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ギレン・ザビ

byきゃみさん
〜プロローグ「ギレン・ザビ」〜
 もし、あなたの息子さんが
「お父さん、独裁者は悪者だよね、なのにどうしてみんな独裁者を支持して権力を与えちゃったの?」
と、質問したときあなたはどう答えます。
「独裁者は悪いやつだから、みんなをうまくだましたんだよ」
なんて言い方でごまかしますか。
 さて、とある商人が同じ質問を息子から言われたとき
「民衆が楽をしたがったからさ」
と答えたそうです。
「そうとも、自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖者なりが現れて、彼らの苦労を全部ひとりでしょいこんでくれるのを待っていたんだ。そこを、独裁者につけこまれたんだよ。いいか、覚えておくんだ。独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ」
と。

〜独裁者ギレン・ザビ〜
 人間の心に二面性が存在する以上は民主政治と専制・独裁政治も同じ時空軸上に併存するものである。現代のように民主政治が隆盛を誇っているかのような時代でも、専制政治を望む人物はいる。私のように、他者を支配する欲望による者だけではなく、他者から支配され服従することを望む人がいるのだ。
 そのほうが楽なのだ。してもよいことと、やってはいけないことを教えてもらい、指導と命令に服従していれば、手の届く範囲で安定と幸福を与えてもらえる。まあ、それで満足する生きかたもあるだろう。だが、柵の内部だけで自由と生存を認められた家畜は、いつの日か、殺されて飼育者の食卓に上らされるのである。
 これら精神的家畜の理想とする「専制君主の善政」はというものは、人簡の政治意識にとってもっとも甘美な麻薬ではないだろうか。参加もせず、発言もせず、思考することすらなく、政治か正しく運営され、人々が平和と繁栄を楽しめるとすれば、誰がめんどうな政治に参加するだろうか。しかし、なぜ家畜はそこで想像力をはたらかせないのか。人々が政治をめんどくさがるとすれば、専制君主もそうなのだ。彼が政治にあき、無制限の権力を、エゴイズムを満足させるために濫用しはじめたらどうなるか。たとえ、専制政治が一時の繁栄をもたらしたとしても、時が経過し世代が交替すれば、まず支配者層の自立性がくずれるのではないか。誰からも.処罰されず、自省の知的根拠を与えられない者は、自我を加速させ、暴走させるようになるのではないか。と。
 だから権力はは制限され、批判され、監視されるべきなのである。ゆえに専制政治より民主政治のほうが本質的に正しいのだ。「誰かに命令され、誰かに従属して生きるほうが楽なのだ」この安直な考えこそが専制政治や、全体主義を人々が受け入れる精神的な土壌になっているのだ。民主主義とは政治という名の高級ホテルの賓客になることではない。まず自力で丸太小屋を建て、自分で火をおこすことからはじめなくてはならないのに。
 独裁者の登場は民衆が根本的に、自主的な思考とそれにともなう責任よりも、命令と従属とそれにともなう責任免除のほうを好むという、歴史上の顕著な例証である。民主政治においては失政は不適格な為政者を選んだ民衆自身の責任だが、専制政治においてはそうではない。民衆は自己反省より、気楽かつ無責任に為政者の悪口を言える境遇を好むものだ。そして専制は、責任の所在が為政者にあるという民衆にとってお気楽な環境と共に、変革をすすめるにあたって効率的きわまりない体制でもある。ほら、民主主義の迂遠さにあきれた民衆は、いつも言うではないか。「偉大な政治家に強大な権限を与えて改革を推進させろ!」と。逆説的だが民衆はいつだって専制者を求めていたのではないか。

〜民主主義vsギレン・ザビ〜
 何百年にひとり出現するかどうか、という英雄や偉人の権力を制限する不利益より、凡庸な人間に強大すぎる権力を持たせないようにする利益のほうがまさる。それが民主主義の原則である。そして個人の人権を守るために国家の総力をあげるのが民主国家である。だが、人は人であるということ自体で自由にはなれない。人は公共の福祉や義務を守らなくてはならない。そして法にしたがうのも市民として当然のことである。
 だか、政府・国家が自らさだめた法に背いて個人の権利を侵そうとしたとき、それに盲従するのは市民としてはむしろ罪悪である。なぜなら民主国家の市民には、国家の犯す罪や誤謬に対して異議を申し立て、批判し抵抗する権利と義務があるからである。昨今、政治の腐敗ということが叫ばれているが、政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることではない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を、政治の腐敗というのであり、精神的家畜どもの政治への無関心が今日の集団暴走スクランブルを作り上げたのだ。
 政府が人民を害しているように思われがちだが、我が民主国家では、人民を害する権利は、人民自身にしかないのだ。言いかえれば、無能な政治家を政権につけたのは、たしかに人民自身の責任なのである。他人を責めようがないのだ。お前が政治家でなかろうが、そいつに投票してなかろうが、投票所に行ってなかろうが責任は我々にあるのだ。そしてこのことが民主政治において最も大事なことなのである。民主政治では原因が自分たちにあるのでそれを改善する余地があるわけである。
 専制政治では、原因に参加する権利は人民にはなく、結果を負担する義務だけを押しつける。開放的な民主共和政治と異なり、閑鎖と差別によって成立する専制政治の罪はそこにあるのである。

〜ギレン・ザビを生まない為に〜
 「今が楽しければ、いいじやない」と思っている方、たしかに、人間には現在は無論大切ですが、どうせなら過去の結果としての現在より、未来の原因としての現在を、大切になさるべきではないだろうか。
 国家、政府をたよりに安住しておられる方、人間が不老不死ではなり得ないと同様、国家も不老不死にはなり得ない、地球上に文明が誕生して以来、滅びなかった国家は一つもなかったことを思い出して下さい。
 「どうせ駄目になるから、ほっときゃいいよ」と考えている方、どうせ空腹になるからといって、食事をしないわけにもいかないでしょ。
 そう、国家と権力機構の無謬性を否定し、自らの非を非とする自省と自浄の意欲こそが民主政治の長所であるはずなのだから。

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