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-東女瓦版183号2面掲載作品- 「蜜月」 なつ 小学三年生といえば誰もが子どもだと言う年齢だ。けれど、今日も小さな女の子たちはおもちゃ箱のような教室できゃっきゃと好きな男の子の話を始める。誰がかっこいいとか、どういう人がタイプとか、いつ結婚したいとか。案外大人が聞いたら顔が引きつってしまうような会話が繰り広げられている。 滑稽なほど真剣で、夢物語でしかないおしゃべり。それはいつか大人になったときすっかり忘れ去られる報われない真実の産物だ。 瑠美は唯一おしゃべりの輪に参加せず男の子の話をしない女の子だ。クラスで一番背が低くて一番髪が長い女の子。まあるい目をぱちりと瞬かせ小首をかしげかわいい唇で言うのだ。 「足の速い男の子なんて嫌。面白い男の子なんて嫌。逃げ足が速くて口の上手い男なんて最低ね。」 瑠美にとって同級生はみんな騒がしくて生意気なガキでしかないのだ。だから話を合わせたりしない。 瑠美には大大大好きで、何所より何より誰より愛しい人がいる。一緒に暮らしているイラストレーターの嵐だ。荒々しい名前に似合わず大変温厚で優しい性格をしている。例えるなら、忠誠心の強い大型犬。瑠美は仔猫だ。威嚇するくせに甘えたがりでわがまま。 そんな二人の甘ぬるい時間は瑠美の帰宅から始まる。 「ただいま」 ------------(ここより紙面未掲載分)------------------- 午後四時半。 瑠美は年齢に似合った幼い声と年齢以上に聞き取りやすい発音で帰宅を知らせた。返事は期待していない。なぜなら、祖父母は趣味の旅行で留守だからだ。昨日から一週間の予定で海外へ渡航している。残る一人の居候からは打てば響くような返事をもらったことがない。 さほど大きくはない瑠美の声が空気に溶けきった頃、奥のほうからパタパタとスリッパの音が向かってくる。そのちょっと遅い反応と軽い音だけで瑠美は緊張が緩む。学校から帰ってきたことを実感するのだ。 訳ありで祖父母の家に来てもう三年。すでに瑠美にとっての『home』は両親との生活を指すものではなく、祖父母が所有するこの古い洋館での生活を指すものになっている。そしてそのゆりかごに揺られるような生活を作り出しているのが居候の嵐だ。 今日も嵐は眠そうな顔で「おかえり」と言って頭を撫でてくる。襟と袖がほつれたブルーのトレーナーに裾の擦り切れたジーンズを穿いた嵐はゆったり無理なく微笑む。大きな体でも優しい性格が災いして頼りなく見られがちだが、瑠美が両手を伸ばすと軽々抱き上げてくれる。 瑠美は嵐の腕にくるまれるのが大好きだ。何なのか言葉が見つからないが、失くしてはいけない何かを体の中に閉じ込めてくれている気がするから。瑠美が簡単に手放そうとする何か大事なものを嵐は守って補給してくれている。実態は掴めないのになんだかそんな気がする。 「あっくん、お仕事忙しい?」 瑠美はなんだか少し苦しくなって嵐にすがるようにその首に腕を回した。『大事なもの』は心地がいいのに、じっと考えようとすると途端に苦しくなるのだ。 「うーん。まあまあ、かなぁ?」 ふんわり暖かい嵐の声音は意図せずとも瑠美をなだめる。 フリーのイラストレーターである嵐は美大生時代からこの洋館に居候して仕事を請けている。最初は細々としたものだったが才能はあったようで、卒業した今では十分生活できる収入がある。 「忙しいんでしょ?」 「まあまあだよ」 (忙しいのね) なんでもない風に言うときこそ怪しいと瑠美は知っている。だって、間近に見つめる嵐の目は疲れて赤いウサギの瞳だ。 「眠ってたんでしょ?」 「そんなことないよ」 (そんなことあるよ) だって、おでこが赤くなっている。なみなみした模様付で。きっと袖のリブ部分におでこを乗せて机とお友達になって眠ったのだ。 「疲れてるんでしょ?」 「全然」 (今日一番の嘘だ) 瑠美がじぃっと、じぃーと見つめると嵐は苦笑した。言葉にはされないが忙しいと認めた瞬間だ。 「あっくん、お仕事して?独りで待てるから。邪魔しないよ。」 じっとしてる、いくらでも待てるからと言うと嵐は少し悲しそうな顔をした。それはほんの少しの変化で、瑠美くらい全身で嵐を見続けていなければ気づかないものだった。 (困ってる?) けれど、幼いがゆえの一途さで瑠美は嵐の変化を感じ取ってしまった。 「ねぇ、待てるよ。わがまま言わないよ。いい子にしてる。」 不安になった瑠美が訴えると嵐はふっと気配を甘く優しいものにした。瑠美の強張った表情をほぐすようにふにふにと頬をつままれ、つつかれた。なくならないペンだこのある指がこすれて硬くざらつく。瑠美はくすぐったい感触に照れて仔猫のようにくんにゃりと嵐に甘えた。 「大丈夫。もうお仕事は終わったんだ。さっき終わったところ、ね。」 (良かった。間違ってない。邪魔しないで、いい子で待っていればいいってお母さん言ってたもん。そうしたら……) ふるっと瑠美は震えた。何か怖くて冷たくて暗いものが近くで瑠美を見張っている気がしたのだ。 「どうしたの?」 無意識のうちに嵐の優しい声だけが頼りだと瑠美は感じ、お願いとか細い声で言った。 「独り、いや。今、怖かった、の。」 「うん。じゃあ、一緒にいようね。」 囁くように嵐は言った。 甘い言葉と優しい声音に瑠美はそっと目を閉じる。 眠ってしまえばいいと、ゆりかごのような腕の中で揺らされる。 (だいじょうぶ。あったかい、こわくない、さみしくない。ずっとこのままがいい) 泣きながら食べるチョコレートの罪深い甘さ。 その蜜月はまるで悲しい感情を隠すために食べるお菓子の甘さに似ていた。 (完) |