七ノブがメインです。


空白の幻失



「ノブ、最近学校来ないな。」
丁度二時間目が終わった休み時間。
その日三度目の三村の声。
おはようって挨拶をして、
さっきの授業で三村があてられて、
自分には真似できないような流暢な英語を披露していた時の声。
そして今。
何気ない三村の問い掛けに答えたくなくて、七原はそんな事を考えた。
「な、どうしたんだ?やっぱ、あれが原因?」
そんな事、聞かないで欲しい。
第一、 自分が慶時の全てを知っているんだろう何て仮説を立てないで欲しい。
「分かんない…。」
それは嘘じゃない。
ただ、突然、
「俺、しばらく学校行かない…。」
そう言われただけで、理由なんて一つも教えてくれなかった。
自分の中での憶測としては、
キタノを刺した事。
それが一番の原因なのだと思う。
けれど、そんな憶測はこのクラスの誰でもが出来る程簡単なものだ。
それだけでは、自分は納得できない。
そして、慶時を理解出来ない苛立ちは日々募っていた。

慶時が学校に来なくなって、二週間が過ぎた。
もう原因となっていたキタノは学校を去り、
クラスメイトもキタノが去った事を喜んでいた。
きっと慶時を責め立てる人間は、ここにはいない。
その存在を否定するものは、いない。
けれど、それでも慶時は学校には来なかった。

「七原。バスケやってくか?」
帰り際、三村が体育館の方を指差して言った。
「あ、いや…。」
秋也は二度、軽く首を振った。
「そっか。」
『わかってたけどさ。』とでも言うように、頷かれた。
それで秋也は少し恥ずかしくなった。
「じゃあな。」
「ああ。」
秋也が手を挙げる前に三村は走って行ってしまったので、
挙げ掛けたその手を仕舞う場所が無くなってしまった。
苦笑いをしながら仕方なく、その手で髪を撫でた。
ここのところ、秋也は授業が終わるとすぐに慈恵館に帰っていた。
理由は至って簡単で、ただ慶時と一緒に居る時間を長くしたいからだ。
その日学校であった事の報告。
時々慶時は辛そうな顔をして、
本当はこーゆーのは嫌がられているのではないかと思う時もあった。
それでも、秋也は慶時に知っておいて貰いたかった。
いつでも、学校に戻れるように。
それと。
話をしている時は、慶時の視線を独り占めできる。
それも、理由の一つ。

「ただいま。」
部屋のドアを開けて、一番最初に視界に飛び込んだのは、
黒い陰に包まれている慶時の身体だった。
「ノブ?」
声を掛けると、その黒い陰から慶時は顔を出して、
「ほかえり。」
と言った。
どうやら着替えの最中だったらしい。
口には何故か千円札をくわえていた。
「どうしたんだ?」
「あ、ひょっとかひもの。」
その、少しずれたイントネーション。
千円札をくわえたまま発せられる言葉。
小さく動く口唇。
西日が射し込む部屋の中で、
何だかそこだけが一つの生き物のように思えた。
「…どうしたの?」
不思議そうな表情でそう言われて、我に返った。
「いや…。」
鞄を床に置いて、着替えようとネクタイに手を掛けた。
その時、慶時が手にしていた千円札が目に映った。
ほんの少し、端の所に染みが出来ていた。
それが何故かとても艶めかしくて、見てはいけないものを見せられた気がした。
「秋也?」
「あ、ああ…。」
慶時が近付いてきたので、道をあけた。
その時軽くよろめいたけれど、慶時は気付いていなかった。
「あ、ノブ!」
そのまま、自分の存在を無視したまま行ってしまいそうだったので、
つい引き止めてしまった。
「俺も、行くよ。」
即興で作った笑顔。
そのぎこちなさにも慶時は気付かずに、倍の笑顔で答えてくれた。
「うん。」

「何買ったんだ?」
「本。今日発売日でさ。」
「そっか。」
「…秋也、最近帰り早いよね。」
夕日に照らされて長くのびた影を見つめながら、慶時はそう言った。
何で慶時がそんな事を言うのか、秋也には分かっていた。
その次に言いたい事も。
言われたくなくて、言わせたくなくて、何か違う話題はないかと考える。
けれど秋也の思考能力は、慶時の次の言葉を遮れる程有能ではなかった。
「別に、いいのに。気にしなくたって。」
「え?」
ほら、言われた。
予想通りの台詞。
いつか言おうとしてたんだろ?それが今?
「秋也には秋也の生活があるだろ?俺の事何て気にしなくていいよ。」
「何言ってんだよ、ノブ。」
「だからさ…。」
溜息をつきながら、慶時は立ち止まった。
行き過ぎてしまった秋也は、振り返って慶時を見た。
まるで、泣いているような笑顔。
「心配、すんなよ。」
そんな表情されて、『心配するな』何て、無理な話じゃないのかい?
それとも俺を安心させてくれるような、納得させてくれるような話でもあると?
「…じゃあ、教えてくれよ。ノブ。」
「何を?」
「何で、キタノを刺したんだ?」
「!」
一瞬のうちに、慶時の笑顔は凍り付いた。
ああ、ほら。だから。
だから聞きたくなかったんだよ。
ノブが自分で話してくれるまで、聞きたくなかったんだ。
「…それは…。」
「わかんねぇよ…。俺には、お前の事なんかわかんねぇよ…。」
「秋也…?」
「俺にも言えないことなのか?一体キタノと何があったんだよ?」
意を決したように何かを言いかけて、
けれどすぐに慶時は目線を逸らした。
「それは…。」
右手で持っていた、買ってきたばかりの雑誌を胸の前で抱え込む。
そうして、可愛らしい二つの手を隠した。

いいですか秋也くん?
例えばポケットに両手を入れて歩いている時、
例えば初対面の人と話をする時に両手を隠している時、
それは他人に心を見られないようにと願う、無意識のうちの行動なのですよ。

いつか、誰かが言っていた。
誰だったのか、何故そんな話になったのか、思い出せなくなってしまったけれど、
今までの人生の中で印象深く、その話は秋也の心に焼き付いていた。
だから秋也はなるべくそうしないように心掛けてきた。
初めて会った人がそうしているのを見ると、
何となく自分が有利な立場になっているような気がしたからだ。
「ノブ…。」
オーケイ、分かったよ。
聞かれたくなかったんだよな。俺が悪かったよ。
「…ごめん…。」
いたたまれない気持ちになって、自分からそう言ってしまった。
「え?」
「いいよ、言わなくても。」
精一杯の笑顔。
これで、許してくれるか?
でも、ごめん。もうこれ以上は無理なんだ。
「…いや、俺の方こそ。」
申し訳なさそうに、そう言いながら慶時は手を動かした。
きっとそれは、本当に無意識のうちの行動。
少しずつ、ゆっくりと、大事に仕舞っておいた手を見せてくる。
その行動が、秋也にはあからさま過ぎて少しだけむかついた。
けれどそれは仕方の無い事だという事も、分かっていた。
第一慶時はその話を知らないのだし。
いや、例え知っていたとしても、この状況ではそれを思い出すのは無理だろうと判断した。
だけど、理解してやってもいいけれど、
ほんの少し、俺にも何か褒美を与えて欲しい。
「帰ろうぜ。」
そう言うと慶時ははにかんだ笑顔で頷いた。

「秋也。」
夕食になる前に本を読み終えた慶時が、ベッドから下りてきた。
秋也も丁度宿題をやり終えたところだったので、教科書を鞄に仕舞いながら返事をした。
「ん?」
「あのさ…。」
動きの止まった秋也の手を見つめながら、何かを言いたそうにしている。
「何だよ?」
「今日さ、ありがとな。心配、してくれてたんだろ?ずっと。」
「…ああ…。」
何だ、その事か。と言ったようなニュアンスで返事をした。
視線はずっと秋也の手を見つめたままだったけれど、
それは慶時の素直な気持ちだという事は分かった。
手を隠していなかった。
ただそれだけで判断したのだけれど。
「でも、俺、本当に大丈夫、だから…。」
「分かったよ…。」
そう笑いかけてあげると、慶時は安心したのか軽く微笑んだ。
「でも、さ。俺は、不安だよ。」
「え?」
「ノブが、今まで居た場所にいなくなるって言うのは、やっぱり嫌だよ。」
「…秋也…。」
秋也は少しだけ会話を止めて、残っていた作業を全て終わらせた。
それから慶時と向かい合い、隠されてはいない、その手を握った。
「だから、俺を安心させてくれる?」
真っ直ぐ、相手が逃げられないように見つめる。
そうすれば大抵の場合、同じくらいは見つめ返してくれる。
「どう、やって?」
秋也は握っていた慶時の手を引き寄せた。
そして、抱き締めた。
「え、秋也?」
「ノブ。目、閉じろよ。」
「な、何でだよ?」
慶時は少し強い口調でそう言った。
状況を理解していないのか、
それとも分かっていて動揺していると思われたくないからなのか。
秋也には分からなかったけれど、そんな事はどうでも良かった。
「いいから。」
秋也は自分の手で慶時の視界を遮断した。
「や…。」
それを止めさせようともがいていたけれど、すぐに止めて大人しくなった。
そっと、口付ける。
口唇が触れた瞬間、慶時の肩が小さく震えた。
ほんの一瞬だけれど、秋也は
『ああ、キスってこんな感じなんだ。』
と思った。
慶時の視界を遮っている手を退かしてから、口唇を離した。
まだ、慶時は目を開けていない。
確かに、これは現実。
けれど、慶時の瞳には今の秋也の姿は映ってはいない。
それは、空白の時間。
次の瞬間瞳の中に映る七原 秋也はもう、
ほんの数秒前の七原 秋也とは違うのだ。
慶時の中で作られていただろう七原 秋也という人物は存在しない事になる。
それはとても恐ろしい事だけれど、
けれどそれを望んだのも自分なのだ。
今までの七原 秋也は幻だったのだと、
そう思っても構わない。
それでももし、この想いが、願いが届くのなら。
ゆっくりと、慶時は目を開けた。
視界の中に秋也の姿はなかった。
左の方を見ると、部屋を出て行こうとしてる秋也の後ろ姿が映った。
その背中が、まるで泣いているようで哀しくなった。
「…何で…。」
そう小さく呟いたけれど、結局秋也の耳には届かなかった。
ただの冗談かも知れない。
けれど、冗談にしては雰囲気が違っていた。
何も見えなかったけれど、何も分からないけれど、
一つだけはっきりしていた。
秋也に触れられた口唇が、まるで一つの生き物のように呼吸していた。
熱を、帯びていた…。


終わり。