注釈

注釈1

あれこれ悩むことと考えることの違い

次の関わり分析を見ていただきたい。
A 何食べにいく?
B 何にする?A君は何食べたい?
A うーん。なんでもいいよ。Bさんは?

B 私も何でもいい。
A 和・洋・中だったらどれがいい?
B うーん。どれかな。
AとBは考えていると言えるだろうか。これはただ自分の意見が分からないだけで、とても自我状態Aと言えるものではない。この二人の自我状態はACである。自分で考えることや自分の意見を主張することが何らかの理由で禁止されている。
C 何か食べに行こう。
D うん。スパゲッティがいいな。
C 俺、昨日食べたんだ。他のにしよう。
D 何にする?
C 俺、どんぶりが食べたいんだけど、それでいい?
D いいよ。
CとDはお互いの意見を交換しあい、主張することに躊躇がない。このように見ると、自我状態Aはその表現や思考の現れである行為に自由さがあることが分かる。
上に挙げたのは日常に見られる他愛のない関わりであるが、そのようなありふれた関わりのなかにも、人間の自由さや順応を見ることができる。

注釈2

現実における機能の実現

我々に備わった機能は、現実に相応しい形で実現しなくてならない。それらは、独立してそれぞれの存在価値があるのではなく、我々の幸福追求のためにあるからである。
FCがときとして現実の原理に合わない行為をしたときには、NPはその行動を修正する事が求められる。その現実に相応しくない行為を放任したり受容したりしたのでは、チャイルドは現実に生きていく手段を見失ってしまうのである。例として、自律神経失調症のケースを挙げる。
例 感覚の不適応
彼は幼い頃、一年中、寒い冬の日でも薄着で生活する習慣があった。それで彼は「我慢強い子供」「健康な子供」というストロークをもらっていたのである。結末として彼は大きくなってから、体温のコントロールできない体質になり、かえって苦労することになった。
寒さ、暑さは感じるものの、現実に合わないちぐはぐな感じかたをするようになった。
この例は「感覚を持つな」という禁止令の例として挙げられよう。寒い日には厚着をする、というのが現実に合った正しい対処である。彼の感覚は機能しているが、その機能の仕方は意味が無いばかりか、彼を苦しめることになってしまったのである。


注釈3

現実にそぐわない自由

一般的自我状態論の説明で、暴走族の例を聞いたことがある。その説明によれば、彼らの反社会的な行為は、彼らのやりたい放題していることであるからから、そのときの彼らの自我状態はFCである、というのである。それに対して私はその状態がFCと言うよりむしろ、ACであると判断する。彼らは確かに衝動を満たしている。しかしそれが反社会的な行為となったのは、表現の方法をそれしか知らなかったという束縛された状態だからだと考えられる。もし彼らが自由というなら、引きこもって家から一歩も出ようとしない人間も、自分でそうすることを選んでいるのであるから、彼らと同じ自由と言える。後者はただ暴走族のような表現のチャンネルを持っていなかっただけである。私は両者の行為をともに、自分の能力を十分に開花できていない状態、ACと判断する。
ここで忘れてならないのは、人間は人との関わりのなかで生活しているということである。彼らの生まれながらのパーソナリティがACだ、というのではない。何らかの理由で(CPのストロークを受けて)そうならざるを得なかった、と考えるのである。


注釈4

人間の能力と権利

次の関わり分析を見ていただきたい。
状況 ある理由で私が大阪から当大学(愛知県)に通うことになったこ
   とについて母親と電話で話している。
母 大変やなぁ。
私 そんなことないよ。大学に行くの楽しみにしてるから。
母 でも、遠いで。
私 すぐ慣れるって。
母 辛いんちがう?
私 全然。
母 お母さんだったら辛いわ。
私 何でそんなマイナスのことばかり言うん?僕の気を滅入らせたいん
  か?僕が大丈夫って言ったら大丈夫!(怒って)
母 そうかあ?(びっくりした様子)
母親は私の言葉を信用しないで「大変な息子」というラベルを固定化させている。それに対して私は「私のことを全く信用していない」と苛立った。私のやりたいようにする、私の力でする、という権利を否定された思いだったので、私はその怒りを表現したのである。このケースの場合、母親からの禁止令「成長するな」あるいは「あなたであるな」に対する私の反抗が権利感覚の表現として現れている。自分でするという権利感覚がある上で、問題が現実的に困難な場合には、また違った会話が展開する(その問題解決のための会話)であろうが、自我状態は同じNP−FC−Aである。
もし私が自分でするという権利感覚を持っていなかったとしたらどのような会話が展開しただろうか。想定してみる。
母 大変やなぁ。
私 そうやなあ。遠いからなあ。
母 慣れるかなあ。
私 慣れるしかないからなあ。
母 辛いと思うけどがんばってな。
私 うん、がんばるわ。
この会話だと完全にゲームの関係になっており、犠牲者と救援者が固定化している。自分の意志が伴っていないので「慣れるしかない」とか「がんばる」という強迫的な言葉で自分を駆り立てることになる(ドライバー)。あるのは権利感覚ではなく強制感覚である。また何とかしようとする意志も働かないので、他の打開策を考えるにも及ばない。(禁止令「成長するな」「あなたであるな」「考えるな」)


注釈5

抽象的な概念と自分の考え

深山教授のサイコドラマに参加すると「あなたはどう思いますか」と尋ねられることがある。初めて参加した人、特に心理学科出身の参加者はえてして抽象的な概念で、主役や補助自我の状態やパーソナリティを説明することが多い。「感受性が強すぎる」とか「自己中心的だ」などである。それに対して「それはあなたの言葉ではありません。あなたの考えを教えてください。あなたがどう思うのか。」とディレクターが聞き返す。しかしその人はたいてい、呆気にとられて何も答えられないのである。理論や概念に当てはめることを繰り返してきたので、自分の自然な発想が出なくなっているのである。
これは何も場面がサイコドラマの中だとか、そのような反応をする人が心理学科出身の人だけだと限ったことではない。普段の生活のなかでもよく見られることである。例えば「遺伝よ。父親からの遺伝があるのよ。」「あの子がああいう風になったのは母親の教育が悪いからだわ。」「あれはああいう性格だから仕方ない。」「ちっちゃいころ愛情不足だったから、非行に走ったのかしら」など、いくらでも挙げられるだろう。概念に当てはめるこれらの共通点は、自分の感情や考えがほとんど含まれていないという点、問題解決意識に欠けているという点である。問題を何かの理論で説明すれば、それで満足してしまうのである。このような概念化は、自分はそれが好きなのか嫌いなのか、賛成なのか反対なのか、自分はどうしたいのか、どうすれば相手の援助になるか、を分からなくさせる力があるのである。例として関わり分析を一つ紹介する。
場面 精神科訪問看護、看護婦と痴呆の母親を持つ娘との会話
娘 いつも気を配っておかないといけないでしょ。どこかの施設に預け
  ようかとも思っているんですけどね。
看 はあ、やっぱり迷うところですよね。罪悪感みたいなのを感じたり
  して。
娘 そうなんですよね。罪悪感みたいのがわいてくるんです。でもそん
  なことも言ってられないし。

娘 昔はあんなにしっかりしてたのに、なんでこうなってしまったんだ
  ろう。
看 一概には言えませんが、昔しっかりしていた人ほどがたがたってく
  るみたいですよ。こう、がちっとしていた分、崩れるのが早いんで
  す。かえってこう、あんまり固くならずに生きてきた人は大丈夫み
  たいですねえ。・・・(2、3分この話題に触れる)
娘 まあ、いまさら仕方ないですね。(不満そうな疲れた表情で)

注釈6

他者のラベル化は自分のラベル化を生む

まず、この関わりを見ていただく。
場面 精神科デイケアでトレーニングジムに行った帰り。PSWとデイ
   ケアメンバーS(45歳女性、鬱病)との会話
S (マシンの使い方)全然分からへん。自転車漕ぐやつ、さっぱりや
   わ。
P 最初からいっぺんに覚えるのは大変やから、一つずつゆっくり覚え
  ていったらいいんですよ。分からなかったらトレーナーの人に聞い
  たらいいし。
S 私みたいな人間に付き合ったら疲れるでしょう。物覚え悪いし、す
  ぐ忘れるし。
P そんなことないですよ。(というより覚える気がないんだろうな)
S いつもありがとう。
P いえいえ。(困惑)
SはPSWを救援者役としてゲームをしかけている。その瞬間S自身も犠牲者を演じている。このように他者を救援者、あるいは迫害者と見なすとき、自ら犠牲者を演じて不自由さを背負うという構図は分かりやすい。しかしその逆は分かりにくいのである。なぜなら救援者あるいは迫害者であることは、犠牲者であることより楽なことだからである。しかし楽だからといって、彼は自由だと見なすことができるだろうか。答えは否、である。彼は「救援者」あるいは「迫害者」というラベルを自らに貼り付けているので、そのラベルに反する状況を認められない、という強迫的な立場に立たされる。
場面 診療所受付事務
看 Aさん。一度診察券を出されたら、外に出られるときは一言言って
  くださいね。(怒りを含んだ言い方で)
患 さっきトイレに行って来ますって言いましたけど。(あっさりと)
看 あ、そうですか。ごめんなさいね。(少し驚いて)

看 あんたに言ったんちゃうん?ちゃんと言うてくれな、分からんやん!
  (怒って)
受付 (モゴモゴ不平を言う)
看護婦は自分が注意役で、相手が注意され役だと決めつけて(「さあ、見つけたぞ」のゲーム)対応したので、相手が正当であることを知ると不満を感じたのである。受付はその不満のはけ口にされた。受付がトイレの件を聞いていたかどうかは、ここでは問題ではない。もしこれがゲーム的な関わりでなければ、驚きも怒りも無かったはずである。
またカープマンのドラマ三角形が示しているように、ゲームを繰り返して生きている人はその立場を逆転することを繰り返すのである。部下に迫害的な人物は上司には犠牲的である、という構図はよく見られることである。
ゲームを脱するというのは、苦痛な犠牲者から逃れることを言うのではない。犠牲者、迫害者、救援者であることを一挙に抜け出すことを言うのである。


注釈7

ラベル化とディスカウントは気づかれにくい

私がここで人間のラベル化が有害である、と言っているのは何も人間社会に存在する全てのラベルが無くなるべきだ、と言っているのではない。そのようなことが実現された社会など考えることもできない。私が言っているのは人間性を損なうラベル、ディスカウントの含んだラベルのことを言っているのである。ところがどのラベルがディスカウントを含んでいるのかは、なかなか気づかれないのである。我々はそれを慎重に検討しなくてはならない。おおよそ、あっても無駄だと思われるラベルは有害だと考えて差し支えない。無駄なラベルに取り囲まれると混乱するからである。例えば「アダルトチルドレン」という専門用語が流行ったことがあった。結果としてどういうことが起こったかと言えば、その概念を知った人間が「私はアダルトチルドレンだ」というラベルを自らに貼り付けだしたのである。これではますますその人間が「アダルトチルドレン化」してしまう。このような例は何も専門的な心理学用語においてのみに起こるわけではない。血液型占いというのがある。「彼はB型だから・・・」「私はA型だから・・・」という風に血液型特有の性格で枠組みを作り、自らのあるいは他者の可能性を損なうのである。現にA型の人間のパーソナリティが、次第に想定されたA型性格に変化してきている、という研究報告もある。(池田謙一著「社会のイメージの心理学」参照)これは血液型という医学の世界では必要とされるラベルを、パーソナリティの計測に用いるという誤用からきている。その他にもこのようなディスカウントの含んだラベルは世間に溢れている。それが気づかない要因として、文化脚本という考え方がある。自ら生活している範囲のほとんどの人間がそれを当たり前としているので、国際的な交流や意識がなければ、なかなかそこから抜け出すことができない。例えば学校生活における「先生」というラベルや敬語、規則などである。強制的に敬語を使わせるのは、人を敬う気持ちを損なう。「えらい人」に敬語を使い、心から敬うときに使用する言葉では無くなっている。制服や名札なども暗黙のうちに生徒をラベル化し、ディスカウントしている。(名取弘文著「ナトセンの脱学校びっくり授業」参照)


注釈8

正しい根拠と誤った根拠

この部分をTAの概念を用いて言い換えるには、禁止令やミニスクリプトにおける「もし・・・ならば」という立場を用いることができる。
禁止令や「もし・・ならば」に入る言葉は、現実に合わない、人間性に反したものであるがゆえに、禁止令、ドライバーとして把握できるのである。何もかもを禁止する、という意味で禁止令という言葉を用いたのでは、一般的自我状態論と同様に、曖昧で使い道のない概念になってしまう。してはいけないことを禁止するのは当然のことである。ただ、その場合には、その根拠を納得させなければ意味がないことを忘れてはいけない。
また「もし・・・」に入る条件も、現実に相応しい言葉を入れれば、全く問題のない結末になる。例えば「もし健康ならば私はOK」という立場は、病気になったら治療する、という理性に適った結末に向かう。


注釈9

我々は現実で出会う

誤解とか先入観は、現実を歪めて認識する原因となる。一つの言葉を取ってみても、自分一人だけある単語の意味を誤って認識した場合、彼は世の中の全員が自分の使っている意味でその単語を使っているとした上で、その言葉を使用するのである。この行為は現実への認識を歪めたものにしてしまう。
人間のラベル付けとかゲームにしても同じことが言える。ゲームをする傾向が強ければ強いほど、彼は色眼鏡をかけて他者との交流に臨むので、相手の本当の姿が見えなくなる。
現実は、我々の出会いの場、とも言える。我々は誤解や先入観を乗り越えることで「現実」という我々の共通の認識に至ることができる。


注釈10

「悩み」と「病」

我々の生活における悩みや問題を医学的な視点で見た場合、「心の病気」というラベルを貼られがちである。自殺や凶悪事件が起こるたびに「当人は何らかの心の病気だった」とされ、それに対する「心のケア」が求められる。最近では悩むだけで心の病気にされてしまいそうである。
「心の病気、ケア」という言葉にはディスカウントが含まれている。つまり、専門家の手助けが無ければ、この人の問題は解決されない、という考えである。
医師と患者をラベル化して分けて考え、さらに問題が個人の中にのみ存在するという前提に立っている医学では、そう答えざるを得ないのであろう。
なお、「心は病まない」という考えについては深山教授が国際カウンセリング学会でその考えを発表しているので参考にされたい。





論文を閉じる