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選挙制度
1998/10/22 akko
*はじめに
「選挙制度」
(1)有権者の意思・選択が、票として明確に表明されるための手続き。
(2)票が、議席または政府(内閣)形成に変換される手続き。
「選挙制度は政治の最も操作可能な道具」 〜ジョバンニ・サルトーリ
(1)政治を変えるには、選挙制度を変えるのが一番。
(2)政治で最も人為的に手が加えられやすいのが選挙制度。
1.選挙制度の類型
各国の社会的利害の対立状況などから細かい点で異なってくるが、選挙制度は「政治」についての基本的考え方の違いを反映して、大きく二つにわけられる。
(1)イギリス型小選挙区制
定数1、相対多数で当選者を決定するもの。投票者のうちの多数派が代表を独占する(多数代表制)。この場合、選挙制度は議会の代表を選出だけのためのものではなく、内閣を形成し、選挙を通じて国民の多数派が支持する政策を、国政に反映させることが肝要となる。これは、国政の基本政策とその遂行責任者(首相)を直接選択できる制度。多数派の形成を容易にするので、安定政権になる。しかしその反面、第3党以下の政党の得票率と議席数の乖離が大きく、マイノリティを黙殺する。
(2)比例代表制
有権者は多様な価値観を持っているが、それを議会に正確に反映すベきである。そして各党の議席は、その得票数によって正確に議会に反映されるベきである、というもの。各候補者グループ(政党)に投じられた得票の大小にできるだけ比例するよう、議席を配分する方法。確かに公正であり、政府が多様な意見を尊重するようになる可能性が高くなる。しかし、あまりにも細分化が進むと、今度は議会の意思決定ができにくくなる。そして、連立政権を形成する際の政党間の交渉の過程が不明朗になりがちである。その意味では有権者の意思が反映されなくなる可能性も大きい。
選挙制度にはこれらの二つの対照的な考え方があるが、どちらの考え方をより重視するか、で選挙制度が決まってくる。その国の社会構造が多元的であったり、同質性の高い社会であったりすることで、採用されている選挙制度が異なるのである。日本の場合(衆議院)は小選挙区制に重点を置いて、二大政党制を実現しようとしつつも、比例代表制を加え、マイノリティの意思表示の余地を残した並立制を採用している。
2.選挙制度の変遷
日本の近代的な選挙制度は、1889年(明治22年)に公布された衆議院議員選挙法で導入された。これは憲法と同様にプロシアを参考にしたとされるが、プロシアによって統一されたドイツ帝国では小選挙区絶対多数制を採用していた。これは第一回投票で過半数を獲得した候補者は当選、いない場合は第二回投票で相対多数で決定するというものである。日本はこの簡便法として小選挙区制度を採用したらしい。投票方法は定数1の選挙区では単記、定数2では連記で、記名捺印を必要とした。財産資格による制限選挙で、有権者数45万人、総人口に対する有権者数の割合は1.1%、投票率は94%にのぼった。
1900年(明治33年)には大選挙区制(日本では府県単位の選挙区のこと。複数選出)が導入され、単記無記名の秘密投票に変更された。有権者の財産資格も多少緩和され、有権者数の総人口に対する割合は2.2%となった。この改正は山県有朋内閣によって行われたものである。山県は軍部出身者で反政党だったので、大選挙区で単記制を導入したのは、大政党が同士討ちを行って、相対的に力が弱まることを狙ったものであった。複数定数区での単記投票制のこの制度が、彼の中選挙区制につながっていく。
その後、原敬内閣で小選挙区制に戻される。原内閣は日本初の本格的な政党内閣であったので、山県とは逆に「大政党(つまり与党の立憲政友会)に有利になるよう」に小選挙区制に戻したのである。そして次の総選挙ではこの時のゲリマンダーのおかげもあって、政友会は大勝した。
男子のみの普通選挙が導入されたのは、1925年(大正14年)のことである。25歳以上の男子に選挙権が与えられたことによって、有権者は人口の20%を占めるようになった。これはその前年の総選挙で「護憲三派」と呼ばれた憲政会、政友会、革新倶楽部が勝利して成立した加藤高明内閣による。この時、大政党の政友会は小選挙区制を主張し、小政党の革新倶楽郎が大選挙区比例代表制を主張して、結局三派が共存できる制度ということで中選挙区制に落ちついたという。
戦後、有権者が20歳以上の男女にまで拡大され、最初の選挙だけが大選挙区制の下で行われ、以後は55年体制の崩壊まで中選挙区制がとられた。大選挙区制下の投票方法は制限連記制(その選挙区の定数によって、投票できる人数が1〜3人とちがう)であったが、開票事務が大変であったことに加え、有権者が一票はともかく残りの票を興味本位に行使した、とされたため、中選挙区制に戻された。1993年(平成5年)の総選挙まで、この制度で17回選挙が行われた。戦前から数えると23回、約70年間にわたって中選挙区制の下で選挙を続けてきたことになる。
3.中選挙区制と現行制度
有権者の投票行動の判断材料としては、有権者の社会的属性(例えば「若い人はリベラル」という年齢的なもの、職業からいえば、労組との関係があるから民主党、というようなもの)、候補者のイメージ、政策争点などが挙げられる。しかし、3〜5人が定数の中選挙区制下においては、同一選挙区に同一政党の候補を複数立てないと、単独政権はおぼつかない。つまり、政権党である自民党に同士討ちが起こる。つまり、同士討ちに勝つためには相手と違う派閥に入って、領袖の力でポストをもらい、地元に利益誘導をしなければならない……。必然的に選挙では国政上の政策争点ではなく、地元への貢献度が重要な意味を持ってくるのである。
そして、中選挙区下では政権交代が起こりにくい、という事情もあった。野党は単独でも当選できるので、結集の必要性がなかったためである。政権交代が起これば、前の政権の汚職や癒着をあばきだすという効果も期待でき、それなりのチェック機能を果たすのであろうが、自民党内部の派閥間での政権交代でしかなかったのである。そんな中、リクルート事件、佐川急便事件などで政治腐敗が顕在化し、政治改革論議が巻き起こった。そして、中選挙区制度を変えねばならない〜とされるに至ったのであった。
小選挙区制のメリット、デメリットは前述したが、私見として述べてみると、この制度のメリットとしては政策本位の選挙になる、政権が安定する、などが挙げられるが、前者は今の日本のように与野党が錯綜している状況では説得力がないように思う。結局、政策の違いの明確でない候補者同士なので、中選挙区制下と同じように「握手してくれた人」に有権者は入れてしまうのだ。そして利益誘導をしたいなら、与党にいなければならない。そして、政策の違いがないのなら、与党にいても全く問題はない。自民党は先の総選挙では過半数を回復できなかったが、他党からの引き抜きで、いつの間にか過半数の議席を得ているのである。
*終わりに
1994年、政治改革関連法が成立し、衆議院の選挙制度として小選挙区比例代表制度が導入されたことは記憶に新しいであろう。当時、政治改革として制度改革を叫ぶ議員は改革派としてもてはやされ、反対する議員は「守旧派」として袋叩きにされたものである。テレビは慎重派を被告として呼びつけ、司会者は検事さながらに「政治改革をやるのか、やらないのか」と迫り、選挙制度を変えるという言質を取れなければ守旧派と決めつけていた。そして世論もそれに乗っかった。実は非自民議員でも有権者が思っていたほど「選挙制度を変えなければ政治改革ができない」とする議員は多くなかった。むしろ制度を変えなくても改革はできる、とした議員の方が多かったのだが、改革派であるというイメージが誇張され、自民党を飛び出した議員たちの新党が総選挙に勝った。その後、非自民連立の細川内閣が野党・自民党との妥協の末に、今となっては擁護する人もまばら(私の印象として)のこの制度を成立させたのである。
選挙制度に関わる論議の時は、党派性がむき出しになり、政治的な思惑に左右されるのは選挙制度の変遷で見てきた通りである。よく言われる「一票の格差」についてなら、かつて55年体制下で定数是正を積極的に行わなかったのは、自民党が農村部において強かったからであり、野党も定数削減対象の選挙区の議員が猛反発したからであった。一度は廃案になった政治改革関連法案が、細川−河野のトップ会談という形で妥協の末に決着したのも、細川内閣が世論の動向を気にして、成立に執着したためである。そしてこの現行制度はたとえ有権者が「汚職議員だから落選させてやる」と思った議員でも、党に必要な人材であれば、比例名簿の上位に載せて復活当選させればそれで終わりなのだ。つまり、選挙区制だけではくみ取れない少数派の意見をも吸収できる、という制度の建前の裏で、これ以上はないくらいの党派的な思惑が存在しているように思う。基本的には選挙制度は先に述べたように、相対多数制と比例代表制に分けられるが、どちらが正しいのか間違っているのかは政治学的には言えない。そのため、どちらをより重視して選挙制度を考えるのかも、その時の政権党の政治的判断と妥協の問題になってくる。このため、選挙制度改革には必然的に党利党略がからんでくるのはやむを得ないが、選挙制度を変えればすべてがよくなる、という安易な風潮には与するベきではない。
<参考文献>
「政治学がわかる。」 朝日新聞社
「政治改革と選挙制度」堀江湛/編 芦書房
「現代日本の政治」 沖野安春 芦書房 など
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