☆私はこうしてBEYONDファンになっていった☆


きっかけはウッチャンナンチャン
私はウッチャンナンチャンのファンであった。もちろん今も一番好きなお笑い芸人である。もしウッチャンナンチャンのファンでなかったら、BEYONDのことを知らなかったし、BEYONDファンになっていなかっただろう。なぜならBEYONDいう名前を初めて耳にしたのは、ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポンだったからだ。
そのときはもちろん、なんとなく耳に入っていたというぐらいで、BEYONDをまだよく知らなかった。 ファンになる直接のきっかけになったのは、やはりあの事故である(仮に、もし事故が起こらなくてもBEYONDは「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」の準レギュラーみたいなかたちで関わっていくはずだったから、どっちみちファンになっていただろう)。朝の情報番組で、ウッチャンが番組収録中のセットから転落したが、幸いたいした怪我でなく済んだが、共演者は意識不明の重体ということをやっていた。意識不明の重体といったら、普通はまず助からない。
「番組から死亡者なんて出たら絶対打ち切りだ。そんなことにはなって欲しくないからとにかく助かってくれ!」
と最初はこんなふうに思っていて、とにかくその後の経過が気になってワイドショーを録画してはチェックして、助かって欲しいと願っていた。
しかし事故から約1週間後、残念ながら家駒は亡くなってしまった。その後もワイドショーを通して、香港での葬儀、混乱の模様、BEYONDとは、黄家駒とはどれだけすごい人物だったのかを知るたびに「本当に申し訳ない」と、謝りたい心境だった。
そしてなんといってもワイドショーの中で流れていた「遥かなる夢に〜Far away〜」のビデオクリップである。全部は流してくれなかったが、心を引き付けられるには少しだけでも十分だった。
「なんていい曲なんだろう!きっと日本語もすごく勉強したんだろうな。今度CD見つけたら買ってみよう」
とそこで思った。

日本版CDを探しまわる
そしてのちに、シングルの「くちびるを奪いたい/遥かなる夢に〜Far away〜」を手に入れることになる。そして「遥かなる夢に〜Far away〜」をやっと全部聴くことができた。そして衝撃的な出来事が・・・。サビの「♪物語を〜」の部分を聴いたとき、家駒のその声の力でからだ全体にゾクゾクっと震えが走ったのだ!語尾で鼻から抜けるような特徴的な歌声、そして完璧ではないがゆえに余計に心に染み入ってくる日本語詞、はっきり言って私はそれまで聴いてきた曲で、こんなにも歌詞を意識して聴いた曲などなかった。だから初めて歌詞を覚えた曲といっても過言ではない。
そしてカップリング曲。これは全く違った感じの、非常にポップな曲でこれもまたいい。
「なぁんだ、2曲ともこんなにいい曲だったら、アルバム買っておけばよかった」
それで今度はミニアルバム「THIS IS LOVE T」を探し回ってついに買ったのだ。そして聴いてみる。本当にこの人たちはハズレの曲がない(「もーまんたい!」はご愛嬌)。やっぱり全部いい曲なのだ。
「でもまてよ?たしか「進め!電波少年」のエンディングで使っている♪WO-OH WO-OH OHっていう曲、あれもたしかBEYONDだったよな?(ウッチャンナンチャンがオールナイトニッポンで話していたのをなんとなく覚えていた)でもこれには入ってないな。じゃあ別のアルバムにでも入っているのかな?」
それでまたBEYONDのほかのアルバム探しである。そして「超越」というアルバムを発見。これは探すのに苦労した。どれが「進め!電波少年」で使っている曲なのかわからないのでとりあえず買う。どうせこの人たちの曲にハズレは無いんだから、という気持ちで。そして聴いてみる。そこでようやく、エンディングで使っている曲とはオープニングでも使っている曲だったということを理解。このアルバムで初めて広東語の曲、北京語の曲を耳にするがこのときは、まだどれが何語なのかは全然わからなかった。しかしながら楽曲のすばらしさというのは言葉の壁を超えてしまうのだ。「早班火車」などは曲を聴いているだけで、なんとなくイメージが浮かぶのである。この曲を聴いていると
「なんでこんないい曲を書ける人が…」
と、悔しく、残念でたまらない気持ちになった。とにかく、このアルバムもハズレが無かった。
「この人たちにはもっとすばらしい楽曲がありそうだし、情報を得るためにもファンクラブに入ろう」
と、そういう気持ちになるまで時間はかからなかった。そして恐らく、私にとって生涯唯一?のミュージシャンのファンクラブ入会に至ったのである。

BEYONDの情報が少なくて苦労する
その後は、うちの方は田舎なのでワールドミュージックを扱う店など無く、ファンクラブのニュースペーパーもしくは電話での情報でしかBEYONDを知ることができなかったため、とにかく動いているBEYONDが見たくてたまらなかった。
それから12月にビデオクリップ発売決定、速攻で予約し、発売日の前の日に買いに行く。そしたらなんと店のにいちゃんが
「あの(THIS IS LOVE T宣伝用)ポスター、欲しかったらあげるよ。」
と、まだ貼ってあった 「THIS IS LOVE T」宣伝用ポスターをくれたのだ!ファンにはヨダレもんである。
それからまたしばらく、BEYONDに関するものなど手に入れられずもどかしかったが、確かこの頃に過去のシングルを注文して買ったと思う。

いよいよ広東語、北京語の世界へ
次は1994年ゴールデンウィーク前、東京の知り合いに、
「BEYONDという人たちのCDだったらなんでもいいから買ってきて!間違ってもthe BEYONDとかいう、別の人たちのは買わないでね!」
と念を押しつつ買ってきてもらい、ここでいよいよ本格的に広東語、北京語の世界へ突入ということになった。最初はやはり
「日本語版で彼らの楽曲の良さは確信した。けれど全く未知の広東語、北京語の世界について行けるのかな?」
と不安だった。でも前述のとおり、楽曲のすばらしさというのは言葉の壁を超えてしまうのだ。曲を聴くだけで、大体こんなことを言っているのかな?と想像できるのである。特に彼らの曲は。ちなみにこのとき買ってきてもらったアルバムは「舊日足跡」「光輝歳月」「Beyond精選輯ENCORE」の3枚で、特に「Beyond精選輯ENCORE」に収録されている「阿拉伯跳舞女郎」は
「な、なんだ、この曲は!こんな感じの曲って日本にないぞ(いい意味で)。音の並べ方がすごいなぁ!」
そして
「♪arabian dancing girlがなんかすごくネイティヴな発音だな(※私は全く英語曲を聴かなかったため初めてそう思った)。さすが香港は英語も公用語なだけある」
などと変なところ?で感心したりもした。 こうして広東語、北京語への問題は全く無く、のめりこんでいくことになったのだ。

少し不安を感じるも・・・
それでもまだ不安要素はあった。それは今までの楽曲の多くは家駒の手による作品だからだ。
「でも「くちびるを奪いたい」は家強の作曲だし「NEVER CHANGE WORLD」はポールの作曲。いい曲書けるから3人でもなんとかやっていけるだろう」
とは思ったものの、やはり新生BEYONDのニューアルバムを聴いてみるまで不安は拭えなかった。
それでついに待望の新生BEYONDとしてのニューアルバム「二樓後座」が発売され、それから時間はかかったが、友人経由で「二樓後座」を入手。それを聴いて、それまでの不安は一気に吹っ飛んでしまった。社会的意識の高い歌詞、心配された音楽性も変わってはいなかった。
「いける、3人でもBEYONDは十分にやって行ける」
と、確信した。
そして田舎を出てからというもの、彼らの広東語、北京語のアルバム、VCD等を買いまくったのは言うまでもない。

希望
1995年、残念ながらAmuseとの契約は更新せず、BEYONDは日本での活動を休止することとなった。日本語5thシングル「アリガトウ」の頃には、かなり日本語も上達していただけに本当に残念でならない。いつか、気持ちの整理がついたらまた日本に来て欲しい。



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