やさしくなんかなかったのかもしれない。彼女も僕の優しさを理解してはくれなかったのだから。
 彼女に未練がなかったと言えば嘘になるだろうか。気がつけば僕は一人であの部屋にいた。そして、彼女がよく歌っていた曲を聞いていた。
 もう、この店には来ないつもりだったのに…
 さみしくはない。恋人と別れるのはこれで三度目だから。ただ、歌い手のいないメロディーは僕の胸を満たしてはくれない。
 曲が止まると、部屋の外からにぎやかな声が少し遠慮がちに、僕の耳に纏わりついた。その声は、僕を嘲笑っているようにも、冷ややかに責めているようにも感じられた。耳へ手を当てたが、思い直してマイクを握る。わざと、彼女に聞かせたことのない曲を選んだ。
 周囲の声を跳ねのけるために、ボリュームを上げる。その音に負けないように、僕も声を張り上げる。これで、彼女を忘れればいい。喉の奥、腹の底から、彼女への最後の歌を叫ぶ。
 歌い終わると、気分が高揚していた。もう、彼女のことは忘れられそうだ。
 次の曲を選んだ。今度は何も気にせずに好きな曲にした。少し、マイクを握る力を緩める。
 イントロが流れ、画面の歌詞に注目する。何も見なくても歌えるが、ほかに見るものもない。そして、歌い始めたその時、部屋の入り口が外側から開かれた。
 彼女だった。いや、一瞬、本当に彼女だと思った。
 けして彼女には似ていなかったし、僕の好みでもなかった。けれど、その女性と目が合ったとき、僕の胸は高鳴った。何かが、僕の中で膨らんでいった。
「ご、ごめんなさいっ」
 その女性は、慌てて扉を閉めながら、頭を下げようとしたらしく、よろめいた。それでもバランスを取り直すより先に、扉を閉め切った。
 急に体が震えた。膨らんでいたものが、しぼんでいくのを感じた。うるさいほどに鳴り響く曲を止め、首を垂れる。もう、周囲の音も聞こえない。
 僕は、何を期待していたんだ…
 空しさが、もう一度、僕の体を震わせた。
 そうだったんだ。僕は大きな思い違いをしていた。人の気持ちは、考えればわかると思ってた。自分が相手の立場になって考えれば、簡単だと思っていた。だけど本当は、ちっともわからないのだ。わかるはずがない。だって僕は、僕自身の気持ちでさえもわからない。わかっているつもりになっていただけで、本当はこれっぽっちもわかっていなかった。
 本当の僕は、彼女のことを忘れることなんてできなかった。忘れるためにここに来たんじゃない。僕は、彼女がここに来るのを待っていたんだ。彼女が来ないのなら、せめて誰かに慰めてもらいたかった。歌を聴いて欲しかった。
 逃げていたんだ。本当の気持ちから。今なら彼女のやさしさがわかる。僕の信じていた優しさは、きっと偽りのものだったのだ。お互いの気持ちをごまかしあって、触れたくない本当の気持ちから目をそらそうとする、弱さだったんだ。
 彼女に会いたい。会って、僕の過ちを謝りたい。そして今度こそ、彼女にやさしくしてあげたい。たとえ彼女が僕を許してくれないとしても。
 店を飛び出して、車に乗り込む。エンジンをかけようとして、ふと手を止める。満天に輝く星たちを見上げて、大きく息を吐いた。丸い夜空のどこを探しても、月の光は見えなかった。



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