第2章 ゲーム理論の考察

第1節 ゲームから抜け出すのはなぜ困難か

 この章では第1章で得られた考えを中心にゲームについての考察を行う。ゲームについての考察とは言え、ここでは一つ一つのゲームについてこと細かくその分析をするのではなく、ゲームそのものについて、なぜ人はゲームを演じ、そこから抜け出すことが困難なのか、そしてゲームとは一体どのような人間関係の状態なのかを私の視点に合わせて考えていく。考察は杉田峰康らによる「Transactional Analysis SERIES 4ゲーム分析」第二章ゲーム概論、第二節「どうしてゲームやラケットが行われるか」を題材とする。

 この書物では人々がゲームを演じる理由を九つ挙げている。

1 時間の構造化を図るため

2 比較的強いストロークを得るため

3 考え方の枠組み(frame of reference)を作りそれを維持するため

4 スタンプを収集するため(否定的な感情の爆発の根拠を作るため)

5 人生脚本を完成させるため

6 自分、相手、あるいは両者がOKでないことを証明するため

7 求めている親密の獲得から脱落するため

8 予測可能性の確認をするため

9 孤独をさけるため

 挙げられたこれらの九つの理由を述べた上で、まず私は第1章での理念に則って、ゲームに対する私の見解を述べておく。人間がゲームを演じ、そこからなかなか抜け出せないのは、自分自身になること、自分の人生を受け止めること、それゆえに自分の問題に向き合うことに恐怖を感じるからである。そういう意味でゲームとは共生関係的な人間の関わりかたと言える。ゲームを繰り返している限り、彼はその限られた人間関係の中で自分の立場を、例えそれが誤ったものであれ認識できる。そこには安心感がある。しかしゲームをやめた瞬間に彼は一人で世界の前に立たされるのである。なぜならゲームをやめることは「世界に一人しかいない自分」に気づき、そこへ更に近づくことを意味するからである。

第2節 時間の構造化の考察から

 ゲームの特性として、ゲームの結末は最初から分かっているということがある。これは先に挙げた8番目の理由と同じである。ゲームの結末で不快な感情を持ちながら、当人はこう思うことができる。「ほら、やっぱりこうなった」。

 ゲームを脱却した人間は答えの分かっているゲームに向き合うことをやめ、答えの分からない自分だけの生活、人生に向き合うことになる。私という人間は私一人であって、一つ一つの行動あるいは人生全体の経過や結末も、完全なオリジナルであることが求められる。これを更に大きな視点に立って見てみると5番目の理由「人生脚本を完成させるため」を把握することができる。人生脚本の利点は、それを演じている人から見れば、人生全体を予測可能とし、新しく予想外な人生の立場に立たなくてよい、ということである。派生した話になるが、今日の日本人のほとんどが人生をゲーム化し、その豊かな多様性を半減させているように見える。生まれて幼稚園、学校、大学に行く。大学に行くのは学問のためではなく就職のチケットを手にするためである。結婚、子育て、老後と、それはあたかも準備された画一的なレールであって、「私が生きる」というニュアンスより「私をすり減らして枠に当てはめる」というニュアンスが強調される。(エヴァレット=ライマー著「学校は死んでいる」参照)

 4番目の理由「スタンプを収集するため」は単にある種のゲームや人生脚本の経過を説明しているだけである。

 ここで9番目の理由が関係してくる。私という人間が自分一人であることを認めたとき、人は孤独を感じざるを得ないのである。その「私は一人である」という認識を抱えたときに初めて、関わる相手の存在感を感じ、親密になりうるのである。親密な時間と、ゲームをはじめとする他の時間の構造化のはっきりとした違いは、自分と相手を独立した個別な人間であると認めているか、ということにある。

時間の構造化(Structuring of Time)

@引きこもり(Withdrawal)

A儀式(Ritual)

B雑談(Pastime)

C活動(Activity)

Dゲームとラケット(Game and Racket)

E親密(Intimacy)

 この六つの時間の構造化は@からEの親密に近づくほどに自分自身であることと相手そのものとの関わりであることを深める。現実的には相手は限られた人間になる。逆に@引きこもりに近づくほどに「いつでも、どこでも、誰とでも」というニュアンスを強める。引きこもりにおいては、自分の殻に閉じこもっているので、傍に誰かがいるのかいないのかさえ問題にならない。儀式は実際、誰とでも構わない。挨拶するときに自他の区別などさほど問題にならない。雑談や活動になってくると、自分の個性や能力が問われてくるので、自分自身であることが求められ、相手も誰とでもよいというわけにはいかなくなる。そういう意味で、親密という最も理想的な時間は、その意味するところを誤解されていることが多い。例えば仕事の後の飲み会、それはとても楽しい時間である。あの和気藹々とし、あたかもそこに居合わせた人々の感情が一つになったかのような時間である。しかしそこで実際になされているのは親密というより雑談である。雑談であるうちはまだいいにしても、ゲームであることもままある。親密な時間は一人一人の個性や存在感が浮かび上がってこそ可能なのである。MEGの2番目の項目「特定の人達と親しいグループを作り、集団化する」に「ハイ」と答えた場合、自我状態はCP(AC)とされるのはそのためである。

第3節 ラベル化の視点から

 先に挙げた8番目の理由は、3番目の理由「考え方の枠組みを作りそれを維持するため」にも関係する。この3番目の状態は自我状態Aが機能していないことを指す。それは楽な生き方である。しかし結末はネガティブなものにならざるを得ない。考え方は固定化される一方で、現実はいつもその流れをとどめることはないからである。現実が常に移り変わるなら、「私の考えること」もそれに合わせて変化させる必要がある。第1章でも述べたように、思考というのは創造的で新鮮であるが故にその価値がある。

 さて、考え方を固定化させるとき、それに応じて関わりを持つ人間も、その個人の中で固定化される。純粋にあなた(私と同じように変化してやまないあなた)を見られなくなる。ゲームの中では相手自身を見ることがなされておらず、ラベル付けされた存在に仕立て上げるのである。一つ一つの関わりも、そのラベル付けを証明するためになされる。そのラベルはカープマンのドラマ三角形で言う迫害者、犠牲者、救援者というラベルに還元することができる。(図1)この三角形は見事に人間のラベル化が有害であるかを示している。どういうことかというと、他者をラベル化したとき自らをもラベル化している、ということである。(注釈6)他者の自由を奪っている瞬間に、自らの自由をも失っているのである。6番目の理由「自分、相手あるいは両者がOKでないことを証明するため」というのは、このラベル付けの一つである。複雑な社会や人間関係も、その実態を理解しようとせず、単純であることを求めているのである。

 このようなラベル付けは世間のいたるところに見いだすことができる。人間のラベル付けは順応あるいはコントロールする力があるので、それが不当な、人間性を損なうものだとはなかなか気づかれない。(注釈7)

 2番目の理由「比較的強いストロークを得るため」と7番目の理由「求めている親密の獲得から脱落するため」は私の視点を当てはめればほぼ同じことを言っていることが分かる。結局のところ7番目の理由こそ、私の根本的な考えと同じなのである。人間は自分自身になること、それゆえ他者と親密な時間を過ごすことを求めている。しかし何らかの理由でそれが妨害されているとき(脚本、禁止令など)、人間の機能は固定化し、自分自身それと同時に他者をもラベル付けする。順応することの最も大きな被害は盲目になることであって、順応した人間はもはや自分が不当にも限られた認識の中でしか生きていないことに気づかない。親密を求める力、ストロークを得ようとする力はそれでも無くなることがないので、その衝動も限られた枠の中で解消されることになる。禁止令という枠がなければ新しい世界を切り開くはずの力も、ゲームという枠の中で延々と同じことを繰り返すためのものに成り下がってしまう。このように見ると、ゲームとは一種の麻薬のようである。限られた認識と空間の中で満足を得ようとするので、同じことを繰り返しかつ、ますます強化していかざるを得えない。それが2番目の「比較的強いストロークを得るため」の意味するところである。

 なお1番目の項目「時間の構造化を図るため」は、言葉の遊びと思われるのでその関連づけを省かせていただく。

第4節 問題の始まり

 ゲームとは無意識的に進行する時間の構造化である。我々は知らず知らずのうちにゲームをしてしまう。よくよく考えてみると、ゲームをした結果どうなるかは分かり切っているはずなのに、自分の行為へのチェックがおろそかになり、自分の弱みが全面に現れて、ゲームに陥ってしまうのである。「時間の構造化の中のゲームを選択する」という表現は不適切である。選択する、というときそこには我々の思考が介入する。ただゲームの進行中でも人間の思考は働きうる。しかしそれはネガティブな結末に向かう、ワンパターンな思考である。あれこれと考えているようであるが、やっていることはみな同じようなことになってしまう。それは選択の余地のない思考であるが、当人には「選択している」かのような錯覚が起こっているのである。

 ゲームをする理由に「人間は何もしていないと退屈するから」という理由が考えられそうであるが、これではあたかも人間がわざわざゲームを選んで実行している、という誤解を招きかねない。その説明には、ゲームは我々の本来的な姿から外れた行為である、という認識が欠けているのである。さらに、人間は目覚めている間に「何もしていない」という状況にはなりえない、とも言える。本来人間は目覚めている限り、親密、活動、雑談、儀式のうちのいずれかの時間の構造化を図っており、そこから脱落したときに、ゲームや引きこもりを起こすのである。時間の構造化を自然科学モデルのように把握してはならないのである。我々は常に、その時間の構造化のいずれかを行い、それらの中を行ったり来たりしているのである。

 ゲームとは順応の結果生じる時間の構造化である。順応することは盲目になること、そして混乱することにつながる。事実への盲目と混乱、そして自分の能力と権利への盲目と混乱である。ゲームをしている間、我々は知らず知らずのうちに自らの権利を放棄している。繰り返し述べるように人間がゲームを演じ、そこから抜け出すのが難しいのは、自分自身になること、自分だけの人生を受け止めること、それゆえ自分の問題に向き合うことを恐れるからである。第1章でも述べたように、人間は本来的に自分自身になることを求め、それは他者との関わりという相互作用の中で達成される。そこに恐怖を感じ、自らの権利に気づかなくなったのは、何らかの禁止令を被っているからに他ならない。

G公式

C+G=R→S→X→P

 G(引っかかる人の弱み)は「脚本化された禁止令」という言葉に置き換えてもよい、と思われるほどである。弱さは誰でも持っている。弱さを弱みにしてしまうところに、自分自身を十分に機能させること、そして自分自身であることを断念する姿、そしてそれを断念させる力、すなわち脚本化されたドライバーや禁止令が蠢いているのを垣間見ることができる。それは精神病理で言うディスカウント(値引き Discount)とも言える。

 全ての問題の出発点は、人間の可能性と権利を踏みにじるディスカウントにある。ディスカウントした途端に我々は条件付き(現実にそぐわない条件)の生き方を迫られる。その結果はミニスクリプトの示す通りである。(図2)ディスカウントの対象が自分であるか他者であるかなどは関係ないのである。もう一つ付け加えておけば他の三つの精神病理、汚染(Contamination)、締め出し(Exclusion)、共生関係(Symbiosis)の中に自ずとディスカウントが含まれている。人間の権利を損なう力、ディスカウントが、他の精神病理を、そして脚本やゲームを生み出しているのである。

 我々は聡くあろう。何が我々をディスカウントさせるのか、禁止令を与えたり被ったりさせるのか、何が我々を自然で自由な姿から遠ざけるのかを考えよう。我々は自然で自由な生き方を一挙に手に入れたり、あるいは他者に強制したりすることはできず、問題を一つ一つ解決することでそれを手にしていくのだから。

 実際、問題に気づいても弱さを弱みにしないことや順応の束縛から逃れることは勇気のいることである。自分をコントロールしているものとの闘いが求められるからである。しかし「幸福は闘って勝ち取るものである」という当然のことに気づけば、その闘いも楽しいものになるのである。我々には我々をディスカウントする力と闘う権利があるのである。権利感覚は我々の自然な生き方に適ったものである。権利といえば何か強調されたもののように感じる人も多いであろうが、もし我々の自然な姿の中に権利感覚が無いのだとすれば、一体我々は何によってそれを、法でうたわれているような理念とすることができるだろうか。




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