■ トム・ジョーンズ、またの名… トム・ジョーンズはその声ゆえに ザ・ヴォイス The Voice と呼ばれている。ソウルを歌えば黒人を思わせ(青い目のソウル Blue Eyed Soul)、またデビュー当時は ウェールズのプレスリー Welsh Elvis, Presley of Wales とも言われた。そのパワフルな歌い方から Mr. Dynamic, かっこよさから The King of Cool , セクシーさから The Sexiest Man on the Planet とも呼ばれている。さらに98年7月4日にロンドンのハイド・パークでのチャリティー・コンサートに出演したとき、チャールズ皇太子 (Prince of Wales) からこう声をかけられた。
「ウェールズの声帯 Welsh Vocal Cords が健在で嬉しく思います。」
■ 音楽のジャンル 音楽的にはまずR&B(リズム・アンド・ブルース)の魂を持ったロッカーであった。 そのジャンルはポップス、ロックからスタンダード、R&Bからロカビリー、カントリー、 ダンス・ミュージックから洗練されたコンテンポラリー・サウンドと幅広い。
■ トム・ジョーンズはどんな歌手か 独特の重量感のある声はバリトンからテナーのレンジをカバーし(ダブル・ハイC)、そのユニークなヴォーカル・パワーとカリスマ的な人間性のために今日世界でもっとも尊敬され、崇拝され、愛される歌手のひとりである。そのエネルギーと情熱と、集中力のすべてをあますところなく聴衆に伝えることができ、聴衆を意のままに彼の感情の奥深くにまで引き入れることができる。自然児であり、ウェールズ人であり、労働者であり、アーティストである。
■ 誕生から学校を終えるまで
トム・ジョーンズ(本名トーマス・ジョーンズ・ウッドウォード Thomas Jones Woodward)は1940年6月7日、サウス・ウェールズのポンティプリッド Pontypridd にロンダ渓谷の炭坑夫トーマス と妻フレダ の息子として生まれた。 ウェールズには古来から詩と歌のすばらしい伝統があり、それは厳しい生活を送る大地の労働者たちの魂でもあった。(トムが歌ったら落盤しそう。)赤ん坊のときからアップテンポの曲に敏感に反応し、幼い頃から歌うのが好きで、3才にしてもう村の八百屋の店先をステージにして歌っていた。客に小銭を出させたことにトムの母親が抗議すると、八百屋のおやじさんは言った。
「この才能をただで聞かすのはもったいないよ。」
小学校ではクラスメートが聴衆だった。毎週金曜日の放課後にはショーをした。(なんと幸せなクラスメートたちだろう!)
教会でも歌い、トレフォレスト公立校ではコーラスで歌っていた。よく母親にカーテンを引いてアナウンスしてくれとせがみ、居間のステージでショーの真似事をした。親戚の結婚式に行けば母親の袖を引っ張って、「ねえ、歌ってもいい?」と聞くのだった。後にニューヨーク・タイムズで "Thunder lungs" と形容されるあの声からは想像できないが、10代の初めに彼は結核に侵され、1年半もベッドで過ごさなければならなかった。誰もが声への影響を心配したが、病気の回復と共にまた歌えるようになった。この療養生活の後、ブロンドに近い明るい褐色だった彼の髪は黒に変わってしまった。しかしこの病気のお陰で彼は祖父や父の跡を継いで炭坑夫にならないですんだとも言える。
16才であまり芳しくない学校生活を終わり、幼なじみのガールフレンドメリンダ・トレンチャード Melinda Trenchard(リンダ Linda)の妊娠を機に彼女が16才になるのを待って結婚、16才の若さでもう妻子持ちになっていた。新しい家族を養うために昼間は建設労働者、レンガ職人の助手、グローブ作り、掃除機の戸別訪問販売、石炭運搬、道路工事などあらゆる仕事をして働き、夜は近所のパブで飲みながらラジオから流れる英・米のソウル、R&B、ロックに熱中し、みずからも歌った。そこで自分がどんなものでも歌えること、人を楽しませることができることを知った。
■ デビュー前夜 − 悪夢のロンドンでの生活 23才の頃にはトミー・スコット Tommy Scott の名で地元ではかなり知られた存在になっており、地元のバンド「セナターズ Senators」のヴォーカルに選ばれ、労働者向けのクラブやダンス・ホールにレギュラー出演し人気を博していた。 全国進出に向け地元のマネージャーのアレンジで、 トミー・スコットとセナターズ Tommy Scott and the Senators はロンドンのジョー・ミーク Joe Meak のスタジオまでデモ版を作りに行ったが結果はなしのつぶてだった。このままだったら彼は地元の人気歌手で終わっていたかもしれない。 彼のブレーク・スルーには名プロデューサーのゴードン・ミルズ Gordon Mills の登場を待たなければならなかった。評判を聞いてトムの出演するクラブに出かけたミルズはこう回想している。
「最初の何小節か聞くだけでもう十分だった。世界一の歌手になれる声だと確信したね。」ミルズはトムとグループのマネージャーになり、名前もトム・ジョーンズと 改めさせ、プロモーションのため再びロンドンに連れていった。この方がむしろ本名に近いが、フィールディングの古典的名作「トム・ジョーンズ」(63年にアルバート・フィニー主演の映画が公開された)のセクシーな主人公にあやかったものでもあった。
だがレコード会社各社の反応は厳しかった。トムの声はしわがれていて重過ぎるし、パワーがありすぎた。それに演奏スタイルは行きすぎで、あまりにセクシーだった。声は黒人っぽく、動きはプレスリーみたいだった。当時はビートルズの全盛で、パワフルな男っぽいタイプではなく、「都会的な男の子のグループ」が求められていたのだ。トムはヘヴィーすぎた。
このロンドンでの半年間はトムとプレイボーイズ(旧セナターズ、後のスクヮイアーズ)にとって悪夢のようなつらい時期だった。ゴードンが借りてくれた狭いアパートで共同生活し、毎日一人1ポンドをもらって食いつないでいたが(5人で1ポンドだったという説もある)、ゴードンの資金も底をつき、銀行の借金はふくらんでいった。仕事はなく、赤貧の日々だった。とりわけトムはグループの中で唯一結婚しており、ウェールズに残した妻子が気がかりでならなかった。仕送りもできず、リンダは幼い子をかかえてグローブ工場に働きに行かなければならなかった。リンダからは帰ってほしいと矢の催促だったが、さりとてこのままウェールズには帰れない。先は全く見えず絶望感に襲われロンドンの地下鉄に飛び込みそうになったことさえあった。クリスマスには部屋代と日当を浮かすためウェールズに返された。他のメンバーと違ってヒッチハイクを嫌ったトムは一張羅のジャケットを売って電車代を作ったほどだった。しかしゴードンの尽力でこの1964年の末、ついにデッカ・レコードとの契約にこぎつけた。
■ よくあることさ It's Not Unusual でブレーク! 最初のシングルはパッとせず、次の曲 よくあることさ It's Not Unusual はミルズ自身がペンをとった。しかしお堅いBBCではホットすぎる、 という理由で放送されず、初めは海賊ラジオ局で流してもらったのだった。ところがこの曲は 信じられないことにぐんぐんヒットチャートを登っていき、ついに全英1位に躍り出て、世界的なヒットとなった。グループ全盛の当時、これは異例のことだった。そしてこの大ヒットはトムとゴードンの生活を劇的に変えた。莫大なお金が入り、人が集まり、毎日が興奮の連続となった。だがトムのセクシーさが意外なトラブルを生んだ。テレビに出演して歌うと全国の母親たちから 放送局に手紙が殺到した。
「いったいこの男は子供の番組でおぞましいお尻をふりまわして何をするつもり?」と。後にアメリカに進出したときにはアメリカの母親たちはもっと神経質だった。 エド・サリバン・ショーに初めて出演したときは、プロデューサーたちからその「動き」をやめないと画面からはずす、と警告された。
■ アメリカ進出と喉の手術 しかしこのあと、何かいいことないか小猫ちゃん What's New, Pussy Cat、最後の恋 I'll Never Fall In Love Again (It Looks Like)、とヒットが続きアメリカ進出にも成功した。1966年の初めには喉の手術を受けなければならなかったが、無事成功し、この年、 ボンド映画007シリーズのテーマ曲 サンダーボール作戦 Thunderball を歌い、話題になった。そして66年暮に出たカントリーのスタンダード 思い出のグリーングラス Green, Green Grass of Home は全英ヒットチャートで連続7週トップにとどまり、彼の最大ヒットとなった。
68年にはさらにゴールド・ディスクが続く。デライラ Delilah, ささやく瞳 Help Yourself、ラブ・ミー・トゥナイト Love Me Tonight, 愛無き世界 Without Love、忘れじの感傷 Funny Familiar Forgotten Feelings。そして何枚ものLPのアルバムもヨーロッパと アメリカの両方でトップテンに入った。
続く70年代に出たのは I (Who Have Nothing), それにポール・アンカ作曲の シーズ・ア・レイディ She's A Lady は全米で2位となった。こうして1970年代後半までに全世界で3000万枚のアルバムを売る大スターとなった。(90年前半ですでに1億枚を超えたと言われている。)
■ TVショー「ディス・イズ・トム・ジョーンズ」 69年からはアメリカ・イギリス両国のテレビ局による2年間にわたる彼のレギュラー・ショー番組「ディス・イズ・トム・ジョーンズ This Is Tom Jones」が始まった。このシリーズには莫大なお金と時間が費やされ、毎回豪華なゲストを迎えて大西洋の両側で大人気となった。これはまた70年代に始まるラスベガスでの大成功につながった。 彼のショーは世界中でソルド・アウトとなり、そのエネルギーと率直さ、自然なところが批評家にも聴衆にも同じように賞賛されている。
■ カントリー時代 ツアーでの人気は変わらなかったが、70年台中ごろになると、ヒット曲が途絶え、その後10年でヒットチャートに記録されたのはカントリーの Say You'll Stay Until Tomorrow のみであり、60年台後半に比べるとさびしい状況が続いた。この時期にはカントリーのアルバムを数枚出しているが、あまり話題にならなかった。計画された映画出演の話もさまざまな理由で頓挫し実現しなかった。(映画のページ参照)そして彼にとって大事な人たちが次々と世を去っていった。77年8月15日、彼のショーのアレンジを全て手がけてきた音楽ディレクターのジョニー・スペンス Jonnie Spence が若くして心臓発作で急逝、その翌日8月16日には親友エルヴィス・プレスリーの訃報が入る。81年には長年炭坑で働き続けた父親が塵肺で死亡、86年には一心同体だったマネージャー兼プロデューサーのゴードン・ミルズが胃癌で急逝。トムの憔悴ぶりは激しく、演奏活動をやめるのではとまで噂された。
■ ミュージック・シーンの中心へのカム・バック しかしトムのキャリアは次の段階に進む。1987年にミュージカル「マタドール Matador」への出演依頼を受けイギリスに帰るが、この中で歌ったバラード A Boy From Nowhere が大ヒットとなり、若い世代の関心も呼んで、ロンドンのクラブでは急に よくあることさ It's Not Unusual のリクエストが増え、レコードも再発売された。ついで1988年には プリンス のヒット曲 キッス Kiss のカバー(アヴァンギャルド・テクノ・バンド アート・オブ・ノイズ Art of Noise の依頼を受けて共演した)で再び大人気となり、91年のクルド難民救済コンサートにも呼ばれて歌い大喝采を浴びた。92年収録の The Right Time はポピュラー・ミュージックの各ジャンルごとの全6回シリーズで、それぞれ新旧のスターたちを迎えてトークと歌で共演、若い世代にも彼を印象付け、イギリス、アメリカの両方で再びミュージック・シーンの中心にカム・バックした。
■ エルヴィス・プレスリーとトム・ジョーンズ デビュー当時のトムは「ウェールズのプレスリー」と言われたこともある。生前のエルヴィス・プレスリー Elvis Presleyとはお互いに尊敬し合う仲で、エルヴィスは自分の歌を歌う前に デライラ でウォーミング・アップしたという。また1966年にトムの 思い出のグリーングラス が出たときは、あのエルヴィスが何回もラジオ局にリクエストの電話を掛けたそうだ。
■ スーパースターのクライシス スーパー・スター・エルヴィスは後年神経を病んで薬物中毒になっていたとされている。彼と親しく、同じくスーパー・スターの道を歩んだジョーンズの場合はどうか。彼にもクライシスはあった。 それまで車も持ったことがなかった彼は It's not unusual が大ヒットして真っ赤なジャガーを買った。豪邸も買い、毎晩ロンドンの高級クラブを飲み歩き、しまいに飲酒運転で自損事故を起こし頭にケガをした。ここで気がついた彼は以後は自制するようになった。「キャリアの非常に早い時期にこういうことを経験してよかった」と彼は述懐している。 ちなみに彼のクスリ嫌いは有名で一切やったことがないという。「アルコールなら何をどれだけ飲んだかわかる。ボトルに内容が書いてあるからね。でもクスリの場合は中に何が入っているかわかりゃしない。」
■ おなじみのランジェリー爆弾 ところでトム・ジョーンズほど女性の下着と縁の深い歌手もいないだろう。ライヴでは興奮した女性たちが、ステージに向かって下着を投げる。(ときにはホテルの部屋のキーまで一緒に。)トムはそれで額の汗を拭いて投げ返す。60才を越えた今も一種のオマージュとしてそれは続いている。始まりは1968年、ニューヨークのナイト・クラブ「コパカバーナ Copacabana」でだった。汗だくのトムに女性客たちがテーブル・ナプキンを差し出していた。そのとき、あるご婦人が突然立ち上がって下着を脱ぎ、彼に手渡したのだ。トムは面食らったが、咄嗟にそれで汗を拭いて返した。しかし居合わせたコラムニストのアール・ウィルソン Earl Wilson がそれを記事にしたため有名になってしまった。
だが1996年のロンドンのウィンブレー・スタジアムでのショーでおこったことは当惑ものであった。ある女性の投げた下着がまともに彼の頭に命中したのだ。しかもトムの「マイ・ウェイ」とも言われるセンシティヴなバラード A Boy From Nowhere を歌っている最中に。トムいわく、
「ぼくに下着を投げるのはかまわないけど、A Boy From Nowhere を歌っているときだけはやめてほしい!」しかし一方でこのイメージが一部の音楽ファンを遠ざけている理由になっているのも事実である。一部の人々はイメージだけで判断し、彼の音楽を聴こうとしない。彼の声の素晴らしさを考えるとこれは非常にもったいない話である。
■ 家族 有名・無名の女性たちから常に追いかけられ、ミス・ワールドや黒人歌手などとも取りざたされた彼だが、16才で結婚したリンダ夫人とは40年以上連れ添っている。ひとり息子の マーク(Mark Woodward)は17才のときから父親の演奏旅行に付き添い照明係を務めていたが、音楽に深い関心があり、86年に急逝したゴードン・ミルズに代わってマネージャーとなった。トムに新しい音楽への関心を呼び起こし、新しいトム・ジョーンズ像を作った立役者ともいえる。その妻ドンナ Donnaは広報担当をしている。すでに2人の孫がある。
■ トム・ジョーンズはどう変わったか 30年以上にわたって人気を維持している歌手は他にもいるかもしれない。しかしその多くが過去の栄光に生き、往年の、という形容詞がつくのに対し、トムの場合、全く現役のままだ。 60才を越えた今も衰えることのないエネルギーとセクシーさを発散させ、コンサートに来る人々を魅了してやまない。その声は上質のワインが熟成するように、ますます好調だ。一方で他の歌手たちが音楽的には往年のイメージを固守しているのに対し、彼は常に新しいものに興味を持ち、時代を見る目があり、自分の音楽に積極的に取り入れている。 それが新たに若い聴衆を獲得し、10代から80代まで幅広いファンを魅了し続けている理由かもしれない。
1999年3月9日には永年の音楽での貢献に対しエリザベス女王から名誉あるOBE勲章(大英帝国勲位)を授けられ、2006年3月29日にはついにナイトの称号を贈られ、サー・トム・ジョーンズとなった。
参考:この日本語版は特に上記4つを参考に、さまざまなソースからの情報を加えています。
- Tom Jones Enterprises press biography, 1993
旧トム・ジョーンズ・エンタープライズの公式バイオグラフィー。- Contemporary Musicians, May 1994 (Volume 11) by Joanna Rubiner
(コンテンポラリー・ミュージシャンズより。旧ミュージック・ブールワ−ルのバイオグラフィーのページに掲載されていました。現在はありません。)- The Boy From Nowhere (1988) by Colin MacFarlane
- Tom Jones - A Biography (1998 edition) by Hildred and Gritten
Mari 最終更新2006年7月1日
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