心と様々な法則

 唯物論的な世界観は、世界の全てが物質でできており、心の構造や機能をも物質的に捉えようと試みる。心は脳における電流の流れが生み出す反応である、と考えるのである。この考えはあまりにも単純明快で、我々の生活のなかに気づかないうちに浸透している。心についての考察を、物質的に捉えようという試みが様々なテレビ番組で公開されているが、そこに違和感を持つ人間は少ないと言っていいだろう。

 しかし事態をまったく逆の観点から説明することができるのである。実際、我々が知っているのは自分の心だけである。心に映った事象を我々は感じたり、観察したり、あるいは考察したりする。我々が見ているのは心である、というより、我々は心自身である、という認識に対しても、唯物論と同様に反論することはできないであろう。

 我々は世界に物質が存在していることを知っている。しかし物質だけが世界に存在するなどと、どうやって証明するのだろうか。また、世界が物質だけでできているという説明から、いったい我々に、何をくみ取れというのだろうか。

 まず心がある、という前提に立てば、世の中を混乱させている事態を(実際多くの人が知らぬ間に混乱している)すっきりと解明することができる。我々が知っているのは物質ではなく、心だけだ、という前提に立てば、物質こそ我々から遠い存在であり、理解が困難な存在形式である、ということが分かる。我々は心の構造を理解しなくても喜んだり悲嘆に暮れたり、楽しんだり悲しんだりする。あるいは痛みを感じたり、暖かさを感じたりする。さらに言えば、様々なことを考える。我々は心を解明しなくても、心を生きているのである。しかし我々は物質になりきることはできない。真の意味で物質を知っている人間など、この世界にいるだろうか。心を生きているように、物質を生きることなどできるだろうか。

 つまり私が言いたいのは、我々は物質を知らないが故に、物質を研究し、様々な法則を発見し、物質を何とか知ろうとするのだ、ということである。我々は物質そのものに至ることはできず、ただ発見した法則にそれをあてはめ、その側面を知ることができるだけなのである。この立場に立てば、物質、肉体、脳、という唯物論者たちがこだわる事象が、人間の心がこの現実に機能するための補助的な道具だと見なさざるを得ない。脳に発生する電流のほうが、心が動くときの付随的な現象だと考えられるのである。

 まず心がある、という立場は、心の構造を解明することにはこだわらない。それは、まず、あるのだから。心にとって自分の構造を解明することよりも大切なのは、心をどう生きるか、どうすれば幸せになるのか、という問題の解決なのである。




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