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話しことばの近代史
byトジ
我々は、人間同士でコミュニケーショシをする手段の一つとして、「ことば」を用いる場合が大部分を占めていることは確かである。その「言葉」として「日本語」を使っているわけだが、この言語は、世界的に見て孤立した言語として扱われている。このことについてもう少し分析してみる。「日本語」を我々が話す際に、その各々の人間の立場によって使い分けることがある。それが方言による差であるとともに、地位・職業・男女による違いであるが、これらを統一したものとして、「標準語」がある。
それでは、今日の「標準語」はいかにして成立したのであろうか。
1.新江戸ことばの成立
徳川家康が豊臣秀吉によって、駿府から当時田舎であった江戸に移封され、街の開発を始めた。もちろんこの地に昔から住民はいたが、幕府ができると、周辺の住民や家康の地元である三河や駿河から家臣やその家族たち、そして上方やその他の地方から商人たちも移住し、古江戸ことばに各地方の方言が混ざりあうと言う形で、新江戸ことば即ち、今日の東京の下町のことばの原形ができあがった。
それでは武士のことばはというと、家康が江戸に来た際に、家康配下の武将も来たわけで、幕府の要職は彼らによって独占されたため、武士の間で三河ことばが主流となり、一種の三河ブームが起こった。
このように、江戸の街では特殊な形で街が形成されたため、言語的にも特異なものができ、一里(=2km)離れたら違うことばになってしまい、「江戸言葉は海中の島のようだ」とも言われた。
2.新江戸ことばからの派生
江戸時代の初期、武家に仕える奴や下層の商人の間で、「六方ことば」が流行した。このことばは武士ことばと粗野な関東ことばとが混ざってできたことばである。
前文で述べたように、六方言葉が新江戸言葉から派生したのであるが、このことばは武家の奴や下層の商人から、侠客・大道芸人・行商の八百屋・魚屋へと広まっていき、後に衰退しても、歌舞伎の荒れ事のセリフとして残ったり、今日でもいくつかのことばは根付いているのである。
そして、武家ことばも派生が起こり始めていた。派生したことばとして、武家に仕える家中、女中が用いた家中ことば、別称「遊ばせことば」がある.このことばの特徴としては、その名の通り、文末に「〜遊ばせ」や「〜遊ばしたら…」などというように用いられていた。このことばは後に上流層の町人の「女ことば」へと広がっていった。この頃、町人の娘が、嫁入り支度として、武家社会に女中として入り、そこで行儀作法を学ぶということが教育コースとなっていた。町人の間でも、自らを武家に近づけたいという欲望が強くなっていったというのが大きな理由の1つである。
3.明治維新による影響
1867年に徳川幕府は倒れ、明治新政府ができ、江戸も東京へと変わっていった。しかし東京に薩摩・長州の官軍が入ると、東京はゴーストタウンヘとなっていった。東京が戦火によって火の海と化すのを恐れ、市民は周辺地域に流出し、山手に武家屋敷を構えていた諸大名や旗本たちは国許へ帰っていったのである。
しかし、東京に新しい住民が徐々にやってきたのである。武家がかつて住んでいた山手には、明治新政府の高官となった志士や宮廷貴族が移住し、下町には旧士族・舞い戻り藩士・商人、一旗上げようと意気込む若者たちが移住してきた。
そこで問題なのは、各地方から人が集まってきたので、会話がスムーズにいかないというのである。そこで若者たちは、彼らが今までに学んできた漢語や外国語を使って、会話をやたらめったらにしたため、一種の言語的混乱を起こした。
4.山手ことばの共通語化
薩摩中心の新政府ができると、人々はしきりに薩摩気質を真似しようとした。しかし西南戦争で西郷隆盛が自刃し、その後大久保利通が暗殺されると、人々の心は薩摩から離れていった。
官軍は、江戸市民(東京市民)に対して、高圧的な態度を示した.それに対し、市民は徳川懐古の念が生まれ、官軍にさらに反抗した。それを見て官軍もさらに反発するという、いたちごっこの状態になっていった。
しかし旧武士階級などの上流階級に対しては、何故か官軍は尊敬の念を抱いていた。そこで彼らは、下町ことばを使うくらいならと、山手ことば(旧武士ことば)に同化していったのである。山手ことばとは、武士ことばの延長上にあるものと考えてもらってもいいが、「女ことば」と「男ことば」との間に微妙な変化が見られた。
「女ことば」の特徴としては、ことばが芸妓化していったと言うことである。これは、一説によると、政府高官の妻に上方や京都の芸妓が多く、近所同士で会話をするときに思わず出てしまったということらしい。ちなみに、「男こどば」の変化例としては、「ぼく」とか「きみ」などが挙げられる。その他の顕著な例として、「です」「ます」がある。
5.標準語教育
明治時代になりだんだん時が立つにつれ、各地方で日本の中心のことば、即ち東京ことばを学ばなければいけないと言うコンプレックスが起こり始めていた。そのために徐々に訛りを無くしていこうという動きが起こった。それに対し、政府は教育勅語を発し、国家主義的気運が強まり、日本国民に「国家意識」や「民族意識」が芽生え、日清戦争へと突入していくのである。
こうなると各地方で、標準語の成立を待つ「標準語待望論」というのが起こり、挙げ句の果てには「方言撲滅運動」が起こった。その一つとしてはまず、学校の教師のことばを標準語にしてから、生徒も標準語にしていくというものだった。もう一つは、我々日本人の発音形態自体を統一しようという考えであた。その他には、日本語のアクセントを統一しようというものもあった。
これらの標準語教育は、現代の教育にも大きな影響を与えた。それは、「生徒の画一的な統制」である。
6.標準語神話の崩壊
太平洋戦争下の厳しい現実の中で、東京と地方との価値が逆転しつつあった東京の人々は生産の手段もなく、疎開で地方に世話になることになり、負い目を感じていた。そして戦後になり、芸として地力の言葉を強調して話す話芸、つまり漫才等により、地方の言葉の地位が向上した。それに対して東京ことば(山手ことば)は、中央集権的な権威のにおいのする「標準語」という名称を嫌い、「共通語」という名称を使おうと言う動きがある。
参考文献:「江戸語・東京語・標準語」 水原明人 講談社現代新書
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