第1章 自我状態論の考察

TAの言う「脚本」は一見、個人的な人間同士のつながりだけからそのネガティブなメッセージを受けて生じるように見えがちである。しかし実際はそれだけではない。つまり我々の生活の中にある暗黙のルールや習慣、更には法に至るまで、人間を規制しているものも禁止令になりうる。問題はそれらの規制の中で生活している人間がその根拠を理解し、その上でその規制の存在価値を認めているか、ということである。だから賢明な人間は実際どの規制が必要であり、どの規制が必要でないかを弁えようとする。特に我が国にとって問題なのは人間の基本的な権利でさえその価値の源を法にのみ求めようとする人間の多いことである。人間の権利の根拠はまず人間自らの権利感覚から生じなくてはならない。

「世界中のすべての権利=法は闘いとられたものである」

 「権利のための闘争」で述べられたイェーリングのこの力強い言葉も、残念なことに我が国にはほとんど当てはまらない。なぜなら我が国の民主主義と基本的人権の尊重は、民衆の力強い革命によって勝ち取ったものではなく、敗戦を機に輸入されたものだからである。これは歴史の証明するところであって、ここで詳しく述べることではないが、ただこれだけは付け加えておく。我々はフランス革命やアメリカ独立戦争の偉大さ、荘厳さを知る必要がある。我が国には法と権利という器だけが準備されている。その中身を満たすためにはもはや権利感覚を持った人の草の根的な活動に頼るしかない。なぜならいくら優れた法を見いだそうとも、それを使いこなす力は人間の普段の生活の中で培うものだからである。つまり権利感覚を磨く教育が必要なのである。

 なぜ私がここで権利などという心理臨床となじみの無いかのように見える事柄を持ち出したかと言えば、私がTAの考察をするに当たってまず、自我状態論の説明をするためである。私は世間で広く認められている一般的な自我状態論ではなく、愛知学院大学深山富男教授による自我状態論を支持する者であるが、そこに「権利」という理念を当てはめればその意味するところを理解しやすいと考えるのである。

第1節 一般的自我状態論の考察

 この論文は深山による自我状態論の考察を中心に進められるが、その前に一般的な自我状態論を説明し批判する必要がある。まずその批判から始め、次に深山による自我状態論の解説と考察を進めることにする。

  一般的な自我状態論の説明はこうである。人間の自我状態はNP(Nurturing Parent)、CP(Controlling Parent)、FC(Free Child)、AC(Adapted Child)、A(Adult)の五つに分けられる。NPは母親的なペアレントと呼ばれることもあり、相手を優しく受容するような状態を言う。CPは父親的なペアレントと呼ばれることがあり、相手を批判したりコントロールしたりしようとする状態のことである。FCは自由奔放に時には周りの迷惑を顧みないで行動する状態である。ACは規制やルール、権威に無条件に従う順応した状態である。Aは人間の考えている状態を指す。NPはFCと対応するものでありNPはFCの気ままな振る舞いを受容する。CPはACと対応するものであり、CPという権威にACは従う。一般的な自我状態論ではこれらの状態が生活の中でバランスよく保たれたときに人間は幸福である、というのである。(表1、2)

 しかしこの説明のされ方では得るものはなく、何より人間関係論としてのTAには馴染まない尺度に成り下がってしまう。人間関係を対象とするところにTAの優れた点があるというのに、この尺度ではロールシャッハテストやYG性格検査といった他の心理検査と同様に、個人のパーソナリティを計測するものになってしまうのである。

 TAは実践のための理論であって決して説明のためだけに用いるのではない。それは知識と言うより実生活のための生きた知恵である。だから生活の中でより力を発揮するように「正しいこと」と「正しくないこと」を分ける必要がある。一般的な自我状態論ではいったい何が正しく、何が正しくないのか、どのような行為が幸福をもたらすのか、という説明が求められることはない。なぜならそこで大切なのは自我状態のバランスであって、実生活の具体的な行為や問題ではないからである。例えばXという人間に対して批判の過ぎる人がいて、彼は一方でYという人間には受容的でありすぎるとする。エゴグラム上では彼は幸福な状態になりうる。しかし実際の生活で大切なのはその人のXとの関わりそのもの、Yとの関わりそのものなのである。

第2節 自我状態Aとは何か

 ところで何が正しく何が正しくないのか、そしてどのような行為が問題解決をもたらすのか、それは人間自身の考えることである。しかも実生活における問題は一つ一つ個性的なので我々は新たにそして創造的に考えるのである。ここで誤解されてならないのはたとえ我々が創造的に考えるとはいえ、考える上では経験がものをいうということである。全く何もない状態から何か新しい思考が生み出されるとは決して考えることはできない。創造的思考とはかつてあった思考の枠組みに新たに何かを付け加えたり、そのあり方を変容させることをいうのである。

 自我状態Aになるとき、人間が考えているときは、その考える根拠、考える動機付けがあるということに反論することはできないであろう。「問題(材料)−思考−解決」この三つのつながりを分けることはできない。自我状態Aであるとき、人間の思考の方向はいつも幸福や問題解決に向かっている、と言える。 「人はだれしも、自分のためだけを考え、自分の幸せのためのみに生きている。人が幸福の願いを感じないとすれば、彼には生きているという感じもしない。(中略)生きることはだれにとっても、幸せを願い、手に入れようとすることと同じであり、幸せを願い、手に入れることが、生きることに他ならないのである。」(「生命について」レフ=トルストイ)このことを理解しない者は「考える」という人間の能力を誤用するのである。問題の答えはいつも未知であって、考える能力というのはその未知なるものを解き明かすためにある。極端な言い方をすれば、同じ思考を頭の中で繰り返したらそれはもはや思考ではない、と言いたいくらいである。またあれこれ悩んでばかりで一歩も前に進まない状態も自我状態Aとは言えない。(注釈1)「同じ考えを決して二度考えるな」(「幸福論」アラン)この言葉は思考の意味を捉える上でいい標語になる。思考はくよくよするためにあるのではない。分かりやすく言えば「自我状態A」と「思考」は同一のことを指しているのではない。思考のあるべき姿を適切に具現したときにのみ自我状態はAである。状態と機能という性質の違いを考えればその違いを把握できる。自我状態Aは状態、思考は機能である。だから先に述べた思考の本質を逃した瞬間にいくら考えていようとも自我状態はACもしくはCP(深山による自我状態論における)となるのである。

 Aの状態がいつもその動機付けを持っておりそれが幸福に向かっているという考えに一度納得すれば、深山による自我状態論はすぐに理解可能となる。

「Aは発達の可能性の中に組み込まれている能力であるが、それは決して一人歩きするものではない。あくまでもFCやNPの自我状態が必要に応じて引き出してくる現実的な心身の働きである。Aは例えば頭の働き(知能)として捉えると身近になる。知能は発達する。そのエネルギーはFCとNPが現実の問題解決を迫られてAを求める時に充当される。そしてAが発達するにつれてFCもNPもますます旺盛になる。従ってこの3つは一体となって1つの系統を構成する。」(NP−FC−A Triad、三組)(自我状態(Ego States)深山富男)

第3節 自我状態NP−FCと自己実現

 NP−FCは人間の幸福な状態であって、その状態を維持するためには人間の能力を十分に引き出されなくてはならない。自らが完全に機能するとき人間は幸福を感じるのである。つまりNP−FCは自己実現に向かっている状態であり、自己実現は文字通り自らの力を十分に発揮することであるから、その機能している状態は自らの感覚で捉えるのである。そしてその機能している状態とはどのようなものかをTAの禁止令(Injunction)を用いて見いだすことができる。

 例えば「感情を持つな」という禁止令がある。これは裏を返して言えば「人間は本来感情を持つ存在である」ということである。全ての禁止令に対してこれと同じことを当てはめられる。

「感覚を持つな」−人間は本来的に感覚を持っている。

「考えるな」−人間は本来考える存在である。

「あなたであるな」−人間は本来的に自分自身である。

 エリック=バーンは14の禁止令を挙げているが(表3)これらの状態を全てクリアしたときに人間は完全に機能している、と考えるのである。ただし人間は養育を必要とする存在であって、生まれたときにはその可能性しか持っていない。生まれながらのFCは何らかの養育を必要とする。

 さて、生まれてきた人間が禁止令を受けず完全に機能する存在になるにはどのような教育が必要なのであろうか。一般的な自我状態論ではこう説明する。

 FCは受容的なNPに保護されてその自由さを保つ。またFCは批判的なCPによってコントロールされることによりACになる。ACは既存の規制や習慣に順応した状態であって、この順応を通して人間は社会に適応していく。

 しかしこの考えに則れば自我状態Aの存在価値は無くなってしまう。これはどういうことを意味するか。第一に禁止令に従うこと(脚本を持つこと)はある程度求められるということ、第二に考える能力を発揮するには現実に見合った、適切な動機付けや根拠はいらないということ、第三に自由と現実は相容れないということ、である。

 禁止令に従うことがある程度求められるという考えを受け入れてしまえば、なぜわざわざ禁止令という概念を持ちだしたのかが分からなくなる。有害だから駆除すべし、という考えを持たなければ、その存在価値を失ってしまう。完全に機能する人間が幸福なのだ、と先も述べたとおりである。

 またNPという受容の原理とCPという批判の原理という二つの対立する原理に挟まれて人間の機能は成長するという考えは全く受け入れることができない。一般的自我状態論のバランスを強調する側面から伺えば、NPは常に受容、CPは常に批判であるから、ペアレントもチャイルドも何が正しいのか考える状態には迫られないからである。無条件に放任されたり受容されたりしたFCは機能を現実に相応しい形で実現することはできない。(注釈2)それはもはや何が正しいのかを考えることのない「考えるな」の禁止令の中に生きている。逆にCPの批判を無条件に受けてきたチャイルドも、自分が順応している観念や規制や暗黙のルールの存在根拠を知ることはない。これもまた「考えるな」の禁止令の中で生きている。

 この二つの原理は「無根拠」という点で共通している。二つの原理ともそのストロークの与える前提としての根拠が無いので、思考の入り込む余地がない。「なぜそうなのか、なぜそれが求められるのか」という検討が入らない。そのような原理に挟まれたチャイルドが、自ら何が正しく何が自分に幸福を約束するのかを考える能力を身につけるなどとは考えることはできない。根拠など一度も提示されたことが無いからである。根拠を知ることがないので、チャイルド自身も根拠をもとに考えることはできなくなる。

 またもう一つ付け加えておく必要がある。NPを母親的ペアレント、CPを父親的ペアレントとして区別し、子育てにおいてその役割を分割していくことは、その子供に対してその性別に準備された役割を強制することになり「男性としての人生」あるいは「女性としての人生」、「父親としての人生」あるいは「母親としての人生」という枠の中に生きることになる。つまり一個の人間として生きる可能性が損なわれるのである。生きているのは「私」ではなく「男性の私」「女性の私」ということになる。彼あるいは彼女は世界住人の一人、人間社会の一人ではなく、性別という権威のもとに生きる奴隷である。

 第三の誤った理念に対して私は、人間としての自由は現実においてのみ発揮される、と応える。前にも述べたように自我状態Aは考える根拠を必要とし、その根拠は現実に根ざし、答えも現実に対応するのである。現実の原理を越えた思考活動はAとは言わない。それと同じように現実生活を乱す自由もまた自由とは言えない。人間としての自由は現実の中で体験するのである。(注釈3)TAのいう精神病理の一つで汚染(Contamination)があるが、これはCPやACという固定化された生き方が思考の働きを鈍らせるかあるいは現実離れした考えを抱かせるかして、思考の方法を現実の原理から遠ざけることを言うのである。

第4節 NP-FC-A Triadを成立させる権利感覚

 一体何が問題なのであろうか。どのような概念あるいは理念を当てはめれば、人間を幸福にもたらす尺度が得られるのであろうか。

 禁止令の束縛を受けず、十分に機能する存在として生活している人間が、もし何らかの禁止令を含んだメッセージを受けたとしたら彼はどのように感じるだろうか。彼はそのメッセージの送り手を敵と見なすだろう。自分の権利を脅かす存在だと感じるだろう。自分の中にある能力の萌芽が適切に成長したとき、人間はその能力を発揮することを権利として感じるのである。(注釈4)彼は自分で考える権利、見たり聞いたりする権利、喜んだり悲しんだりする権利、成功する権利、そして何より自分自身である権利を手にするのである。逆に順応している人間は自分の権利感覚を感じることはない。なぜなら彼は決められたことにただ従うだけだからである。決められた考え方や固定観念に従うことは「考える」という人間の能力と権利を奪う。決められた場所で決められた感情しか持ってはいけないという抑圧は個人の自然な感情の流れを失わせる。その気になれば知ることができるはずの情報も、知らぬうちに目隠しされて知る権利にすら気づかなくさせる。

 人間のどのような権利でも、自らの感覚に由来しなくてはならない。人間の実現すべき能力は、開花しなければ盲目と混乱をもたらし、開花すれば権利感覚を目覚めさせる。自由という基本的な人間の能力さえ権利として感じられるのである。自由は何者かによって無償で永遠に保証されるのではない。自らの感覚として育んでいくものである。

 私は先ほど自己実現は文字通り自らの感覚で感じるものであると言った。人間に与えられた能力の実現はその人自身で感じるものであり、さらにその権利感覚もその人自身が感じるのである。何かの法が自由を認めているから人間は自由を感じるのではない。あなたは十分に機能していると誰かに言われても、本人が満足していなければ機能しているとは言えない。この自分自身で感じる、自分自身であるという感覚こそ、人間の最も基本的な能力であり権利である。

 そういう意味で禁止令「あなたであるな」が最も根元的な禁止令であり、全ての禁止令はこの下位にある。感覚を持つこと(見たり聞いたりすること)も感情を持つことも(喜んだり悲しんだり怒ったりすること)も考えることも、自分の能力で、自分自身で体験する。だから全ての禁止令の中には「あなたであるな」という禁止令が含まれている。実際多くの禁止令を身につけると自分が自分でないかのような感覚に陥る。

 禁止令「あなたであるな」を理解するときに忘れてならないのは、当然ながら一人一人の人間は別人であること、それぞれの人間には自由という権利があること、自分の人生を創造的に生きる権利があることである。ことに創造性においては、人生を満足に生きていくためには権利であると同時に宿命的なものでもある。一人一人の人間は自然の生み出した独自の試みであって、なおかつそれを全うしていくのもその個人の力に委ねられているからである。

第5節 相手への純粋な関心

 「私である」という権利感覚を育むこと、これが私の考える最も基本的な教育の理念である。そしてその教育における標語は「相手への純粋な関心」である。この相手への純粋な関心、「あなた」への純粋な眼差しだけがチャイルドの「私が私である」という感覚を育み、その下位にある種々の能力をも育むのである。

 先ほども述べたように、一般的な自我状態論におけるペアレント、NP−CPはその関わり方に根拠が無く、チャイルドそのものに対する個人的な関心については無関係である。チャイルドの個性、主張、考え、求めるものを、チャイルドの視点に立っては考えられていない。これではチャイルドの自分自身である権利は損なわれる一方である。

 同質で同量の教育を同時に、全ての子供に提供しようとする現代の風潮は人間の個性を全く無視したものである。これは世界の全てを均一のものとしてみる「普遍性」、こうすれば必ずこうなるという「論理性」、物事の主観を完全に無視した「客観性」に則った近代科学の成果を、人間を対象とする教育にまで当てはめた結果であろう。(中村雄二郎著「臨床の知とは何か」参照)自分の自然な感情を抑圧し、命のない抽象的な概念に振り回されている人のいかに多いことであろうか。(注釈5)

 またこれとは逆の嘆かわしい事態も生じているようである。「個性の時代」という言葉をよく耳にするが、これもまた「個性」「個性」と叫ぶばかりで、子供あるいは人間自身への純粋な関心が忘れられがちである。世間で「個性」「個性」と呼ばれるとき、注目されるのは個人の特別の能力であって、その人自身ではなくなっている。愛されているのは人ではなく、能力なのである。「自分で考える力を育む」とか「総合教育」などと教育の世界で騒がれているが、子供の求めるニーズに応えるという意味では成果を上げるであろうが、子供を一人の独立した存在として見るという基本的な態度に気づかない限り、今日の殺伐とした教育現場を根本的に回復させることはできないであろう。

 さらに付け加えれば「何らかの問題のある子供は何らかのサインを出している 」という「サイン説」とも言えるようなものが流行っているが、これもまたサインにばかり目を取られて「子供自身を見る」ということを忘れさせるように思われる。

 これらの子供あるいは人間への関わり方は「相手そのものを見ようとしていない」という点で一致している。すなわち「あなたであるな」という禁止令を下しているのである。

 しかし誤解してならないのは「相手に純粋な関心を持つ」という標語が、強迫的に捉えられてはいけない、ということである。私は「相手に純粋な関心を持て」とは言わない。人間は本来的に自分自身であり、その自分自身であるという感覚を健全に維持している限りは、自然と相手を曇りのない眼差しで見るのである。なぜなら純粋に、真実に自分自身であることと他者を同じように見ることは、人との関わりの中で相互的に培うものだからである。それは同時に生じる。「私である」という感覚が純粋なとき同時に「あなたである」という感覚も純粋さを保つ。「私の権利」を知ると同時に「あなたの権利」を知るのである。

 MEG[MIYAMA NEW EGOGRAM]深山エゴグラム(巻末)の16番目の項目「個性的な人を尊敬する」を「ハイ」と答えた場合、自我状態はNPとされるのはそのためである。他者を見るときどれだけ個性を見ることができるか、そして個性をどれだけ尊敬できるかということは、自分がいかに個性的に生きているかという尺度にもなる。相手を決めつけた枠組みでしか見ない人間は、気づかないうちに自らをも決めつけた枠組みに当てはめるし、その逆もまたそうである。だから相手を純粋に見ることが適わないならば、それは何かがその本人からその力を奪っている、ということである。「純粋に私であること」「私が十分に機能すること」が何らかの妨害を受けているということである。我々は自分自身であること、相手と色眼鏡をかけずに関わること、真実であること、時間の構造化の言葉を使えば「親密」であることが幸福であり、それが自然に適ったことである。だからNPはNurturing ParentだけでなくNatural Parentとも呼ぶことができるのである。我々は自然さを強調することはできない。それは明かりを見るために、その明かりにまた別の蝋燭を近づけるようなものである。真実を見たいのなら、明かりからその不要な蝋燭をどかせればいい。我々にできることは我々の目を真実から逸らせ、誤らせるもの(禁止令やゲーム、人生脚本、あるいは先入観など)に気づき、それを取り払っていくことなのである。




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