新しいパラダイム
人間を研究の対象とするとき、個人を眺めている限り、様々な要素に分解せざるを得ない。このときに生じる弊害については違う項目で述べた。では、個人を分解せずに人間を研究することは可能なのであろうか。それは一人の人間を、すでに研究対象を分解した結果として見るときに可能である。つまり複数人の人間の関わりを対象とするとき、一人の人間を一個の独立した存在として捉えることができるのである。
この認識は学問の方法としては新しいものであるが、我々が日常生活のなかで何気なく繰り返していることである。つまり我々は人との関わりのなかで生きているのだし、そのとき「自分は様々な要素の結合である」などという考えは微塵も浮かんでこないのである。生きた人間を研究するためには、人間と人間の生きた関わりに着目する必要があるのである。
この方法は、社会心理学で採用されているものとは異なっている。社会心理学における関わりの研究(認知的バランス理論(ハイダー)認知的不協和理論(フェスティンガー)など)は「どう見えるか」という部分に留まっている。心理学事典で調べてみても、社会心理学はそれを前提としていることを告白している。「この種の価値判断を一応考慮の外におき、人間と社会の関係を経験的・客観的・没価値的に理解しようとする」
繰り返すように「どう見えるか」に留まることからは「どうするか」という判断は導かれない。まず大切なのは「どうするか」という問題であり、その問題が「どう見ればよいか」という要請を生じさせるのである。実りのある見方と、実りのない見方があることを判断するのは、実りを求める人間なのである。
「どうするか」を求めるとき、見えたことから何かをくみ取ろうとする。我々は生きた世界から情報を取り寄せ、その中に自分に生かすことのできるものを発見し、吸収する。そのためには、関わりを客観的に見るだけでなく、取り上げている対象のなかに、自分を当てはめてみる必要がある。自分ならどう感じるか、どうするか。そのときにこそ、我々は経験豊かな人物の指導や助言の価値を知ることができる。自分では気づかなかったことを指摘してもらうことができるのである。統計や客観的なデータからは知ることのできないことを獲得することができるのである。それゆえに優れた技法や尺度は、知ればいいというものではなく、それを生かすことのできる知恵と経験を必要とするのである。
「どうするか」「どう見るか」という問題への取り組みを、人間性に則った形で最も優れたものにしているのはサイコドラマ(モレノ)である。交流分析(バーン)も同じような形で、人間の交流に焦点を当てているが、従来のものでは不完全であり、修正する必要がある(交流分析の人間学的考察参照)。