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極私的宗男の研究


                         2002/03/23  by akko

はじめに
 私は、政界最高のコメディアンは我が派の領袖・シンキローこと森喜朗だと思っていた。しかし、それは私の早とちりであった。昨年の「流行語大賞」の各賞の多くは小泉首相がさらっていったが、「抵抗勢力」たちは、全員受賞を辞退し、表彰式には現れなかった。今年は「ムネオハウス」が大賞候補になるかどうかというより、宗男が表彰式に現れるかどうか(というか収監中かどうか)が焦点になるはずである。
 外見はコメディアンそのもの、そして一介の族議員でしかなかったはずの政界の茶坊主・宗男が、流行語を生み、"白い粉"を送りつけられるほどの実力者にのし上がったのは何故か。本稿では、宗男の政治生活を概観しつつ、これを検証したい。 ※但し、宗男は叩けば叩くほど埃が出ているため、本稿では最新の情報をフォローできていない面もある。その際はご指摘を頂きたい。尚、文中敬称略。


1.宗男の経歴(宗男の公式HP、講談社HP等より作成)
生年月日:1946年1月31日 
出身:北海道足寄(あしょろ)郡足寄町大誉地(およち) 
選挙区:比例代表北海道ブロック   ※足寄町は現在の北海道11区に含まれる
略歴:拓殖大学政経学部政治学科卒。在学中より14年間、中川一郎代議士の秘書を勤める
   1983年1月の中川の死去後、その長男の昭一との争いを経て、同年12月(中曽根)総選挙に無所属で出馬、当選を果たす。自民党では長らく無派閥であったが、92年の竹下派分裂を機に小渕派(現在の橋本派)入り。現在当選6回
   
選挙:中選挙区制度:中川昭一と北海道5区に住み分け
   小選挙区制度:昭一=北海道11区、宗男=北海道13区に分かれる
1996年総選挙:宗男、13区に出馬→新進党公認・北村直人に大差で敗れる
→比例区名簿は単独1位だったため、復活当選
2000年総選挙:北村が自民に復党=13区から出馬、当選
       宗男は比例区名簿で1位=当選
→コスタリカ方式により、次回の総選挙では宗男が13区の小選挙区候補者になる予定

※中川の自殺の原因は現在も明らかではないが、総裁選のために宗男が集めた「アングラマネー」説、宗男の参議院選出馬画策説、外国の諜報機関による謀殺説等、諸説ある
→石原慎太郎『国家なる幻影』
「中川氏が死んで私がその跡を引き受けることが決まってから、私は鈴木秘書に(中川派の)派閥の財政がどうなっているかについて質してみた。
〜その時の概算の報告ではかなりの金が残っているということだったが、その額が段々減っていって、最後は会として残っている資金は八千万ほどということだった。ならばそれを新しい会計責任者に預けてくれという段になったら、訳のわからぬ借金のリストが次から次に出てきて、それを皆支払うと決算は赤字ということになる。
〜結局会と鈴木秘書との間の裁判にまでなってしまい、かんかんになった両長谷川氏(長谷川四郎、長谷川峻)が徹底して戦うということで、〜私は免れたが長谷川氏たちは再三法廷にも出向き、結局は勝訴となった。その後私は私の一存で残った八千万だかの金を遺児の昭一君に右から左に渡してしまった。
2.宗男の人脈
 (1)中川一郎  宗男は理想の政治家として、中川一郎の名を挙げている。宗男の政治手法は中川から受け継ぎ、また、中川の秘書時代に培われたものも少なくないだろう。
 中川の秘書時代の宗男は「秘書として超一流」「やり手」と激賞される働きぶりだったらしい。しかし、中川に可愛がられ、数年後に第一秘書として金庫番を任されるようになった頃から、現在のような威圧的な態度を取るようになっていた。「鈴木代議士、秘書中川」と陰口をたたかれることも多く、宗男自身「中川がOKと言っても、この鈴木がNOと言えばダメだ」とうそぶいていたという。
 中川夫人は初対面時から宗男を嫌っており、何度も解雇するよう中川に迫ったが拒否された。しかし、さすがの中川も晩年は宗男の「中川の後釜を」という野心に気づき、警戒していたようだ。
 ※宗男が中川の子飼いの代議士を怒鳴りつけることも多々あった。当時、宗男同様に中川の秘書を務めていた現経済産業大臣の平沼赳夫(江藤・亀井派)も、宗男に電話機で頭を殴打されたことが何度もあったらしい。

 (2)小渕派→橋本派(経世会)
 中川の死後、宗男は無所属で衆院選に出馬した。中川の後継の昭一と選挙戦を戦い、二人とも当選を果たした。宗男は長らく無派閥であったが、そのうちに当時の自民党の実力者・金丸信に取り入るようになり、小沢一郎の反乱によって分裂した小渕派に入会する。金丸亡き後、やはり金丸に可愛がられた野中広務の側近となる。こうして実力者に追従し続けた結果、小渕が倒れた後、額賀福志郎、藤井孝男と共に、ポスト橋龍の総裁候補がいない橋本派の「次代のリーダー」候補となった。
 ※額賀は防衛庁長官時、防衛庁汚職の責任を問われて、参院で問責決議案が可決された後に更迭された。その後、KSD事件が発覚した際、KSDから巨額の献金を受けていたことが露見し、「次代のリーダー」のレースからは脱落した。

 (3)ムネムネ会
 96年初当選組でつくられた「鈴木大臣(当時、北海道・沖縄開発庁長官)をしたう1回生の代議士の方々でつくる<中略>鈴木大臣を中心に明日の日本を日々語りあうパワーあふれる勉強会」の略称。かつては自民党の機関紙でメンバーが紹介されていた。その顔ぶれは流動的だが、民主党の指摘によると現在30数名のメンバーがいるという。宗男は彼ら橋本派を中心にしたメンバーに資金を配り、将来の総裁への布石を着々と打っていた。
 ※但し、宗男が渦中の人となった今、メンバーの多くは「資金をもらっただけで宗男系と思われるのは迷惑」と逃げを打ったり、ムネムネ会の存在自体を否定するなど宗男切りに躍起になっている。例えば、メンバーと見られている桜田義孝はムネムネ会について「一年以上会合はない」として実質的な活動の存在を否定し、自らの関与もそれほどではないとするが、他の代議士の証言によると「ムネムネ会の会長は桜田」であるという。

 (4)松山千春
 松山千春は足寄町出身で、宗男の中学・高校の後輩という。また、宗男後援会青年部の名誉会長でもあるらしい。ワイドショーにて宗男を庇う発言をしたため、袋叩きに遭う。


3.代議士としての宗男(別添「議員歴・役職歴」参照)
 衆議院選挙で当選した宗男は、当選2期目の宇野内閣で防衛政務次官に起用された。当選2回程度の若手代議士が政策を学ぶため、政務次官になるのはお決まりのコースである。つまり、政務次官は時に「盲腸」と揶揄されるように、政策決定においては決して重要なポストとは言えない。しかしその後、宗男は橋本内閣で北海道・沖縄開発庁長官として初入閣するまで、防衛・外務の両政務次官を歴任し、党においても国防部会の会長を務めている。所管官庁こそ外務・防衛と異なるが、共に外交に関わるポストであり、のちに「唯一の外交族」として権勢を振るうようになる宗男のバックボーンが、この時期に形成されたことは疑いない。
 宗男が記念すべき初入閣を果たした北海道・沖縄開発庁長官時代は、いわゆる「橋本行革」の時期であった。宗男の所管官庁、特に地元の北海道開発庁は従来から廃止のターゲットとされてきており、省庁の大括りを目指した橋本行革において、庁単独で生き残れる可能性は皆無であった。そのため、宗男自身も開発庁と共に玉砕するのではなく、「庁」の名を捨てることで、実質的な開発庁機能の存続に向けた条件闘争を展開した。その一方で、宗男は所管でない外務省(外相:池田行彦→小渕恵三)がそのまま残されるように尽力したといわれる。それまで外務省を応援していたのは、政策論に強い加藤紘一(元外交官。当時は幹事長)くらいであったため、当時現職閣僚でもあった宗男の協力は外務省にとって心強いものであったと想像される。
 ※ある外務省幹部は「票にならない国際政治に興味を持ってくれる政治家は少ない。それなのに宗男さんは政務次官の頃(93年の湾岸戦争頃)から意欲的に取り組んでくれてうれしかった」と語っている(読売02/02/20朝刊)。


4.「日本一ダーティーな政治家」としての宗男
 宗男の経歴を概観したところで、主に2002年2月頃から噴出し続けている宗男の疑惑の主なものを簡単に見ていく。
(1)NGO排除問題介入疑惑
 今でこそ数々の疑惑を指摘される宗男だが、この問題が大々的に露見しなければ、これほど早期に離党に追い込まれることはなかったのではないだろうか。そういう意味では田中真紀子の功績は大きいし、宗男にとっては相手が悪かったとしか言いようがない。
 この問題の発端は、02年1月中旬のアフガン復興支援会議に関して、NGOの発言に激怒した宗男が、外務省にNGOを会議から排除するよう指示したとされたことであった。結局、当該NGOは中途から会議に参加できたが、この直後の衆院予算委で真紀子が「野上次官から『鈴木さんは難しい人だ。前からの経緯もある。言うことを聞かないわけにはいかない』と聞いた」と答弁したことが、宗男が外務省に対して恫喝できる立場であることを白日の下にさらすきっかけとなった。

(2)ムネオハウス(「友好の家」)疑惑
 2月13日の衆院予算委で共産党の佐々木憲昭が「鈴木氏が北方四島支援事業受注の見返りに献金を受けている」と発言。続いて、宗男・真紀子が参考人として招致された20日の同委員会で、佐々木は国後島の「ムネオハウス」を巡り、入札参加資格を宗男の選挙区である根室管内の業者に限定するよう、宗男が働きかけを行ったとする外務省の内部文書を暴露した。
 宗男は答弁で、ムネオハウスについては「島のみなさんが感謝や仲間意識を持って、呼んでいるかもしれないが、公式の名称ではない。鈴木ハウスと呼んでくれとか、宗男診療所と呼んでくれなんて言っていない」と苦しい抗弁を行い、公平な入札応募をゆがめた疑惑については「一方的な資料だ。私は公募型の入札方式だと外務省から説明を受けている」と反発した(のちの証人喚問において、根室限定の働きかけは認めるが、業者選定への介入は否定)。

(3)「北方領土が返ってきたら迷惑」発言疑惑
 民主党が外務省に資料の開示を求めた結果、外務省が提出した文書に記載されていたもの。持ちつ持たれつの関係であった外務省との蜜月関係が終焉したことを示す象徴的な事例であろう。これによると、宗男は95年6月、外務省幹部に「北方領土問題というのは、国のメンツから領土返還を主張しているに過ぎず、実際には島が返還されても国として何の利益にもならない」と述べ、それより経済交流を優先すべきと主張した。宗男はこの発言を事実無根とし、真っ向から否定している。


5.宗男の功罪
 この一連の「宗男騒動」を見てきて、地位を利用して恫喝を繰り返す政治手法の宗男が、離党し、失脚寸前の状態に陥ったことは、橋本派を敵としてきた小泉政権のためには大変好ましい。 しかし、宗男はそれほど政治家失格であろうか。宗男は確かに人格的に問題は多いが、例えば、外交そのものでも真紀子より他のここ最近の歴代外相より、余程働いているのは間違いないだろう(宗男のベクトルが「国益」の方向を向いていたかどうかにはかなり疑問があるが)。
 宗男が所属した橋本派は、郵政・建設・運輸・農水等、伝統的にあらゆる利権の動向にさとい派閥である。竹下派分裂の際に新入りとなった宗男には、最早そのどこにも割り込む隙間がなかった。そこで、誰も積極的に関与しようとしなかった外交に目をつけたと思われる。「北方領土返還運動発祥の地」(宗男談)である根室を選挙区とする宗男には「外交族」化するインセンティブは充分にあったのだ。宗男は、外交案件を利用して自らにキックバックしたのである。これが露見したことは大きな失策であったが、そこまでの集金力を持たなければ、派閥自体が弱体化しつつあるとはいえ、宗男は橋本派内で頭角を現すことはできなかったはずである。
 しかし橋本派内の大方の予想を裏切って一連の騒動が沈静化せず、予想以上に拡大したため、宗男は四面楚歌となった。宗男を側近として重用した野中広務でさえ、宗男をかばい続けることはなかった。そして総裁への布石を打つため、また将来の"宗男派"旗揚げの日に備えてキックバック分を配った「ムネムネ会」メンバーには裏切られた。そして挙句の果てに、外務省が宗男の蛮勇を記した「無期限秘」文書を暴露、つまり宗男は飼い犬にまで手を噛まれたのである。
 これまで収賄疑惑等で世論の批判を受けながら選挙では当選し、「禊を受けた」として公職に就いた政治家は多い。宗男も離党はしたが、次期総選挙では無所属で出馬する意向のようである。コスタリカ方式のパートナーの北村が小選挙区で出馬する意向を示しているが、自民党はこれを取り下げさせ、宗男を側面から支援する腹積もりのようだ。民主党も候補擁立を目論んでおり、選挙には強くない宗男が当選する可能性は高くないが、根釧の有権者の良識に期待し、宗男にはぜひ当選してもらいたい。そして今度は正式に外相となり、外務省に対して懐柔・恫喝を織り交ぜて支配したように、半島の北や、その隣の赤い国に対してアグレッシブな外交を展開してもらいたい。宗男が禊を済ませ、国会に戻ってきた時も自民党政権が続いていたなら。

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