李賀


花の都に男子あり

キリ番ゲッターズの皆々様よりか、

予てから「あれをやらんかーい!!!」とせっつかれておりました。

おまたせいたしましたの、李賀さん登場にござひます。

花の都に男子あり
二十にしてはや心朽ちたり
すでにして道ふさがる
なんぞ白髪をまたん


球三郎様VS大門様の決戦の折、
ロクさんが口ずさむ詩。
アストロファンなれば涙無くしては語れなひ、あまりに壮絶なあのシーン!

元はこのやうな詩でありました。

[陳商に贈る]

長安有男兒      長安に男児有り
二十心已朽      二十にして心已に朽ちたり
楞伽堆案前      楞伽(りょうが) 案前に堆(うずたか)く
楚辭繋肘後      楚辞 肘後(ちゅうご)に繋(かか)る
人生有窮拙      人生 窮拙(きゅうせつ)有り
日暮聊飲酒      日暮(につぽ) 聊か酒を飲む
祗今道已塞      祗今(しこん) 道 已に塞(ふさが)る
何必須白首      何ぞ必ずしも 白首(はくしゅ)を須(ま)たん
 
                中野孝次:「わたしの唐詩選(文春文庫)」より

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、

李賀(りが、791年 - 817年。貞元7年 - 元和12年)字は長吉。
官職名から李奉礼、出身地から李昌谷とも呼ばれる。中国中唐期の漢詩人。
昌谷(現・河南省洛陽の西約50km)の人。
その詩は伝統にとらわれずはなはだ幻想的で、鬼才と評された。

「鬼才」というお言葉、わが国ではわりと使われてゐるやうな気が致しますが、
本来「鬼才」とはこの李賀さんお一人を表すのださうです。

ウィキ丸写しで申し訳ありませぬが、李賀の人となりを。


李賀は文学的に早熟で、14歳にして数々の楽府を著して名声を得ていた。

また17歳ころ、自作の詩を携えて当時文壇の指導者的存在であった韓愈 を訪ね、激賞とその庇護を受けた。

810年、進士 を目指して長安に上京し科挙 に応じるが、思いもよらず受験を拒まれる。

父の諱 の一字である「晋(シン)」と進士の「進(シン)」が同音であることから、諱を避けて進士になるべきではない、というのがその理由であった。

もちろんこじつけにすぎず、直ちに韓愈が反論を行うが通らなかった。

当時、およそ知識人階級は進士となって科挙 を通り、官僚政治家となることを唯一の目的とした。

その道を閉ざされた李賀は、失意のうちにひとたび長安を離れて昌谷に戻るが、翌年、奉礼郎の官職を得て再び上京する。

しかし科挙を経ずして与えられたこの官職は端職にすぎず、自負心の強い李賀には到底耐えられるはずもなく、

813年春、「奉礼 官卑しく復た何の益有らん」の詩句を残し、職を辞して帰郷するに至る。

ちなみにこの奉礼郎という官職も帝室の血縁者に当てるのが通例であった。

その翌年、別に職を求め、友人の張徹を頼って潞州(山西省長治県)に赴くも意叶わず、

昌谷に戻った翌年の817年、にわかに発した病により、母に看取られながら短い生涯を閉じた。享年27。



如何でせう。

溢れんばかりの才能を持ちながら、
本人のあずかり知らぬ言いがかりにて(変わり者だったとは言われてゐる)
失意のうちに夭逝した李賀さん。

科挙に通らなかったのではありませぬ。
試験を受けさせて貰ふ事すら出来なかったのでござひます!
劇中で球三郎様が言っておりましたね。

「わたしは若くして人生の辛酸をなめさせられたまま
兄を死なせたくないんです!」 

中島先生があの場面で何故ロクさんに
この詩を吟じさせたのかがわかるやうな気がします。

(姉は王族に嫁いでる!)

ぜひとも、 ウィキの李賀さんのペエヂ

をご参照下さひませ。

今回のキリ番ゲッターさん。

悲劇涙子様(スタヂアム)、家門様(スタヂアム、地雷)、松丼秀喜様(地獄門)、パンドラ(パンダ+ドラえもん)様(血判状)

スタヂアムへ帰ろう…
スタヂアムに帰るでし


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