まず、日本人にはなかなか理解し難い香港の音楽事情について知ってもらいたい。
世界のどこでもバラードというジャンルは大衆にうける。しかし中華圏の人々は特にこの手のものが大好きである。それがゆえに、
中華圏はロックというジャンルが確立していない。中でも香港はロック不毛の地とまで言われるほど悲惨な状況で、バンドをやること自体難しい。1992年日本でBEYONDがテレビ出演したときに「香港でメジャーでCDをリリースしているバンドはBEYONDを含めて3組しかない」と言っていた。それだけ難しい環境なのだ。そしてその3組のうちまだ活動をしているのはBEYONDだけである。
BEYONDは1983年に結成されて以来、香港の楽壇(組合・楽隊)の中では常に頂点であり続け、
特に80年代後半〜90年代前半の香港の
ミュージックシーンはBEYONDを除いては語れないと言うほどすさまじいものがある。さらにBEYONDは、香港だけでなくシンガポール、マレーシア、台湾等‥活躍しているフィールドが広い。途中、リーダー
黄家駒の不慮の事故死があったもののそれを乗り越え、今もなお第一線で活動をしており、
香港出身ロックバンドで大成功を収めている唯一無二のバンド、
中華圏の模範的ロックバンドになっていると言っても過言ではない!
家駒は不慮の事故により、日本で命を落としてしまった。それではなぜBEYONDは日本での活動を始めていたのだろうか?
よく日本のアーティストでありがちなのが「日本で大ヒットしたから次は英語で世界進出だ」というパターンである。
ではBEYONDもそうだったのであろうか?確かにBEYONDはそれまでかなり成功を収めていた。しかしながら香港では日本と違って曲の創作者に対する評価があまりにも低く、全部をオリジナル曲で勝負していたBEYONDには、
納得のし難い状況であった。というのも、その頃香港でヒットした曲というのはほとんどが外国
のカバー曲で、特に日本でヒットしたものをカバーしてしまうので必ず売れていた。ひどいときには年間チャートの上位曲は
ほとんどカバー曲で占められていた。それに香港ではロックが確立していないため、妥協して大衆好みの曲も作らなければならないという
ジレンマもあったようだ。そんな苦しい中でもBEYONDはオリジナル曲にこだわり続け、カバー曲は
歌わなかったので、香港のアーティストとしてはかなり異色の存在だった。その頃の香港のアーティストでカバー曲を歌わない人はいなかっただろう。
そう、BEYONDが日本で活動を開始したのは、理想の音楽環境を求めてのことだった。「香港でこのまま活動を続けても何も進展しない」そういう思いが彼らにあっただろう。前述の通り、香港で理想的な環境を求めるのはかなり難しいことだったのだ。BEYONDの音楽に対する
情熱は並々ならぬものだったに違いない。でなければ、わざわざ3つめの言語圏に飛び込んでいったりしないだろう。
歌う以前に言葉や異文化を学ばなければならないのだから。
家駒の死はアジア中に衝撃を与えた。新聞でもちょっとした芸能欄ではなく、一面に大々的に取り上げられたということにその衝撃の大きさが伺える。テレビでも連日のように特別番組が放送され、CDも売り切れが続出することとなった。家駒の死の直接の原因は、テレビ局側の不手際による「セットから転落」ということなのかもしれないが、間接的な原因は、日本に行かざるを得ないような状況を作った、アイドルばかりをもてはやす香港芸能界にあると言えるのではないか?
皮肉なことに、家駒が亡くなったことによって、香港音楽界はオリジナル曲軽視を反省し、あるラジオ局は、今後カバー曲は放送しない
という方針を示し、ようやく少しずつ香港のミュージックシーンは変わり始めた。しかしながら、やはりバンドにとって厳しい環境であることに変わりはないようだ。逆に厳しいからこそ、BEYONDの結束は固く、音楽に対するモチベーションが掻き立てられているのかもしれない。
|