心を要素に分ける弊害
従来の心理学の目標としてきたことは、心はどのような構成であり、どのように動くのか、ということである。しかしどのように構成され、どのように動くのかをいくら眺めても、そこからどう動かすべきか、という問題に対する答えは見えてこない。
どのような構成で、どう動くか、というところに視点を当てるとき、心を様々な要素に分解するという前提が必要になる。分解する方法や、心のどの側面から研究するかは、ほとんど無限に近いアプローチの仕方があるので、心理学はその多様性を留めることを知らない。実に様々な観点から研究がなされ、収集がつかなくなっている、というのが現状である。
ある焦点に研究対象を定めるとき、説明のつかないものは例外とされる。しかしこの例外の何と多いことだろうか。心を分解し、研究対象を限定した時点で、我々は現実から離れているのだ、という認識を持つ必要がある。我々はそれをまず分解したのだから、分解したものの法則で分解する以前のものを説明することは決してできないことを知っておかなければならない。そのとき、こういう考えが浮かぶ。「様々な観点から研究を続け、それらを統合すればよい」この考えこそ、現代心理学の根底にある発想である。
この研究が何も生み出さない、ということはできない。確かに現実の一側面を表しているのだし、応用科学として(バーチャリアリティやロボットの開発)利用されている分野もある。ただそれらを人間の生き方に持ち込むことはできないことを知っておくことが必要である。しかし誤解している人間はますます増えている、というのが現状である。現在では、発達心理学者が人間はいかに発達するべきかを語り、社会心理学者が人間はいかに社会で生きていくのかを語る、という風な、とんでもない誤解をしている者が多い。彼らが目指しているのは、自然科学的客観性に則った研究であり、どう生きるか、という問題に取り組むことではない。研究者でさえ、そのような事実に気づかないで混乱している場合がある。客観性を強調しながら、客観性だけでは導けないことを語ろうとするのである。社会性を育てるための本、のようなものを公開し、その中でなんの躊躇いもなくサルの研究の章を設けている始末である。我々がそこから何かを知ることができるとすれば、サルにも社会性らしきものがある、ということだけである。冷静に読んでみれば、この手の本はほとんど「どう見えるか」を語っており「どうするか」という点についてはほとんど何も語っていないに等しいことが分かる。
「様々な観点から心を研究し、法則を見つけ、それらを統合する。それらを許に人間教育を考えよう。」この考えが実現された社会を考えると、ぞっとせざるを得ない。我々はそのとき、研究者によって与えられた尺度(この尺度は研究者があとから付け加えた、人工的な尺度なのである)のなかで生きなければならなくなるのである。愛他性、道徳性、社会性、攻撃性、協調性、男性性、女性性、情緒安定性、支配性、積極性・・・・・我々一人一人が様々な尺度に振り分けられ、数字で表される。「全ての子供に愛他性を身につけさせよう。そのために、人工的によい環境を作り出そう。邪魔が入らないように、純粋に学習が進められるように手はずを整えよう。」我々は機械のなかでつくられた機械になろうとする。
既存の心理学に従事するとき、あるいは触れるとき、それはまず心を分解しているのだ、という前提を心に留めておかねばならない。様々な尺度で分解し、統計を取る。それゆえに現実に生きる我々の姿は、その中に見いだすことはできないのである。