発達段階と教育

発達段階の研究は、人間の存在を考えるにあたって興味深いものである。ただし、発達心理学の研究者がその目的に掲げているように「自ら人間をどのように教育すればよいかという、実践的問題との関連」、という点においては、発達段階という尺度は、現実にほとんど持ち込めないばかりか、持ち込むことは有害である、という認識が必要である。

人間存在について一般的な洞察を行うことは楽しいことであるが、それを一人一人の教育に当てはめるのは間違っている。最近では、発達段階に照らし合わしながら、子供の成長具合を眺める、ということが当たり前になってきている。これは、子供が尊厳ある個性を持つ存在であることを忘れてしまっているからこそ生じる事態である。教育の世界では、命の大切さや個性の尊重を掲げながら、実際はその理念と全く逆のことがなされているのである。

発達段階や発達課題という概念は、学者が自ら選んだ概念的要素を許に現実を眺めてみた結果として浮かんできた尺度であり、現実を学者好みに合うようにディフォルメしたものなのである。それは、そう見える、ということにすぎず、「だからこうすべきだ」という結論を引き出すわけにはいかない。

物質や植物、動物、あるいは機械や電気といった研究において、こう見えるからこうすべきだ、という結論を下すのには、私は反対しない。発達段階を人間の教育に持ち込むわけにはいかないという考えの裏には、我々人間の法則と、その他の存在形式の法則とは全く違うからである、という根拠がある。つまり、人間の法則は「個を生きる。私を生きる。」というところに最大の特徴があるからである。だからこそ我々は「一人一人の人間の尊厳」とか「個性の大切さ」とかいう理念を叫ぶことができるのである。

実際、発達段階とか発達課題という概念は、教育に携わっている人間を間違った方向に鼓舞するし、何より母親を不安にさせる。そこから脱落することは人生に失敗することであり、いかにして子供に発達課題を達成させるか、というところに意識が向く。子供自体の存在は忘れられ、このゲームにいかにして勝つか、というゲームの駒として見られるようになる。そして彼らはますますどうすればいいか不安になり、学者たちの新しい預言にすがるようになるのである。

発達課題という概念が悪いわけではない、それを悪用するからよくない、という考えには、こう応えざるを得ない。「現実はそうはいかない。」この概念自体が悪いのではないのは確かだが、残念なことに、人々はそういう言葉に弱いのである。この言葉が、不毛で、残忍な競争を生み出しているのである。





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