戦うアパート六丁目。
壱話目
ウンジャマ・○ミー。
辞典を引いても載ってなかった。
それが正解だ広辞苑。
『は』。
広辞苑に『広辞苑』は載ってるのか? チェックだ。
ぺららららららららららららららら
─彼女は。電車に揺られながら広辞苑を引いていた。
彼女。
黒髪を肩で揃えたかったのか、それとも自然な髪を演出したのか、首回りを覆う
ようなショート。童顔ぽくはあるが、背格好はなかなか高い。夏の前らしく、
涼しげな白のサマードレス。縦にはしる空色のストライプがいい感じ。そして
手には『広辞苑』。
分厚い本という域を超えたあのオモリ式辞典を彼女はいつも携帯している。
あれは携帯してはいけない指定入りのはずだ。
「あ。ない。歩をわきまえてるのかしら広辞苑」
公共の場をわきまえていない彼女であるのは確かだと彼は思った。
彼とは誰だろう。
彼は彼女とは他人だ。今日偶然電車で彼女が広辞苑を引き始めた事に、困惑気味
の犠牲者の一人。
彼の黄色がかった髪は天然である。大雑把に短く刈り切ったような髪型が似合う。
おそらく何でも似合うだろう。線は細い感じだ。しかし、なぜか押しても無様に
倒れないような、何か別次元の雰囲気を醸し出している。その例に、昔『宇宙人』
と呼ばれた経験を持つ。
彼は夏らしくない体の線に沿った、深い緑色の長袖。胸の前の銀ぶちのチャック
さえも絞めている。
八頭身。いい男である。
不意に彼の耳が光る。発光ダイオードをはめ込まれた経験は彼にはない。
イヤホン。黒い滑らかなラインのそれに銀ぶちがついている。光っていたのは
銀ぶち。
耳ではなかった。
彼には公共のマナーというものが最低限装備されており、ボリュームは隣近所に
優しい。「『は』。もしや『広辞』と引くと関連する欄で密かにいるのかも!」
彼女は思い立ったが吉日という慣用句が頭を浸食しており、ボリュームは隣の彼の
ストレスを三つほど上げる。
誰も知らないが、彼はコンタクトを最近始めた一人暮らしの医大生だ。
当然彼の隣で、三度、広辞苑を引き始めた彼女も、彼の素姓は知らない。
彼女と彼は、今日まで他人同士だった。
午前中の出来事だった。
広辞苑を引く彼女が乗る準急は、順調にローカルな駅をごぼう抜きし続けるかに
思えた。
─事件が起こった。
誰も知られることもない電車の屋根に、一つの影が貼り付いていた。
ゆりかごに見えた。
その中のものが赤ん坊のように見えた。
視力2.0の、いつも電車の騒音に悩まされるマンションの住人は、過ぎ行く
電車の天井に張りつけられたそれを少し観察し続けたが、何となく怖くなったので、
部屋に引っ込み寝直すことにした。
─だが。
それは夢ではなかった。
準急が久方振りに止まった駅の名は『梅井』だった。
ただし、アナウンスは何を思ったか、『うめ〜』と呼称した。
彼のアクセントのせいか、それともマイクの調子のせいか、何はともあれ、最初に
彼女が聞いたときは、駅員は仕事中に何を食べているのかとその怠慢を責めた
ものだ。
嘘だが。
────。
彼は訝しんだ。
隣の彼女は広辞苑を片手に、肩を震わせ口の端を痙攣させながら笑いを堪えて
いる。
………奇特な人だ。
彼は少し世界の広大さを身に感じた気分になり、そして少し憐憫の情が顔を
掠めた。
ちなみに、二人ともこの駅に用はない。だから、また再びドアが閉まるのを
待っていた。
だが、ドアは閉まらない。
彼女は何事だろうとドアの向こうに顔を突き出し、彼はそのままドアが閉まれば
少しは積もった苛立ちも紛れるな、と澄ました顔で考えた。
ドアは閉まらない。彼女はきょろきょろと辺りを見回したが、別段変わった
ところはない。誰もいないのだから。
「広辞苑に何か載っているかも」
載ってない。君は何か広辞苑という概念を勘違いしている。
心の中で突っ込んでも無駄なことだと知りつつも、話しかけて知り合いになって
しまうような事態よりはましだと、彼は虚しい心にフォローを入れた。
電車は動かない。
国鉄は信用できないとは常々思ってはいたが、改良の意思さえも見せないと
なると、明日からはバス通だろうか?
彼は肩に提げたかばんの中から手帳を取り出し、近辺の交通路一覧を眺め始める。
その様子を駅員が見れば、さぞ冷汗を流すだろうが、その駅員も姿を見せない。
乗客もそろそろ事態の奇妙さに浮き足立つ。まだ赤ん坊さえ起きないほどの
ざわめき。
彼は独りごちる──文句は人に聞こえるように言うべきじゃないか?
そして彼の隣の彼女が背を反らせ息を吸う。
「ちょぉっとぉぉぉぉぉぉっ! 何で動かないのでしょぅかぁぁぁぁぁぁ!?」
頭蓋骨の中に響く、侍同士で繰り広げられる剣劇の音を聞きながら、彼は乗客に
謝った。
─果報は寝て待つのも一興だと提案します。
少し張り切りすぎたのか、肩で息をしている彼女は、それに反して、満ち足りた
顔で握り拳を作った。
「おし。誰か駆けつけてきた」
ドアの外を眺めてみれば、確かに黒服の男がやって来ていた。なぜか手にスポーツ
新聞を握ってはいたが。
彼は思案する。
あれは国鉄の制服ではない。それ以前に、この初夏の時期、あの
『オーバーコート』はいくらなんでも嘘だろう。
かなりガタイも大きいじゃあないか。拳の握り具合一つ見ても、あの肉の
貼り付き方はハリボテではあるまい。よく人を殴るような輩は、ああいう風に
少し間接の頂点が平らになるのだ。
あの男は怪しい。こんな縷縷(るる)とした詳細を上げずとも、その雰囲気を
隠すこともない彼に、乗客が一斉に不信感と恐怖感を感じ取っているのも無理は
ない。
彼は目線だけを横にずらし──
「駅員さーん。こっちこっちー。まずこっちから説明、釈明など始めてくださーい」
─そしてゆっくり顎を引き、まぶたを降ろした。
こっちに呼ぶな……
なぞと項垂れようとも、もともと彼女の大声に反応して来ているのだから、
接近は免れようもない。
もはや彼の口もとに淡く浮かぶ薄笑いさえ、確認できるほどに距離は狭まって
いた。
