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-東女瓦版184号2面掲載作品- 「馬鹿の悪あがきに風紀委員様の微笑」 元坂春 放課後の教室である。本来ならば、とうに生徒は下校しているか、部活にうちこんでいる時間だ。そんな中、馬鹿と風紀委員様こと、夏彦と由紀は人気のない教室の一角で、机を挟んで向かい合っていた。彼が惹かれてやまない由紀の手元には、A4の紙が七枚。学年末試験のテスト用紙だ。汚い字で書かれた名前の横には、散々たる点数が赤く鮮明に記されている。 「全教科合計219点」 先刻からの冷たい視線に耐え切れず、うつむいていた夏彦はびくりと肩をはねさせた。告げられた数字が、彼女の主力三科目の成績から引いてもまだお釣りがくるのを彼は知っている。ひとつ、深い溜め息をつくと、「まずは世界史から」と比較的、救いようのある答案用紙を抜き出し、由紀は問題の解説をはじめた。 二人が出会ったのは、夏でも冬でもない。さらに言うならば、クラスメイトであるのに教室でもない。それは、春の気配が大気に充満している季節のことだった。 ------------(ここより紙面未掲載分)------------------- 夏彦は校舎の屋上にいた。転落防止の柵に肘をのせ、煙を吐く。ごたぶんにもれず、無断の立入を禁じられている場所であったが、そんなことは関係ない。彼は規格外で、素行不良で、入学早々問題児であった。ミスプリントの裏に書かれた注意なんぞ、守るはずもない。それをあざ笑うかのように、メンソールのきつい煙を吸いこむのだ。そんなことをしながら、授業にも出ないくせに、学校に来て屋上でふけている自分がひどく中途半端で、惨めで馬鹿馬鹿しかった。 不意に、くわえていた煙草を取り上げられたのはそんな時だ。内心焦って、振り返って見た人物が教師でなかったので、少し安堵する。きっちりと長い前髪をピンで留めた、優等生然とした雰囲気。左腕には、風紀委員の文字が縫いつけられた腕章。それが由紀だった。その手にこの上なくミスマッチな煙草を持って、彼女は立っていた。 その後、由紀がどうしたかと言えば、今でも信じられない。「校則違反です」の一言と共に、煙草を没収しようとした彼女に愛想笑いも凄みも通用しないと悟った夏彦は、取り返そうと強硬手段に出た。すると、彼女は無表情のまま同じ台詞を繰り返し、火のついたままのそれを握りつぶしたのだ。無論、素手で。鼻をつく、蛋白質の焦げる臭いは忘れられない。何を思ってそんなことをしたのか、いまだに真意は分からないが(由紀の考えていることは分かることの方が少ない)、彼に鮮烈な印象を与えるには十分だった。顔色ひとつ変えない相手に、夏彦の方が大慌てで保健室に引っぱっていったのも、もう一年近く前の話なのだ。月日の流れははやい。 強烈な出会いであったことは確かだが、なぜ、あれで由紀のことが好きになったのか、自分でも訳が分からない。品行方正にして、成績優秀の風紀委員様だなんて、およそ人種が違う。にもかかわらず、心奪われてしまった。恋は理屈ではないのかもしれない。 成績の芳しくない生徒のための追試験に、夏彦は当然のごとく引っかかっている。規格外で、素行不良の問題児は、彼女に会うため、まともに教室に通うようになったが、悲しいかな、ニコチン中毒の頭はよく働かないし、もともと出来も良い方ではない。むしろ、悪い。よって、いかに努力しようと追試験を免れることは叶わないのである。ただ、彼にとってただひとつの、そして最大の幸運は、その補習の監督が由紀であったということだ。 他の成績の芳しくない生徒たちと比べても、彼のテスト結果はあまりに酷いものだったのだ。同じ補習を受けたところでついていけるはずもない。そして、彼女は見た目通りの優等生である。また、夏彦が由紀に好意を抱いているのは周知の事実だったので、彼女ならばどうかできるだろうと、体よくこの問題児を押しつけられたのだ。 「夏彦」 名前を呼ばれ、ぼんやりしていた彼は、はっと顔をあげた。 「もうやめようか」 その声音も表情も驚くほど冷静そのものだが、怒っているのが分かる。由紀にしてみれば、いい迷惑だろう。担任に頼まれたのでなければ、お守りをする義理などないのだ。それで相手が上の空とあれば、機嫌が悪くなるのも当然の話である。 「ま、待って、ちゃんとやるから」 焦って姿勢を正すと、彼女はしばらく沈黙した後、シャープペンシルを持ち直した。大目に見てくれるらしい。 由紀に対する感情をクラスメイトどころか、学校の誰もが知っているという状況は、夏彦が時と場所をかまわず彼女に思いを伝えたからに他ならない。彼の懸命な告白に対し、答えはいつも変わらない。「興味がない」「必要がない」「価値を見出せない」。要はノーだ。そういうことは、面倒で、不毛で、青春の無駄使いだと信じているらしい。嫌いだとはっきり言われたなら諦めもつく。しかし、曖昧な言葉に、生来の馬鹿さは言うことを聞かなかった。色恋沙汰に関心のない由紀に、懲りもせずに玉砕し続けて早一年。夏彦だって、溜め息をつきたいし、泣きたい気持ちになってくる。それくらい、彼女が好きなのだ。 「今日はおしまい」 またしても思考を飛ばしてしまっていた。声に先程と比べ物にならないほどの冷たさを感じて、夏彦はぎくりとする。恐る恐る表情をうかがうと、由紀は無言で机の上を片づけはじめていた。 「あの。由紀、その・・・」 「いいの。あなたにやる気がないならそれで。留年しても、私は関係ないから」 弁解しようとする夏彦に、彼女はぴしゃりと言い放った。留年の一言に、戦慄する。今度の追試験に受からなければ、進級できないのは明らかだ。由紀と離れ離れになってしまう。それだけは、絶対に回避しなければならないのに。二人きりという状況は喜ばしい限りだが、どうしても勉強は苦手なのだ。現在完了も因数分解もラ行変格活用も体質的に受けつけない。容量を超えた頭が痛くなるだけだ。彼女をながめていられる絶好のチャンスとはいえ、苦痛であるのにかわらない。結果、現実逃避。 補習の度、いい加減、由紀も諦めている節があったのだが、今回ばかりはまずいかもしれない。どうすれば良いかと考えど、しぼる知恵さえない。 「由紀っ」 だから、心の内を吐き出すしか、彼にはできなかった。 「ごめんなさい。時間とってもらってるのに、まじめにやらなくて。 でも、関係ないなんて、言わないで。俺、由紀といられない学校なんて、来ても意味がないんだ」 会いたい。ずっと一緒にいたい。由紀が好きだから。 独りよがりを言っているだけ。言ってから気づいても無駄だった。やっぱり馬鹿だ。由紀が振り向いてくれるはずもない。駄目だな、俺と、瞬時に不思議と達観した。長い一年だったと思ったその時、夏彦は信じられないものを見た。 由紀が、笑っていた。それは、ずっと見続けてきた彼でなければ気づかないほどの、本当に微かなものであった。だが、確かに薄い唇の端は、あがっている。はじめて見る微笑みは思いの外優しく、そこだけ色がついているように鮮やかだった。この微笑が意味するものは何なのか。考える余裕もない。それくらい彼には鮮烈で、美しいものだった。 「次は、数学ね」 ぼうっと見とれている間に笑みは消え、由紀は再び筆記用具を取り出していた。慌てて、夏彦も向き直る。何事もなかったように、彼女は解説を続けていた。その様子があまりにいつも通りなので、白昼夢だったのかとすら思えてくる。 都合の良い妄想を見たのだろうか。ひとまず、機嫌を直してくれたようなので、今度こそ真剣にやらねばならない。 狐につままれたような気分のまま、彼はようやくプリントの図形に目をやることにした。高鳴る鼓動をもてあまして。 「そう。それじゃあ、確かに関係なくなかった」 こっそりと、由紀がもう一度微笑んだことに、夏彦は気づかない。 別に、嫌いなわけじゃないよ。 (完) |