逃亡
砂々利
一
臆病者で、面倒なことが嫌いな性格のため、私は昔から何かにのめり込んだり熱中したりすることがなかった。中学のときに入ったサッカー部も途中でやめてしまったし、大学受験のときも、「もっと上の大学を」と周囲が言っていたのを無視し、確実に合格できる三流大学を選んだ。くだらないことには負けず嫌いではあるが、こういった場合には少しも意欲が湧かない。心理学を専攻していた友人の分析によると、私は一生懸命に何かをやって、その結果失敗し、自分の無力無能さを思い知らされて傷つくのを避けているらしい。サッカーの練習に打ち込み、それでもレギュラーになれなかったり、毎晩猛勉強したにもかかわらず受験に失敗したりするのは嫌だ、と無意識のうちに計算が働くため、私はこういう道を歩んできたのだとその友人は言っていた。そうかもしれないな、とあっさり納得した私を彼は笑いながら揶揄した。「だからおまえには、恋人の一人もできないんだよ」と。
確かに、大学を卒業するまで、私は女性と付き合ったことはなかった。学生の間はやりたいことはたくさんあったし、寝る時間も惜しんで仲間たちと遊んだ。もちろん、学業の方も人並みくらいは熱心にやったつもりだ。だから、とても恋人なんて煩わしいものを作る暇はなかった。いや、なかったと、あの頃の私は自分に言い聞かせていた。しかしそれは、単なる言い訳だったのかもしれない。自分がモテないタイプだとは分かっていたが、自分よりもモテなさそうな友人が、恋人とイチャイチャしているのを横目で見ながら、モテない自分を認めるのはイヤだった。それに、好きになった相手にフラれるのが恐かったのだと思う。失敗のない楽な道ばかり選んできた私にとって、女性にフラれるのはこれ以上にない苦痛であり、私の中では禁忌に等しかった。
ただ、恋をしたことがないわけではない。初恋も、その次の恋も、そのまた次の恋も、私自身の胸の中で、そっと消えていった。一度火のついた恋の炎が燃えあがらないように、私はいつも自戒し続けていた。そのおかげで、恋が消えるとき、私の心が痛んだことはなかった。時の流れのままに、ゆっくりと忘れていくだけだった。傷つくくらいなら、初めから恋なんかしなければいい。傷つくことを覚悟できない人間に恋をする資格はない。私は本気で、そう思っていた。
勤め始めて二年目の春、彼女と初めて会った。私はその頃、身も心も疲れきっていた。社会には出てはみたものの、自分の稼ぎで生活しなければならなくなっただけで、他には何も変わらなかった。そつなく仕事をこなし、嫌な上司にいびられ、休みの日には家でごろごろして過ごす。この生活パターン自体はそれほど疲れるものでもないのだが、問題は私自身の生き方にあった。学生から社会人になるときが人生の転機であり、それを境にして、新しい世界で新しい人々と新しい何かをすることになる、と勝手にイメージしていた私には、この少々現実すぎる現実が、どうしようもなくくだらなく思えた。かといって元来のなまけ者である私が、会社を辞めて新しい人生を歩み出す、などということをやれるはずもなく、理想と現実のギャップに落胆しながらも、つまらない日々を送っていた。
自分の人生には何の意味もなく、誰かがどうしても私のことを必要としているわけでもない。そんなことは分かっていたが、死ぬ気にもなれなかった。他の人だって、ほとんどの人はそんな事くらい、うすうす気づいているのだ。だけど、それを認めるのは心地悪いから、お互いに、愛だ、恋だ、友情だと叫び、あたかも自分たちが孤独ではないかのように、自分たちで錯覚させているだけなんだ。そんな風に考えていれば、たとえ自分の周りに自分を必要としている人がいなくても、生きていける。孤独であることは普通なのだ。確かマザーテレサが言ったのだと思うが、「真に不幸なことは、貧しいことではなく、誰からも必要とされていないと感じる孤独である」という言葉を聞いたとき、それはウソだと思った。孤独を感じながらも、人は貧しさのない豊かな暮らしを目指している。孤独感はごまかせるが、貧しさはごまかせない。だから私も会社にしがみつき、たとえ孤独であるとしても、貧しくはなりたくなかった。
彼女は、しかし、そうやって自分をごまかすことが下手な人だった。上司に誘われて、初めて客として彼女の店に行ったときは、少し気の強そうな美人に思えた。実際、そんな女になりたくて、店では装っていたのだという。仕事の都合でその店へ何度も行くようになり、彼女に顔を覚えてもらえた頃、私はたまたま、彼女が街灯もない路地裏でうずくまっているのを見つけた。男にフラれて、ヤケになって飲んでいたらしい。見て見ぬふりをするほどの間柄でもなかったので、とりあえず家まで送ってあげた。その時はフラれたなんて事情は知らなかったが、優しく接しておいて損はないな、などと考えていた。彼女はマンションに帰り着くと、さらに酒を飲もうとしたり、私が少し目をはなしたスキに、カミソリを手首にあてていたりしたので、結局、その日は朝まで彼女を見張る羽目になった。
それからも、彼女はしばしば情緒不安定に陥り、そのたびに私に助けを求めてきた。店で会うときは化粧をしているし、仕事の緊張感が伝わってきて、強く美しい女にしか見えないのだが、携帯電話で呼ばれて駆けつけるときはいつも、ノーメイクの顔に疲れが出ていた。それでも彼女は十分に美しかった。ただ、弱く暗い女になっているのだ。その顔を見るたびに、私は思った。ああ、この女も孤独なのだ。この街には友人もおらず、唯一の安らぎであった男にも裏切られ、そしてその孤独さを耐えるために酒を飲み、果ては自殺まで計ったのだろう。孤独をごまかして生きることのできない女なのだ。決して弱いわけではなく、できるだけ自分で孤独と戦おうとしていた。しかし不器用な彼女は、いつも正面から孤独にぶつかり、耐えられなくなってしまう。そして限界になると私に助けを求めてくる。それを知っているから、私は会社や友人よりも、彼女を優先した。そのために上司に叱られ、友人にののしられても、一向にかまわなかった。彼女が私を必要としてくれているおかげで、私は孤独を感じずにいられたのだから。
夏が終り、風が冷たくなってきた頃、彼女は別れた男のことをほとんど忘れてしまっていた。そして私の方は、もう彼女と会うこともないだろうと考えていた。それは再び孤独になることを意味していたが、元に戻るだけだと考えれば、さして辛いことでもない気がしていた。それに私は、彼女のように正面から孤独と戦う気はないのだし。
あの日、私は初めて自分から彼女を呼び出した。もう会わない方がいい、そう告げるために。彼女の美しさに惹かれてはいたものの、彼女がまた別の男と恋に落ちたとき、私の存在が邪魔になってはいけない。別れのショックから立ち直った彼女に、私は必要ではなくなったのだ。その日の彼女は、精一杯おめかししていた。店での美しさとも、素顔の美しさともまた違った、健康的で若々しい美しさだった。女というものはこんなにも多彩に変われるのかと、妙に感心した。彼女は一日中楽しそうにしていたが、私はためらうことなく夕食のときに話を切り出そうとした。しかしそれを察したかのように、彼女は私の目を見つめてこう言った。「ねぇ、私と一緒にいて。ずっと一緒にいて。」
さすがにあの時は我が耳を疑った。しかし、確かに彼女はそう言ったのだ。
二
二人で生活を始めるための準備は、ほとんど全て彼女がしてくれた。私がやったことといえば、自分の部屋にある物を、必要なものと要らないものに分けたことくらいだった。私が彼女のアパートに転がり込む形になったが、部屋代は彼女が一人で払うと言い出し、それには逆らえなかった。実際、情けないことに私の方が手取りはかなり低かったので、私としても有難かったというのが正直なところだ。不安を覚えたのはお金の事よりも、彼女の手際の良さだった。私で何人になるのだろう。ふと、そんな疑問が浮かんできた。そして、私もその何番目かに数えられるだけの男なのかも知れない、という嫌な考えが頭にこびりついてしまい、それ以来、その不安は私の中から消えることはなかった。
ともあれ、私にとって初めての同棲生活は、悪いものではなかった。いや、考えていたよりもずっと素晴らしいものだった。意外なことに、彼女は料理が得意で、夜の仕事が忙しいというのに、朝食もお弁当も夕食も、毎日かかさず用意してくれた。それに、掃除、洗濯、買い物、お風呂の準備と、すべてかいがいしくこなし、私にはゴミ袋一つ持たせなかった。それは少しだけ私に引け目を感じさせたが、彼女の孤独感がそれでまぎれるのなら、それでよかった。だから私は、彼女をほめたり、ねぎらったりする言葉を忘れなかった。
彼女との生活は、私にとって初めてのことだらけだった。手料理やお弁当を作ってもらうこと、優しく起こしてもらうこと、二人で歯を磨くこと、下着を洗ってもらうこと、ネクタイを締めてもらうこと、唇を重ねること、抱きしめあうこと、そして……。何もかもが新鮮で、これが幸せというものかもしれない、そんな風にぼんやりと思えた。
しかし、その感動も季節とともに移り変わり、しだいに彼女との生活に慣れていった。そんな頃、私にとってもう一つだけ、初めてのことが訪れた。決定的な証拠なんて、何一つなかった。全て、思い過ごしかもしれなかった。そう信じたい気持ちも強かった。けれど彼女は確かに、私に大きな秘密を作っていた。その気になれば、それを追求したり証拠をつかむこともできただろうが、私はそれほど愚かではなかった。彼女に他に好きな男ができたと気づいてから私がとった行動は、怒ることでも責めることでもなかった。そんなことをすれば、私も彼女も傷つくだけだということくらい分かっていた。だから私はただそっと、少しずつ彼女を遠ざけるようにした。私の様子が変わったことで、彼女は余計に、私の前で不自然に振る舞った。それが私を確信させるなによりの証拠となった。
彼女と別れること。それは望むことではなかったが、私の心はいつものように、自分を守るように働いた。彼女の心が離れていくのなら、あがいて苦しむよりも、少しずつ慣れていった方が痛みは少ない。日増しにそんな気持ちが強まっていった。
もちろん、葛藤はあった。そばにいてほしかったし、そばにいてあげたかった。そして、彼女の全てを自分のものにしてしまいたい、他の男から奪ってでも彼女の気持ちを自分に向けさせたい、そんな衝動にかられた。しかし、冷静で計算高く、何より臆病なもう一人の自分が尋ねてきた。そんなことをして何になる? 心の離れてしまった相手を追いかけても、お前が傷つくだけではないのか?
逃げていた。そうだ、私には逃げることしか選べなかった。彼女という現実から目をそらし、元も生活に逃げ込むことだけを考えていた。しかし、逃げることは負けではない。本当は逃げることでしか、何も勝ち取れないものだ。わが国が平和を得たのも、戦争を放棄したからだ。戦いを続けている国が、そこから何を得ているというのだろう。受験戦争や就職戦争にしても、正面から戦いに挑むから、社会の壁にぶつかってみんな傷ついていく。結局、国家にしても個人にしても、戦わないことが最良の選択なのだ。だからこそ、私は彼女から逃げ出していた。
そんな言い訳を頭の中に整然と並べていたのに、彼女を失ってから、何も元には戻らないことに気づいた。私の中には、重い塊がただ残された。どうして、彼女を自分の所に引き止めようとしなかったのだろう。どうして、彼女の気持ちを確かめなかったのだろう。
目があつい。誰も救ってはくれない。喉から鳴咽がもれる。両手で覆っても、涙がとまらない。震えが止まらない。もう、戻ってこない。彼女も、元の自分も。体が熱いのに、心が冷たくて痛い。一人ぼっちになんか、なりたくない。もう、自分の泣き声は聞きたくない。何もみえない。
子供の頃、泣いてばかりいた。苦しくて、情けなくて、嫌になるだけだったのに、勝手に涙はあふれてきた。いつからか、自分で自分を守るようになっていた。もう、泣きたくはなかった。誰にも届かない泣き声に、いつも自分がどれだけ孤独であるかを思い知らされつづけてきたから。
泣くのは久しぶりだった。もう二度と泣かないと決めたのに。やっぱり、恋をする資格なんかなかったのか。戦うことができないくせに、恋を勝ち取れるはずなんてなかったんだ。
また、あつい涙が頬を伝って、抱きかかえたひざの上にしみ込んだ。そのつめたさに、小さくなって震えていた。ずっと、震えていた。