─おかしい。
彼女は、そう。異変を感じ取っていたのだ。
彼の握るスポーツ新聞。
あれは一昨日の日付。
彼女は確信する。あの駅員は頭が弱い。したがって望むような説明はおそらく
聞けまいと。
─おかしい。
もはや決定事項と化した彼女の頭の中身を眺めるように、彼は彼女の後頭部に
注目していた。
何となくその頭に強い衝撃を与えたくなるのは、八つ当たりや苛立ちだけが
理由ではないはずだ。
彼はその理由に学術的好奇心と名付けた。
そんな心理的駆け引きのさなか、ついにかの男はドアの前に到着。
同時、オーバーコートの男はドアを潜り、彼女の額に黒光りするものを突き
つけた。
それは危険な煙の匂いが漂う銃刀法違反な物だった。
彼女が半瞬の間で手を挙げ、同時──
多数の悲鳴。
「ダァマァレェッ!」
黙った。
─付き合いのいい客だ。
彼はさりげなく感心し、状況の緊迫感を遮断したかのような普段着の仕種で、
ポケットから白い手袋を取り出す。
「……おい……オイっ! 貴様らぁ、処刑ショーの拍手をしろぉ!」
─おいおい処刑されちゃうのかよ私。
なにげに冷静な彼女は、白い何かが動くのを目の端に捕らえた。
好奇心をそそられる。
その白のものに他意はないだろうが、何かこちらの興味を引かせるために
揺らめいているように思えた。
その見事な釣られぶりは、当分彼女が、自分の額に死を掲げられていることを
思い出さないだろうことを予測させる。
白は、銃を突きつけているオーバーコート男の背後で揺らめいていた。
「はぁくぅしゅぅっ!
こらこらぁっ! 拍手しねぇとはじまんねぇだろうがぁっ!」
それが事実だとすれば、この場で拍手をし始める人間は、殺人を加担したこと
が認められるだろう。
当然沈黙が続いた。
何にしろ、この突然すぎるアクシデントに、乗客が対応しきることを望むのは
どうかと彼は考える。考えながら、右手に手袋をはめきり、その裾を真下に
引っ張る。
同時すべての指を反るほどに伸ばし、しわを取る。
彼女がそれを見つめる。ここに至りその白い何かが人の手であり、そして
微動だにもできない空気の中で、下らなそうに右手にはまった手袋の先の余りを
眺めているブロンドの男であることに気付いた。
─奇麗な奴。その奇麗具合を三割くらい、女の私に差し出すべきだと思う。
と、普通の人間ならばその程度のひがみで終わるところだが、
─彼女は違う─
彼女はすべての指先を彼の方向へ向かうように構えると、少し腰を落とし、
そのまままぶたを閉じる手前まで降ろし、呟く──
《埒灘鳳蓮創擁薙惚何通靦噛悽煤烟姚蒂羨黽蓼陰影闇黒天生零竺────》
歪(いびつ)な響きのある念仏を唱えながら、彼女は薄く笑う。
「これで奴の美貌の四割は私のもの」
この一般人との違い方は、個性と言うよりは犯罪なのだろう。
しかし、その一般の人々には、彼女の行動を笑うことはできず、いっそ哀れだ
という風に捕らえられていた。
銃を突きつけられ、殺すと宣言された人間が念仏を唱える。成程、不自然では
ない。
近くにいたおばあちゃんなぞ、「若いのに達者に念仏を唱える」と感心したも
のだ。
そして、オーバーコート男も然りだった。
「なんつーか。スタンダードすぎて、逆に見たことないぞお前みたいな奴」
しかし言われた本人は聞こえていない。何故ならば、本人は彼の美貌を吸い取る
ことに夢中だからだ。それは恋なのかもしれないし、別次元の世界の住人の感覚
なのかもしれない。
だが、彼女がどの世界の住人だろうと、額に銃を突きつけられれば絶体絶命で
あることに違いはあるまい。九死よりも一生がお得なはずだ。
事実、彼は彼女の得体の知れなさを薄々感じ取ったのか、殺す覚悟を決めた
ようだ。
彼女もさすがに我に帰り、いきなり頭に走馬灯ムービーが流れた。賢ちゃん
(弟)と、中国奥地で無一文のまま一ヵ月獣のように過ごしたあの夏が懐かしい
とか思った。
「もはや死ね! ぎゃはははははははっ!
死──ぬぅぶふぅおぉぉぉぉ!?」
オーバーコート男が宙を舞う。
そういやこいつ駅員じゃないんだぁ、と今更ながら納得した彼女は、その駅員
ではありえない男が美しい弧を描いて、閉まっている反対側のドアにバウンドする
までを、ゆっくりと流れる時間を感じながら眺めていた。
ガウンッ!
身の丈だけならパンダといい勝負ではないかと、緊迫感のない例を挙げながら
思う彼女は、その衝撃と、妙に痛々しい音を納得した。
オーバーコート男は、こちらにお尻を突き出す形で寝込み、起き上がる気配は
ない。しかし、彼の顔面には赤々とした拳の跡がくっきり残っていることは容易に
想像できた。
─顔に? 想像できるって、なぜ?
なぜか思考が素直に浸透してくれない。信じられる範疇のものを越えた何かを
見た。そんな印象が強く心にある。
すると、目の端にまたしても白い何かが引っかかった。
それは、再び揺らめいてこちらを誘い、そのゆらめきを彼女の目線が追う。
その白い何かは手の形をしていた。
手首から先の力を完全に脱力させ、手を垂らしてから手首だけを回して──よく
運動選手がやる手首のストレッチングのようだ。
それは『彼』だった。
「……これは事件ではなく」
その彼は、周囲の無遠慮な視線を一点に浴びる中、バリアでも張っているかの
ような無敵さでそれをものともせず話し出した。
「ただの些細な人災なのかもしれないが、最悪のケースを上げてみるとするならば、
銃などを平気でちらつかせる、見るからに姿、人相を覆い隠すことを念頭に
置いた服装、そして精神病を煩っていると思われる性格。
成程。この事件は少し大きい黒幕殿がいるとも思える」
冷ややかな視線を、どこともない、ただ斜め下へ注ぐ彼。
何者をも避けるそれに、彼女は何となく興味を持った。
彼は続ける。
「とすると、ここにいるのは上策ではないが、このまま出ていくほど愚策でもない。
ここはやはり、先程の教訓通り果報は───」
そこでいったん。息継ぎをするかのように自然に言葉を止め、
「何をしている」
と、彼の視線の前に居座っている、なぜか強張った彼女の顔に、彼は言われなき
苦情を訴えた。
「見たまま」
彼女は答えたが、彼には理解してもらえなかった。
「………………………………」
─よく考えれば。
果報などは寝ていてはもらえない。敵を一つ潰してしまった。報復は充分に
考えられる。寝て待つ時機はとうに自分の前を過ぎたのだ。今迫られているのは、
的確な判断と、迷いを許さない行動力。
─間違いなくこんな女を相手にする暇は一片たりとてない。
彼はあっさり目をそらし、隣の車内を見た。
彼女も別にムキになっていたわけでもないので、彼女もあっさり、その向いた
方向に注目した。
その他のギャラリーも。別に他にすることもないので、彼らの視線を追った。
そしてその感想は、その中でも最も単純な思考力の持ち主が述べるのが
妥当に思われた。
「なんもない」
─誰かさんの頭の中のようにかな?
何となく独りごちる彼だが、特に明言は避けた。
目の前の状況。それは常軌を逸したものに違いはなかった。
何人かの乗客たちは、未だその光景の把握に困難でもあるようだ。
親切心では決してないだろうが、彼は今の現状をコンパクトにまとめてみた。
「車両が消える──これは怪事件だ」
※ ※ ※
再び広辞苑をペララと引き始める彼女は、完全に蚊帳の外に置き、彼は
とにかく、常識というものが紙切れの存在になったことを認識してから、
とりあえず乗客にフォローを入れることに試みた。
「あ──」
乗客のほうに向き直り──気付いたことが、二、三あった。
「何見ているんですか?」
その内の一つ。全員がこっちを向いていること。
そして同時二つ。その目が老若男女問わず、全て虚ろであること。
三つ目─
ぺら……
彼女が広辞苑を開く音。ではない。多少それよりは品のある、一般以上の
嗜みを持つ者の音だ。
一番奥。銀髪の少年が運転席と乗客室を阻む壁に背もたれ、ハードカバーの
本を下目に眺めている。
『銀髪』。普通ではない。
「ところでそこの銀髪の少年。
この事態をどう思う」
てめぇ関係者かコラ(蹴り)、とかしてやりたい衝動をこらえ、彼は
その少年に問うた。答えなければ、とりあえず我慢しなくてもいいだろう
なぞ思いながら。
だが、少年はあっさりと答えた。
「別に」
答えの内容もあっさり。
ところで彼女は薄味が嫌いだった。
「別にとかなんだ!? つまんないぞ!? 何か物足りないよね!?」
それは彼に問うたことなのか─
「君は特にこのことに関与してないと?」
何にしろ彼には関係のないことではあるが。
彼女は傷ついたようだ。傷心の陰りを落としながら端っこで広辞苑を引き
始める。
やはり気にすることでもないが。
「女性に冷たいんですね」
「あ。何か偉いぞ君。もっといったれ」
即急の立ち直りを見せる彼女に、やはり構わず、彼は少年に向いた姿勢を
崩さずそれに答える。
「そんなことはない。一般的に他人とは一歩距離を置いているだけだ。
─ちなみに彼女とは十五歩は離れていると考えてもらって構わない」
「うわ、遠っ」
思わず驚愕のリアクションを取る彼女に、彼女の存在を認めてしまった
彼の苦悩は伝わらないだろう。
彼はそんな煩悶(はんもん)を微塵も感じさせない口調で、再び銀髪の
少年の質問を再開する。
「それで、質問をはぐらかすということは、君は何か隠しているのか?」
そういうと、彼はとても心外な顔をした。外国版で言うならば
『OH,MYGOD!』っぽかった。
「何を言うんです。僕はいつも自分に正直に生きています。
そして言いたいことを最優先に発言します。はぐらかすなどと言った
ようなつまらないことをする筈がありません」
「……君も、あれか……」
─紙一重の方か。
押し留めた。ましてや『前者』の方かなどとは雨が降らない限り
言えそうになかった。
※注釈(この場合の例えは『馬鹿と天才は紙一重』です。
親切な説明をするX君より)
幾分どうでもいいことが増え、彼が過去を振り返らない呪文を心の中で
三回呟いていると、銀髪の少年は、未だ本をぺらぺらしながら、
笑顔でこちらを向き、言う。
「下、気をつけてくださいね」
─こうすれば、なるほど十代前半の頃とも思える。
ふむ。
……………………
「下だと?」
そう。問うてみると。
銀髪の少年は消えていて、ついでに地面も消え失せた。
彼と彼女の顔が劇画調に凍りついた。
「って、ついでかいぃぃぃぃぃぃ!」
「今日は遅刻だな………この昼からの『タOリさんに挨拶』を削って何とか
なるか………」
スケジュール手帳に赤ペンを入れながら、どうも釈然としない不幸に
屈している自分に憤然としたものを彼は感じていた。
彼女はそれどころではなかった。彼もその筈なんだけどなぁと、何となく
呑気に考えたりはした。
next door...
