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PAX PREJAPANA 〜FREE〜
武士団の形成

byいなちん

  武士団とは?
 武士団とは、広義には武士の集団をさすが、厳密にいえば古代末期より中世初期にかけて成立した武士の同族結合を中核とする戦闘組織をいう。武士の発生期には、村落における豪族が血縁的に結ばれた一族の家々と強固に団結しており、その同族に従う郎党・所従をも含めて一個の武士団を構成する。即ち村落における大名主が己の名田を経営すると共に武力を組織する必要があり、一族子弟の他に弱小名主をも、自己の統率下に入れる。そして、ここに生まれた小武士団のいくつかを更に有力な豪族が統合し、大武士団を組織する。その統合は時代が下るにつれて進行し、鎌倉初期に現れる地方武士団のうちには、かなり大きく成長したものもある。武士団内部にあって一族の長たる惣領家が戦闘の際の指揮権の関係から次第に強力な立場を作り上げていったと見るのが一般的である。そして、室町時代以後は一般的な庶子家は、家臣団の中に繰り入れられていく。しかし、鎌倉時代の武士団には、その傾向とは逆に、一族の庶子家の独立性が高まりながらも分離することなく、一個の武士団として共和的結合を保っていたものもある。

  武士は、三種類に分類される。
1.荘園領主級武士 2.荘官級武士 3.郎党所従級武士(奥田氏説)
1.豪族的領主層 2.地頭的領主層 3.田堵名主的地主層(石母田氏説)
 私が思ったことは、石母田氏の説の、2.の地頭的領主層についてである。私には、地頭的領主層には二種類のものがあったように思われてならない。
  I.国衛の在庁官人などが、その権力を利用して在地領主化したもの
II.下司職・公文職であったものが荘官的領主へと発展したもの
   の二種類である。
 しかし、いきなりそのことを論じることは避けたい。日本史を学んだ者でもそうたやすく理解できるものではないからである。だから、発生したころの武士は村落でどのような生活を送っていたかというところから論じる。まず、初期の武士として名を挙げたのは誰だろうか。私は平将門ではないかと思う。一般的に、将門は伯父国香に取られた父の遺領を取り返すべく、荒れ地を自ら開拓して、ついにその力で伯父国香を倒したように描かれているが、現実は、そこらの農民や流民を駆り集めて指揮ぐらいはとったかも知れないが、開墾作業に従事していたわけではない。なぜなら、武士というものは、少なくとも何町歩かの土地と、何人かの農民と、私有している地主である。特に、将門などは初期段階の武士団とはいえ、そこそこの大規模経営の大地主階級である。さもなくば、軍を率いて広く関東の荒野を駆けることは不可能となる。すなわち、農民のほとんどは田畑を耕作し、名主や小名主などの自ら田畑を耕作しないものを中心に、大名主や領主は小武士団を形成していった。よって、武士は小人数の耕作で大量に作物が得られる関東平野や筑後平野、濃尾平野、大和盆地、大阪平野に集中して現れる。その他、西国にみられる武士で多いのは海賊的武士団である。といっても、これは私の推量である。しかし、西国には実際、田畑がほとんどないところに起こった武士団が多く、そのほとんどは海岸に面し近くに良港を得ている。河内源氏も大和川沿いの道明寺(坪井)に本拠を置き、大和川の水運を利用し奈良より難波津に向かう墨・木材・米などの物品に通過税を課していたものと思われる。しかし、それは河内源氏そのものの収入ではなかったかもしれないが、地域の小名主などは潤ったかもしれず、多くの名主層の武士を動員できたことに源氏の強さがあったと思われる。他に西国の武士団としては、松浦党や河野氏や田口氏が有力であるが、彼らはいずれも後に水軍を組織しいくようになり、朝鮮や中国との貿易や交易船の通行税を中心にその武士団を拡大していったものと思われる。
 さて、農村部に地盤をもっていた東国武士団は、どういうふうに私領を経営してきたのかということについて論じたい。東国武士達は、荘園領主とは異なり、農村に居をかまえていた在地領主である。彼らは他から侵害されない私領を持ち、彼等自身名主でありながら、他の名主を支配するという領主的な性格を持っていたのである。
 では、在地領主たちはどのようにして成長して、武士として活躍できるようになっていたのだろうか?
 私の考えでは、平安時代も後期になると、国衛や荘園領主自身が開墾をあまり活発にしなくなっていき、それにかわるように、地元の富農や豪族が積極的に開墾を進め始めて、広大な領地を持つようになり、それを朝廷が黙認し、百姓名を買い取ったり、集積したりすることや、空閑地を囲い込んだりすることについても黙認していたように思われる。また、朝廷は荒廃した公田の復旧や加作を奨励し、官物の一部免除、雑事、雑役の免除の特典を与えていた。そういう状況で、開墾に積極的な関心を示した者たちは、国衛の在庁官人や郡司・郷司などの地方における官僚であった。彼らは、私領を拡大するため、国衛から特別の便宜を得ていたものと思われる。きっと、この過程、在庁官人たちは、自らを保司職や名主職を得るに至ったのだろう。
<1> 郡司たちもかつては国司に対抗する非律令的な立場から、平安時代の中頃からは、徐々に国司と結びついた立場へと変わっていき、在庁官人を兼ねて、国司の土着・豪族化に手を貸し、自らも、その有力豪族として在地領主となり、郡司の特権を利用して、私領の拡大につとめたように思われる。
<2> 1,では、国司とともにその力を借りて、(時代劇の悪徳商人<大黒屋・西海屋ど>と悪代官<次席家老や勘定奉行・寺社奉行・側用人も可>の関係とみる)勢力を伸ばしたが、もっと一般的な勢力拡大方法<教科書的なもの>としては、国司に対抗するため、国司を抑え得る中央権門や大勢力をほこる寺社に私領を寄進して、これを本所として仰ぐというものもあった。しかし、どの方法も、いずれか一つを選択していたわけではない。なぜなら、国司と結びついて、律令制下の下級官僚として、その地位を利用して、私領を否認される恐れがあり、そのため、官人は国司のそのような行為を防ぐため中央権門に結びついて保険としたものと私は考える。官人から在地領主になった彼らは勢力拡大に国衛の権力を利用し、その勢力を維持するのに中央権門に寄進し、双方を兼ねたものが多いように思う。要するに、二種類の層を兼ねていたものもいたと考えるべきだろう。
[在地領主の勢力拡大方法]
1,国家公権と豊富な資力を利用し領内の中小名主に種子農肥料を貸与する。
2,用水路や溜め池を構築し、広大な範囲の水利権を掌握する。
3,山林・原野の囲い込みをして肥料源の独占。
   畿内地方(中央)の在地領主の特色
1,潅漑施設ないし、用水源をもつことによって、在地に強い支配力をもったと言うことではないだろうかと思う。畿内における名(律令制崩壊にともない農民の耕作地に対する私有権の強化に対して成立した土地制度)には特色があり、耕作地だけでなく、山林・原野・未墾地などまで荘園領主の直接の支配下であり、名とは切り離されていたため、在地領主は、水利の権利の掌握によって、その権力を構成していたものと思われる。
2,朝廷・公卿・諸寮諸司及び、寺社の供御人や神人、あるいは、武者・含人などの身分を取得し、それに種々の奉仕をなすことによって、自己の地位の安定をはかっているようである。畿内のように荘園領主の所領が錯綜するところでは、権門勢力と直接結びつくことは、その身分の保証に何よりも大切なことであったものと推測する。
3,国衛在庁の諸職と荘園の諸職とを一身にかけもつことが他の地方より多いように思われるところから、かけもつ必要があったように思うが理由はつまびらかにできなかった。
   関東地方(辺境)の在地領主の特色
 中央よりはるかにはなれた辺境の地である関東地方は、荘園領主の力も余り及ばず、国衛の権力が比較的強かったため、あるいは荘園の公文・下司は大きな所領を持ち、国衛の在庁官人は、郡司や郷司の身分を合わせ持ち、その両方の権力をもって私領の拡大につとめたと思われる。また国衛の機構や荘園機構を利用しながらも、畿内の在地領主よりもはるかに規模の大きな独立性の強い領主として勢威をふるったようにみえる。
          [まとめ<武士団の東西>]
 幾多の合戦を検分すると判ることだが、東国の武士団は合戦で場を選び、西国の武士団は時を選ぶということである。また、戦う場所も東国は山野が多いのに対し、西国は海戦が多いという点である。その他にも差異があらわれるのは支配体制である。東国は開発領主が郷や村を包括して領しているのに、西国は開発所領の他に幾つかの諸職をおびている点である。
      [まとめ<PAX PREJAPANAと武士団>]
 今回のレポートに対し、武士団とPAXの被害者ってどういう結びつきがあるの?という質問があったらしいのでそれについて判らない人のためにまとめます。平安時代は平和だったのか?という質問がなされることが多いようですが、実際、平和時代の一般大衆にとっては平和どころではありません。初期は戦いはありません。律令制がそこそこ機能し虐げられている大衆には戦力はなく、確かに軍事力を朝廷が持たなくても治まっていましたが、中期になると中央でうだつの揚がらない受領下級貴族が地方に下向し、個々では戦力にならない大衆を組織化していくうち武士団という戦闘組織が形成し、後期になると武士団は中国や西洋諸国の場合と違い反乱ではなく、中央権門貴族と手を結ぶという、いかにも日本的なやり方で勢力を広げ中央進出を果たし、末期には、ついに西国に政権(平氏政権)を打ち建てました。所謂、下克上と同じことです。その間の日本国内は決して平和ではありません。また、政権をとるまでのこの時代、武士団は支配者ではなく落後者や虐げられた者のが結束して今の境遇から脱出するための共同体であったと私は結論づけました。故に武士団の構成員も被害者と考えました。
                       −END−
参考文献

「武士団と村落」  豊田 武 (吉川弘文館)
「日本史用語集」  全国歴史教育研究協議会編 (山川出版社)
大系「日本の歴史5 鎌倉と京」  五味文彦 (小学館)

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