第3章 ストロークの考察
第1節 一般的自我状態論の引き起こす矛盾
一般的な自我状態論を深山による自我状態論に置き換えてTAを眺めたとき、TAを構成する一つ一つの概念が、違った意味合いを帯びてくる。
一般的自我状態論に則って禁止令を用いれば、人間がある程度の順応を必要とすると考えられ、禁止令に屈服するのはある程度必要である、という考えに行き着く。ゲーム理論を同じように考えれば、ゲームを演じるのもある程度求められる、という考えに行き着く。これと同じように、ストロークにおいても矛盾が生じてくるのである。TAを構成する一つ一つの概念は独立したものではなく関連しているのである。この諸概念の関連を矛盾のないものにするためにも、深山による自我状態論には意味がある。そしてゲーム理論と脚本理論が明確な考えに則っているのに対し、ストローク理論は自我状態論と同様に曖昧なままであるから、考え方そのものに手を加える必要がある。
第2節 一般的ストローク論の批判
ストロークには二つのストローク、ポジティブなストローク(以下Pストローク)とネガティブなストローク(以下Nストローク)があるが、一般的なストローク論ではこれをさらに二つずつに分割される。ここでは引用したそれぞれの説明文を考察するという形で論を進めることにする。(引用文献「Transactional Analysis SERIES 1 分かりやすい交流分析」チーム医療)
・無条件のPストローク
引用文
これは”あなたはかけがえのない人よ”とか”あなたはすばらしい”というような、当人の行動よりもその人格に対して与えられる、ヒモつきでないストロークをいいます。それが行きすぎたお世辞ではなく、適切で純粋なものであれば、その人の成長に繋がります。何ら報酬を期待していない無償の愛と言えましょう。
考察
「お世辞で言った無条件のPストローク」をこの種のストロークに含まれていると考えるなら、お世辞を言う場合に相手に何も条件や見返りを求めていない状態になるとは考えられないので、矛盾する。また、この四つの説明の中では触れられていないが、もしひどい行為に対して、無条件にそれを認めてしまったのでは、むしろ相手のためにもならないし、自分がその相手のひどい行為に順応していることになる。
・条件付きPストローク
引用文
これは”あなたは仕事をキチンとするから好きよ”とか、”あなたは私の好物をいつも届けてくれるから好きよ”など、何かこちらの利益になることを含んでいます。相手の行動に対してストロークを与えたり、こちらが何かを期待するような場合、条件付きストロークと言います。子供のしつけによく用いられるものです。しかし、いつまでもこれだけを与えられていると、人は徐々にいいことをするのを嫌うようになり、ついには怒りを含んだ陰性のストロークで反応するようになります。
考察
「何かこちらの利益になることが含まれています」とあるが、条件を求める場合に必ずしもこちらの利益を求める気持ちがあるとは限らない。「子供のしつけによく用いられる」という部分と重ねて見てみると、まるで「子供のしつけは、親の利益のためにある」という考えがあるかのように見える。
・条件付きNストローク
引用文
”あなたのそういうところがイヤなの”
”のろまだから(勉強しないから、素直じゃないから)キライよ”
これもしつけなど行動修正のために用いることもできますが、どこかで終わりにしなければ望ましくない結果が反復することになります。
考察
「ダメなことはダメだ」と主張するのは正しいことであり、相手に対する否定的な気持ちを伝えることが必ずしも悪いことだとは言えない。問題はその条件に根拠があるかどうか、である。
・無条件のNストローク
引用文
”とにかくあなたのことが嫌いなの”など、芯から相手を拒んでいるために生じる言動がこれに当たります。相手を傷つけ、愛情を剥奪し、ときには相手を心身の障害に追い込むことにもなりかねないものです。
考察
「とにかくあなたのことが嫌い」などという状態は考えられない。嫌いになるにはそれだけの理由があるからであり「とにかく」というのは、その理由から目を反らしているとか、意識していないことから生じる考えである。
第3節 根拠のある条件
これらの四つのストロークの考察から見えてくることは、存在し得ない無条件のNストロークを除いたそれぞれのストロークのどれを取ってみても、一面的には正しく、一面的には正しくない、ということである。説明が曖昧で、利用価値がないので、適切な定義付けをする必要がある。
簡単な説明として深山による自我状態論を用いることができる。NP−FC−ATriadに由来するストロークはポジティブであり、CP−ACに由来するストロークはネガティブである。これでは分かりにくいので、もう少し説明を加えることにする。
要点は「条件」についてである。我々のストロークに込められた条件が、正しいものであるかそれとも誤ったものであるか、あるいは根拠のあるものなのか根拠のないものなのか、という点に、そのストロークがポジティブであるかネガティブであるか、という違いがあるのである。
ストローク論も自我状態論と同じように、機械的に、バランス論的に見てしまうと、価値のないものになってしまう。それを我々の思考を通して、よいものと悪いものに分類しなければ、使いようのない、現実に合わない尺度になってしまうのである。
我々が生きる現実世界は、いわば生きていくための条件の総体とも見える。炎に素手を入れれば火傷する、食事を取らなければ餓死する、この薬を飲めばその風邪は治る、などのように、条件は無限に挙げることができる。例えば母親が子どもを危険なものから遠ざけようとするとき、そこに近づいてはいけない、というメッセージと共に、「それは危険である」という事実をも伝えているのである。
我々はそれらの条件のもとで生きていくのであるから、その条件をストロークの中に込めるのは全く正しいことなのである。それは根拠のあるストロークである。正しいことを正しいと言い、間違ったことを間違っていると言うのは正しいことであり、それができないのは順応しているためである。
ただ、世界には根拠らしく見えるものが山ほど存在している。我々はそれが本物の根拠と言えるかどうかを検討しなくてはならない。その根拠が我々の幸福の追求に則ったものであるか、現実の原理に反したものでないか、人間性に反したものでないか、という検討をである。(注釈8)
また「条件付きのストロークなど、ポジティブとは言えない。愛情が感じられない。」という反論にはこう応えることができる。現実に生きていくためには条件があり、それを教えていくのが教育である。条件を教えることは愛情に反することではないどころか、愛情が無ければできないことである。
第4節 交流が現実を支える
ストロークは単に表面的なメッセージを送るだけでなく、その中に込められた根拠や条件をも伝えるのである。根拠のないメッセージを受け続けた場合、それを受けた者は固定観念を形成してしまうし、不適切な条件を含んだメッセージを受け続けた場合、その人は現実を誤って認識してしまうようになる。(注釈9)
逆に根拠や適切な条件のもとにあるストロークは、そのストロークの受け手の現実を把握する能力を育むのである。我々の理性は現実に対応するのである。我々はPストロークを受けて現実に相応しい条件を知り、その獲得したものを根拠に生きていく。幸福の追求と現実把握能力の萌芽が誰にも備わっているとは言え、我々はそれらを交流の中で培っていくのである。
このように見ると、我々の生きていく現実は、我々から離れた位置にあって一歩引いて眺められるものではなく、我々の交流によって支えられているものである、ということが分かる。我々は現実を構成している一部分であり、現実を把握して生きていくためには、人との交流、Pストロークの交流を必要とするのである。逆にNストロークに屈服すればするほど、我々は現実への正しい認識から遠ざかり、人間性を見失ってしまう。
結局のところ、第1章や第2章で述べたことに結論はつながっていく。我々一人一人が生きていく力、考える力を育んでいかなければ、幸福への道は閉ざされるのである。繰り返すように、交流が力を育むとは言え、根拠は自分で見つけ、把握するものだからである。