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初めに……
あるいは、平和なんて概念は自己欺瞞なのかもしれない。
強者は、弱者をしいたげていることを隠蔽するために現代を平和だという。
弱者は、しいたげられていることに気が付かずに(もしくは気か付いても現状を打破する勇気のなさに)現代は平和だという。
どちらでもないものは、自分に危害がないために平和だという。
平和は水のよう、空気のよう−いとも自然にあるもの。
本当にそうだろうか。
それが疑問の出発点だった。
水は、水道局のおっさんが塩素ぶちまけて消毒して、ようやく水道水になるのである。空気は熱帯雨林を伐採し過ぎればいずれは存在しなくなる。両者ともに人間の営みに濾過されなくては、人間を生かしめるものにはならない。平和も同様ではないだろうか、と歴史を見るたびに痛感する。
パクスとは、平和と訳される。深く見るなら、覇権と意訳できるかもしれない。その条件とは何だろうか、という問いから始めたい。
1.殺されないこと。2.おなかがすかないこと。3.財産の自由が守られること……
……すでにここから平和の定義が異なってくる。財産がないほうが平和だという考えもあるし、それも一つの平和の定義なのだ。ほかにも様々な定義があるが、それはあくまで個人の定義になってしまうのである。
では生存の保証が平和の定義なのかと言えば、あたりまえすぎるうえ、平和のためならそれも必要ないという定義もあるのだ(たとえば、総統のためなら死んでいいとか)。
歴史の一つの見解として、ことなる平和の定義の衝突が戦争を引き起こすといえまいか。極言するならば、戦争の原因とは平和と言い得ないだろうか。
歴史を見ると平和と名のつく時代はごく少ない。それでも歴史上では平和と名のつく時代がいくつかある。有名なところではパクス・ロマーナが挙げられるだろう。そう言った平和な時代を検証することは−そもそもそれが本当に万人にとって平和に値するものだったのかを検証するだけでも−戦争・経済の摩擦・文化の衝突・民族の紛争の根源を見つめることになるのではないかと思う。
だから、誰による、誰のための、誰の平和(パクス・サムワーナ)。
この小冊子は、歴史上の平和をいくつか取り上げて、討論・研究したものである。
その題材は
1.パクス・ロマーナ(ローマによる平和)
古代ローマ帝国の最も平和だった時代。
2.パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)
第2次世界大戦後のアメリカ合衆国による世界秩庁の時代。
3.パクス・プレジャパーナ(前時代の日本の平和)
現代をのぞいた、日本の歴史で最も平和だったと思われる平安時代。
4.パクス・ジャパーナ(日本による平和)
ベトナム戦争以降から現代までの日本。いわゆるバブル時代。ジャパンマネーによる経済秩序。
これらの4つの題材を、2つの視点からそれぞれ検証してみた。2つの班に別れて、同様の題材を違う視点から研究したのである。
A.帝国主義からみたパクス検証班
B.被害者から見たパクス検証班
Aは支配システム・経済システムから平和を検証する。
Bは被害者の状況から平和を検証する。
端的に感情的にロマンチックにみるなら、Aは加害者を、Bは被害者をそれぞれ代弁し、この小冊子はその主張同士の対決の場であると言える。でもちょっと大げさ。
先ほどの比喩をもう一度使うなら、帝国主義班は生水の消毒の方法を研究する。それによって病原菌が死滅することに重点を置く。
被害者班はその消毒がいかに人体に有害であるか(例えば塩素の発ガン性)に重点を置く。
こう言った二つの切り口から平和を見ているのである。
歴史上で平和を謳歌していた人達が、自分たちの平和が永遠に続くと無邪気に思っていたことを、現代人は嗤う。
いずれは日本人も誰かに嗤われるのだろうか。いや、もう嗤われているのか。
せめて嗤われないように歴史を学びたい。
1995/10/23 いくま
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