第5章 人間学としてのTA

 TAの特性は、分析の対象を個人に見いだすのではなく、個人と個人の関わりに見いだすことである。このことから生じる利益には、我々の思った以上のものがある。

 個人に焦点を当てている限り、その個人を全体として見ることはできない。これはパラドックスに見えるが真実である。なぜなら我々が分析するとき、対象を様々な尺度によって分解せざるを得ないからである。交流する複数人の中の一人を見るとき、初めて我々は個人を一つの存在として分析することができるのである。

 個人を分解して研究する手法を否定しているわけではない。医学とか生理学などにおけるそのパラダイムの利益を否定することはおこがましいことである。私が言いたいのは、そのパラダイムで全てを説明することはできない、ということである。(注釈10)

 二つ目の特性は、取り上げる関わりは「そのとき、その場所で」という具体性を持っている、ということである。パーソナリティ論における細かい要素だとか複雑な行動モデル、あるいは深層心理学の難解な概念のような抽象的な概念を用いず、普段の簡潔な言葉で利用することができるし、問題に対する対処も具体的なので行動に移しやすい。我々の普段の生活をチェックするのには最適なのである。

 ところで私はこの論文のテーマに「人間学」という言葉を使用しているが、人間学とはいったい何なのであろうか。

 人間学部、という学部が様々な大学に見られるようになったが、その内容を見てみるとほとんど、環境学とか政治学、中には数学まで含んだ様々な学問の詰め合わせにしているものだとか、あるいは従来の教育学とか保育学などをセットにしたものばかりである。これではわざわざ「人間学」という看板を掲げた意味が無くなってしまう。おそらく、「人間学」を名乗ったはいいが、その目的、手法が曖昧なままなので、そうするより仕方がなかったのであろう。

 では人間学とはどのような学問であるべきなのか。私の考えを言えば、人間の存在について考えるとき、我々の幸福への憧れという生きた意志を、無視することはできないということである。そしてその意志は人間個人を分解して発見できるものではなく、我々の存在全体を通して理解できるものである。TAは、その尺度に相応しい理論なのである。この論文の目的の一つは、医学モデルの傾向がある従来のTA理論を、人間学的に書き換えることにあった。また、そうすることで新しい人間への取り組み方を提唱するものでもあったのである。

 「確かにあなたの言うとおりかもしれない。しかし、用は理論を用いる側の問題であって、医学モデルあるいは自然科学モデルの学問を人間学に持ち込むことが悪いことだとは言えないのではないか?」という反論が聞こえそうである。つまりいかなる理論も、人間性に相応しい用い方をすれば、全く問題がないのではないか、ということである。しかし、その主張にはこう応えざるを得ない。医学が医学にとどまっている、もっと広く言えば自然科学が自然科学に相応しい対象の範囲にとどまっている限り人間性に合致しているのである、と。

 人間はみな対等である、という認識の上にTAは成り立つのである。これが私の考える三つ目の特性である。もしTA理論がその前提を否定するなら種々の概念、とくにゲーム理論は全く意味を無くしてしまう。TAは人権思想に則ったものであり、人間学も同じように人権思想を根底に持っていなければ成立し得ないのである。人権を学問の根底に据える以上、人間を必要以上に分解したりグループ化したりすることは間違いである。第1章でも述べたように、「私であること」「あなたであること」が我々の幸福の指標だからである。

 我々は、どのような尺度が、自分がよりよい生き方をするために必要なのかをも知っておく必要がある。そしてTAはその要望に応える尺度の一つなのである。




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