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遠い昔、雨の日に
砂々利
さっき、髪を洗っただろうか。最近切りそろえた髪は、濡れてつややかに光っているが、はたして体を洗い流した後で髪まで洗ったのかどうか、思い出せない。気になって仕方がないが、今からバスルームに戻るのもおっくうだ。そもそも、男は髪なんて毎日洗わなくても平気なものだ。
リビングから外を見ると、先ほどからの雨が相変わらず降り続いている。父さんたち、退屈してるかもしれないな。折角、夫婦二人きりでの旅行だというのに、雨で観光どころではないだろう。ま、あの二人のことだから、ホテルに閉じこもりきりでも、楽しくやってるだろう。僕の方も、両親がいないおかげで羽をのばせる。うるさい親ではないのだが、いないとなると解放感があって心地いい。
口笛を吹きながら頭を拭いていると、喉の渇きに気が付いた。今日はいつもより長風呂だったからだろう。少しのぼせたような感じもする。台所で冷蔵庫を覗いてみても、ジュースも牛乳もない。こういうときだけ、母さんがいないのが恨めしい。あきらめてコップを片手に蛇口をひねる。喉が渇いていれば、何を飲んでもおいしいものだ。
不意に、背後から名前を呼ばれたような気がして、何気なく振り返った。そこには、僕をじっとみつめる少女の姿があった。驚きのあまり、声を失った。この家には、僕一人しかいないはずなのに。思わず少女の足を確認したが、確かに二本あった。しかし、安心してはいられない。一体、この少女は何者なのだろうか。
よく見れば、その顔に見覚えがあった。しかし、誰なのか思い出せない。髪型が変わったからだろうか。ポニーテールにすると、顔の印象がガラリと変わってしまう女性がいる事を、僕はよく知っている。彼女も、そのタイプなのだろうか。
いろいろと思考を巡らせるが、思い出せそうにない。それに金縛りに遭ったように、体が動かない。声すら出てこない。しかし、彼女が何かをしたわけではない。恥ずかしい話だが、僕好みの可愛い顔立ちの少女を前にして、僕の体は緊張のあまり硬直してしまったらしい。こういう事は、初めてだ。
そんな僕の反応に気づいていない様子で、ポニーテールの少女は僕に近づいてきた。そして、僕の胸に顔を埋めた。少女の意外な行動に戸惑ったが、不思議と鼓動が高鳴らない。ただ、Tシャツにじわっと熱いものが染み込んでくるのを感じた。それが彼女の涙であるとすぐに解した。彼女は悲しげな、今にも泣き出しそうな顔をしていたのだから。
そのまま、少女の髪をみつめていると、遠い昔の記憶がうっすらと、白昼夢のように蘇ってきた。その忌まわしい記憶は、ずっと心の奥にしまっていたのに。あの時の自分を、僕は一生、許せない。僕の心が世界で最も醜い事を、脳に刻み込まれたその記憶が証明しているのだから。
記憶の中のあの少女ほど、僕の心を奪ったものはなかった。軽々しくこの言葉を口にするのは嫌いだが、あの時の僕は確かに、その少女を愛していた。最も近くで彼女を見守っていたかった。彼女が僕の恋人になるようなことはないと知っていたが、彼女を愛する気持ちにかわりはなかった。彼女は、僕の全てだった。
しかしその気持ちも、あの感情には勝てなかった。それを知ったのは、彼女に恋人ができた時だった。はっきり言って、耐えられなくなった。彼女が目の前にいない時は、どうしようもない感情があふれだし、嫉妬に狂った。恋人ができたことで、彼女が僕によそよそしく接する度に、その感情はどこまでも荒ぶった。そしてある時、それは僕の正常な判断力を吹き飛ばした。そして、衝き動かされるままに、僕はそれを手に入れようとした。どんなに欲しても、決して手に入れてはならないものを、歯止めの利かなくなった僕は、無理矢理に奪った。その時の事は何一つ、覚えていない。ただ、彼女の流していた、赤い涙以外には。
彼女を愛していた。だがその時の僕は、彼女を愛していなかった。耐え難い現実の闇の中から逃れようともがいていた。そして気がつけば、愛していたはずの少女を、その心も体も傷つけていた。それがどんなに罪深い事か、僕はわかっていた。わかっていたのに、後悔に胸をかきみだされる時まで、僕はそのことから、目をそらしていた。
あれは、夢の中の出来事ではなかったのだろうか。全ては幻で、それだから僕は今日までこの事を思い出さなかったのではないか。あの後の事は、全く思い出せない。ただ、その記憶の中で、僕は雨を聞いていた。あの時、激しく雨が降っていた。あれは本当に、現実だったのだろうか。
再び、記憶を辿ろうとした。しかしそれは、思いがけず別の奇妙な記憶に遮られた。旧友と久しぶりに会った時のことだ。
「妹さん、元気にしてる?」
彼は小学校の時の友人で、大学生になってから再会した。彼は何を勘違いしたのだろう。僕には妹なんていないのに。その時に僕は何と返事したかは忘れた。彼は妹を欲しがっていた。確かに、僕も欲しいと思っていた。ポニーテールの似合う、可愛い妹を。
いや、違うんだ。僕が欲しかったのは…
ポニーテールの少女は、僕の胸を離れた。今にも泣き出しそうな顔のままで。
彼女を改めて見て、はっとなった。あの時の少女も、ポニーテールだった。一瞬、彼女があの時の少女なのかと思ったが、すぐに思い直す。あれはかなり昔の事だ。今日まで、少女のままでいられるはずがない。だがしかし、ポニーテールの少女から、目を離せないでいる。なぜ、そんなに悲しい瞳をしているのか。
まてよ、どうもおかしい。どうして彼女はまだ、泣いていないのだろう。
涙で濡れていないなら、僕の胸に広がるこの熱いものは…。なるほど、この熱い液体は、僕自身が流したものだったのか。少女がしっかりとその手に握っているものを、赤い液体が染めている。そして今も、熱いものが胸のあたりから広がっていくのを感じる。
彼女のかすれた声が、耳に届いた。
「もう…生きていけないから」
僕はようやく気がついた。この少女が、あの遠い昔の少女であることに。そして、記憶の中の遠い昔のあの夜から、ずっと雨は降り続いていることに。そう、まだあの夜は明けていないのだ。僕が勝手に、遠い昔の事だと思い込んでいただけなんだ。
赤く染まったナイフが不気味に光を放ち、少女の白い喉元にあてられたとき、僕はようやく思い出した。彼女の名を。そしてその名を呼んだ。彼女を止めるために。しかし、それは声にならない。ただ、涙がこぼれた。
白い肌に一筋、赤い水が流れた。
「さよなら、お兄ちゃん」
目の前が、真っ白になった。そして、虚ろだった記憶を、全てはっきりと思い出した。あの旧友が、妹に告白したこと。彼に言われて、妹があれほど嫌がっていたポニーテールに髪型をかえたこと。急に女らしくなったこと。デートのために、妹が新しい下着をこっそりと買ってきたこと。そして、あのとき、抵抗する妹に、「愛してる」と何度も繰り返していたことを。
僕は正気ではいられなかった。いや、正気ではなくてもあれは本心だったのかもしれない。そうだ、僕は妹が欲しかったんじゃない。妹の、ただ体が欲しかったんだ。僕が愛していた少女の、その汚れを知らない体が。
ポニーテールでなければ、あるいは正気でいられたのかもしれない。それが自分への最後のいいわけなのか、それとも真実だったのかはわからない。赤い水の上に浮かんで、僕は最後にもう一度、ポニーテールの少女の名を呼んだ。
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