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PAX ROMANA*フリーテーマ
ローマ帝国下のキリスト教徒
〜犠牲者から支配者へ
by亀さん
*はじめに
「ローマの平和」を支えていたのはローマ自由市民以外の人々によるおびただしい数の犠牲者であることは本研究の正編でとくと明らかにされた。
それでは、犠牲者たちはどんな人たちだったのか?「野蛮国」と蔑まれた周辺国の人々、帝国内の奴隷(特に下層)たち、ユダヤ人……そしてその代表的な犠牲者といえば第一にキリスト教徒が連想されよう。しかしながら、この犠牲者たちは激しい迫害の時代を根強く生き残り、最終的にはローマの国教として認められるまでになるのである。
今や世界最大とも言える勢力を持つこの不思議な宗教・キリスト教が、その発展をみるまでの最初で最後の大きな試練の時代をどのように乗り越えたのだろうか?
*初期のキリスト教
この宗教は紀元30年ごろ、パレスティナに現れたイエスなる人物によって興る。この人物については釈尊のそれ以上によく分からない部分が多い。彼の伝道の記録を記してあることになっている新約聖書を見ても、かの有名な馬小屋で生まれた記述の後は、全くといっていいほど触れられていない。たいてい聖書は馬小屋の次は初めて伝道に出た30歳のころからゴルゴダの丘で処刑されるまでの3年間を長々と述ベているようなものである。
三大宗教のうち2つを生み出したパレスティナの気候は厳しい。自然条件の厳しい地域で生まれた宗教には寛容性がなく、ほとんどが唯一絶対の一神のみを信仰する一神教である(逆に気候の穏やかなアジアで生まれた宗教は多神教である。仏教の寛容さは涙が出るほどだ)。キリスト教もそのご多分に漏れず実に融通のきかない一面も持つ。
その教義の中心は階級や貧富の差を超えた広い愛であり、父なる神を信ずるものが神の国に入ることができると説く。裏を返せば、神以外のいかなる者も信じてはならない。さらに、偶像崇拝を拝んではならない、形式にこだわるより誠意で人に施せ、等々。これは唯一の神(ヤーヴェ)のみを信じよとするユダヤ教を母胎としつつも、その当時、形式や戒律にとらわれるあまり堕落していたユダヤ教を激しく非難するものでもあった。同時に、多神を拝し皇帝崇拝を行うローマ帝国とも相容れないものであった。
*帝国内への広がり
釈尊がその生涯の大半を伝道に費やしたのとは対照的に、イエスの伝道はわずかに3年であったが、その教えは12人の使徒を始め、残された数多くの弟子によって瞬く間にローマ帝国中に広がる。その拡大は、まずシリア、小アジア、ギリシアから首都ローマへ、さらにアルメニア、エジプトを含めたギリシア語圏、その後ラテン語圏の西方世界へ、イリリア、イタリアに次いで2世紀のうちには南ガリア、北アフリカ、イスパニアに達し、180年ごろにはローマ帝国の地中海沿岸のすべての属州に、3世紀にはペルシア帝国の領土内に伝わり、4世紀始めごろにはブリタニアやゲルマニア、さらにスキタイ人やインドにも伝道が行われたという。
*追害の始まり
キリスト教は誕生と時を同じくして迫害の対象となった。ローマにとって目障りな存在であったことに加え、目の敵にしたユダヤ教の律法学者たちによる政治工作が功を奏した。聖書によればローマへイエスを売ったのもこの連中であるらしい。
悪名高いネロを始め、代々の為政者たちはほぼ300年間にわたり、政治上の失策をキリスト教徒のせいにしたばかりか、疫病、インフレ、さらには蛮族の侵入まで、ありとあらゆる災厄の罪を着せた。ネロが64年に起こったローマの大火を彼らの放火によるものとしたことは有名である。こうした迫害はローマ市民にも大いに喜ばれたようである。こうした民衆の感情は主に誤解と偏見によって形成され、キリスト教徒がローマ市民と親交や社交を共にしないこともあって、彼らは陰謀を企み、魔術を行い、人肉を食し、近親姦に耽っているというような噂がまことしやかに信じられていた。
こうした中、当初はなすりつけられた罪によって迫害されていたのが、次第にキリスト教徒であること自体が国事犯的な扱いを受けるようになっていく。信仰を捨てなければ容赦なく処罰が下った。そして、迫害の激化と共に、迫害にあっても信仰を守り通して死に、その結果神の国に入ることができる−いわゆる殉教という行為も日立つようになる。新約聖書の「ヨハネ黙示録」では、ローマ帝国によってかなりの数の信者が殉教の死を遂げると共に、国家権力を乱用して悪魔となった帝国が神の審判に滅亡を定められた、というくだりの中で、帝国を非難している。
*五賢帝のころ
五人の優れた皇帝たち(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の時代、すなわちローマの平和の時代のころになると、キリスト教徒であることが処罰の対象となることが明言化される。そして裁判ではもっぱら信仰を捨てるよう説得が試みられた。つまり、「キリスト教徒である」という状態さえ放棄すれば、罪は解消されるのである。もっとも、信仰を捨てるようなものはまずいなかった。彼らはみな頑固に信仰を固持しつづけて、競技場でライオンに食われたのである。
明言化によって、ありもせぬ罪をなすりつけたり、キリスト教徒であるからといって裁判権を与えなかったりといった不当な扱いをしてはならないことになった。賢帝と呼ばれた五人の皇帝の時代には少なくとも皇帝は彼らにできるだけ穏やかに改宗させることをもくろんでいたと思われる。しかしながら、この時期に迫害が無かったわけではなく、むしろ激化する。上の意向は必ずしも浸透していなかったからで相変わらず一般の民衆からみれば憎悪と偏見の的であったようだ。
こうした迫害の中で、しかし、キリスト教徒は帝国の下層部分を中心として次第に帝国内に浸透していく。
*帝国衰退のころ
ローマの平和の終焉と共にローマ帝国そのものも衰退していったころ、相反するようにキリスト教の発展は目覚ましく、信者の層も次第に上流階級へと広がっていった。この状態に危惧を抱き、デキウス、ガリエヌス、ディオクレティアヌスといった皇帝たちが幾度か帝国を古き良き時代に戻そうと古い時代の多神教を復興させようとしたりして、そのたびにキリスト教と衝突し、大きな迫害を行った。そのたびに多数の殉教者が出されはしたが、このころになると迫害しても迫害しても根強く信仰を固持するキリスト教徒に対して、ローマ帝国それ自体の力の方が次第に及ばないようになってくる。内部から崩壊を始め分裂の危機にあり、四分統治制の敷かれたローマが、帝国中にはびこったキリスト教徒と帝位争いをしながら攻防を繰り広げるのはもはや不可能であった。そしてついに311年、300年以上にわたる迫害の歴史は迫害中止の勅令によって終わりを告げる。ミラノ勅令によってキリスト教徒がローマにおいて公認されるのはそれからまもなくのことである。こうしてキリスト教はローマにおける唯一の公認宗教となり、それ以外の宗教の信仰は禁じられたのである。このころにはすでに、信者層は皇后や皇女にまで至っていた。
*それから
キリスト教を公認し、国教としたコンスタンティヌス帝は帝国の存続のためにキリスト教の利用を図ったわけであった。帝国の存続は成功しなかったが、皇帝とキリスト教の結びつきは強まり、政治的にも力を持つようになる。最後の迫害から80年もすると、巨大組織化した教会が、教祖イエスを神の子と認める教義のみを正統とし、それ以外の教義を唱える異端派を逆に迫害するようにさえなった。
*おわりに〜対極の道をたどったユダヤ教
なぜキリスト教はこれほどに根強く生き残ったのか。それは結局ローマ帝国という国家の抱える矛盾にあったのではないか。ローマの平和という時期はあれども、それは多くの下層市民や奴隷、周辺の抑圧された被征服民族を土台としてなりたったうわべだけの平和にすぎない。現世に何も希望を見いだせないこれらの人々によって、神を信じて現世の苦痛に耐えれば死んでも神の国で幸福になれるというキリスト教の教えは、彼らに希望を与えるものだった。それだからこそ、迫害にも屈することなく、殉教するようなことになっても、幸福な来世を夢見て嬉々としてライオンに食われたのだろう。いわば、ローマヘの不満を迫害への抵抗という影で見せ付けたようなものではなかっただろうか。そしてその力は、間接的であるにせよ、ローマを滅亡へ導き、世界最大の宗教といわれるまでの発展をもたらした。
それに対し、ついにローマ帝国を支配し組織化するに至ったキリスト教を、目の敵にしつづけたユダヤ教はキリスト教の発展と相反するようにローマの力に屈し、急速にその勢力を縮小していく。もともと彼らの国家であったパレスティナにさえ戻ることを禁じられた彼らは、流浪の民となり、長い放浪の旅に出た……彼らは20世紀の今日に至るまで、世界各地に散らばり、いまなお安住の地を得ない。祖国パレスティナでさえ今だに彼らをすんなりと受け入れられる状態にはなっていないのである。
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