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征服戦争の被害者
byトジ
東国を巡視して戻ってきた景行天皇の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)が「東夷の中、日高見の国有り。其の国人、男女並びに椎結文身し人と為り勇悍、是を蝦夷と曰う。」と報告した。景行天皇は皇子・倭建(やまとたける)に蝦夷征討を命じ、それ以来、大和朝廷の本州・九州における夷人征服戦争が始まった。その結果、京師は夷人に侵略されることのない平和な地となったが、それに伴って、夷人と呼ばれる人々は、大和民族の平和の被害者となってしまった。ここでは主に、蝦夷・隼人とはなにかを考え、そこから平和とはどうあるべきかを皆さんと一緒に考えていこうと思う。
1,蝦夷とは
ひょっとして、皆さんの中には、蝦夷=アイヌと思っている人もいるかもしれないが、ここでは、古代、関東・東北地方にいた人々とおもってほしい。古代の人々は、蝦夷の人々について、いろいろなことをいっていた。例えば、毛人であるとか、小人であるとか、長髭人であるとか。古代、蝦夷の領土の南限は、常陸・上野・下野・越のラインだった。関東地方は緩衝地帯であり、大和民族もいたし、蝦夷もいた。蝦夷の領域内には、国家が存在していた。特に越の国は、当時出雲の国と国交があり、朝廷をおびやかしていた。
朝廷はこの頃、朝鮮半島にも手を伸ばしていた。倭の五王の頃、武は南朝宋に、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭王に叙任された。こんなことをされては、他の朝鮮諸国にとっては、不愉快この上ない。高句麗は大和朝廷に対抗するために越の国に使いを出していたのだ。本来朝廷と外交をするときば筑紫から来ることになっていたのに、越にいつも漂着していた。しかし、高句麗側は、越の国王・道君(みちのうし)が天皇でないことに気づき、手を切った。
このように、それなりの国家が存在したが、所詮蝦夷は部落国家共同体で、村落ごとに神が存在し、狩猟中心の生活をしていたので、いざ戦争となると、個人個人が屈強な騎馬兵でも、軍隊自体にまとまりがなく、なによりも長期戦ができず、戦争に敗れ、じりじりと後退し、最後は本州を追われ、北海道に逃れたのである。
2,蝦夷の人々の待遇 蝦夷に朝廷の軍隊が何度も征討に来て、そのたびに蝦夷側の人々は捕虜となってしまった。そのような人々はどのように扱われていたのだろうか。彼らの屈強な肉体は軍隊に持ってこいだった。彼らは各地につれていかれ、佐伯部(さえきべ)とよばれる職業軍事集団となった。あるものは九州に防人(さきもり)としてつれていかれたのではと推測する。彼らはそれぞれの地に神社を建てたといわれている。例えば、利雁神社−大阪、刀何理神社−石川(両方とも「トカリ」とよむ)、都我利(つかり)神社−島根の「トカリ」、「ツカリ」はアイヌ語でアザラシであり、アザラシをシンボルとしている種族が、それが生息している北海道に対してこちら側を「ツカル」といい、後の津軽となった。このように、佐伯部が後の子孫のために地名を残したのだろう。
3,熊襲(隼人)とは
「日本書紀」で夷人といわれているのは、毛人・隼人・肥人(ひびと)・阿麻弥人であるが、毛人はともかくとして、残りの三種はただ、その存在についてよく知られていなかったというだけで夷人とされてしまった。熊襲とは、北九州の人が南九州の人に対していっていたもので、「熊」は「強く健き」という意味で、「襲」は「背」であり、九州山地の背に住んでいる人々ということだろう。熊襲については、景行天皇・倭建・仲哀天皇・神功皇后の時代に、討伐をしたという記録しか残っていないが、隼人については、いろいろな記録が残っている。特に天武天皇・持統天皇の時代に多い。熊襲と隼人の違いは、朝廷に反抗的なのが熊襲で、友好的なのが隼人であるといわれている。隼人は、薩摩隼人・大隅隼人・日向隼人・阿多隼人の四種に分けられるが、大隅隼人・日向隼人は、早い時期に朝廷に降った。
肥人は、主に肥後国に住んでいた人々であり、阿麻弥人は、南西諸島の人々である。
この時代は、各地に豪族が存在し、九州の地もしかりだった。薩摩君・阿多君・曾君・諸県君・衣君(えのきみ)・大隅直などが南九州に存在した。南九州の豪族の特徴は、女性の酋長の存在である。彼女達は呪術の能力をもち、巫女のような存在であった。
4,隼人に対する待遇
古代の朝廷の熊襲征討によって捕虜となった人々は、京師につれていかれて宮城のガードマンとなった。その後の隼人征討は太宰府の管轄となった。朝廷はまず南西諸島から手をつけた。それから南九州の服属ヘといった。しかしこの地には大きな問題があった。班田収授ができなかったのである。この地はシラス台地なのである。米が中心の経済において米が育たないというのは辛い問題である。ちなみに畿内に移住させられた隼人を畿内隼人という。壬申の乱以降になると、畿内隼人の使い道が広がっていった。文献によると、朝廷の庭で大隅・阿多の両隼人が相撲をとって大隅隼人が勝ったと書かれている。朝貢として京師につれていかれた他の隼人は次のような仕事をした。
A,今来(いまき)隼人…大儀・大嘗会・行幸などで吠声を発する
B,作手隼人…竹器の製作・荏油から絹を織る
C,歌舞隼人…管弦・歌・舞など
D,大衣(おおきぬ)…隼人の統率者
E,番上隼人…大衣の補佐
ちなみに大衣になれるのは、大隅隼人・阿多隼人の代表的家柄の者一名ずつであった。彼らの中には八色の姓(やくさのかばね)の中の忌寸(いみき)を与えられた者もいた。しかしこの時代の畿内隼人の大部分は屯倉のガードマンであった。朝廷には彼ら畿内隼人に対して隼人司が存在した。このような役所は蝦夷には存在しなかった。このように朝廷は隼人に大きな関心を持っていたことが分かる。この役所の任務(効果)をあげると次ぎのようである。
A,畿内隼人の統轄
B,軍事的任務
C,天皇の権威高揚
畿内隼人すべてにA〜Eまでの任務を一年交替で義務づけられていたが、家柄や特殊技能などで、おのずから任務が限定されたのである。ちなみに朝貢で畿内につれてこられた隼人は、6年で帰ることができた。この制度は716年5月〜801年6月までつづいた。
5,坂上田村麻呂の蝦夷征討
大化の改新以後、中央集権化を進めていくのに朝廷は農業生産の拡大のためにも大和民族の農民を東北地方のフロンティアとして蝦夷の地に移住させ、フロンティアラインを北上させようと考えていた。しかしそこに住む人々のことも考えなければならない。そこで斉明天皇は阿倍比羅夫(あべのひらふ)に658年に粛慎(みしはせ)討伐の命を下した。粛慎はツングース系の北海道にいた種族である。
それを皮切りにより積極的な東北経営をはじめた。時は過ぎ、737年に大野東人(おおのあずまびと)が出羽で蝦夷を討伐し、出羽から陸奥へのラインがつながり蝦夷に対するプレッシャーをより強めていった。
しかし蝦夷は774年に桃生(ものう)の城柵を攻撃し、駐屯兵は支えきれず、朝廷は坂東諸国に兵力の動員を命じた。そして、遂に788年、朝廷は東海・東山道・坂東諸国の歩騎兵5万3千で蝦夷制圧に向かわせた。しかし激戦の末、敗退してしまい、征夷大将軍紀古佐美以下、前線指揮官は処罰された(第1回蝦夷征討)。次に791年、大伴宿禰弟麻呂を征夷大使とし、坂上田村麻呂を征夷副使として、蝦夷征討郡を組織した。彼らはなんとか勝利して、坂上田村麻呂は797年、征夷大将軍に任命された(第2回蝦夷征討)。やられた蝦夷も黙って引っ込まず、大墓公阿弖流為(おおつかのきみあてるい)・盤具公母礼(ばんぐのきみむれ)が挙兵し、駿河まで攻めてきた。坂上田村麻呂も兵を出し、彼らを制圧した(第3回蝦夷征討)。これ以降、蝦夷は本州ではおとなしくなった。
6,その後の蝦夷
その後の蝦夷の人々の中には、大和民族に同化していく者もあった。彼らは俘囚と呼ばれた。そして時が流れ、平安末期になり、東北地方にも武士団が形成され、前九年の役、後三年の役とよばれる奥州十二年戦争へとつづくのである。この後、奥州藤原氏の時代となるが、源頼朝によって滅ぼされ、この時に本州における蝦夷征討が完了したといっていいだろう。
奥州安倍、清原、藤原氏というのは、蝦夷または俘囚にとってどういう存在であったかというと、基本的には、俘囚の酋長として朝廷との仲介者となり、勢力を拡大していったのである。
7,覓国使剽劫事件(べきこくしひょうきょうじけん)“700年”
朝廷は律令国家体制確立の一環として、諸政策の適用を目指した政府が、国土の画定をはかって、南島へ政府の調査団を派遣したものであろう。また、その目的と関連して、九州南部の国の分割も関心事となっていたとみられる。すなわち、後の薩摩・多禰・大隅の各国の成立は、この時の覓国使の任務と無関係ではなかったであろう。
このような目的をもった覓国使の派遣に対して、巫女的女酋軍団とみられる薩末比売・久売・波豆などや衣君、あるいは肝衝(きもつき)などの薩摩地方の諸豪族、そして肥人がおどかしたというのである。この妨害行為に対する処罰を朝廷は筑紫惣領(太宰府の前身)に命じた。最終的には、政府の南島および南部九州への国政施行の具体策を練って、702年に薩摩・多禰、713年に大隅の国政施行にふみきった。薩摩では激しい抵抗があったが、朝廷は太宰府に梓弓を1520張を配置していた。この頃の薩摩の状況は、南部の半島部を地盤としていた阿多君を中心とした阿多隼人が畿内に移住や朝貢をさせられたりして、勢力が衰退していき、薩摩君などの勢力が伸長していったのである。そして他の豪族は、薩摩君と同盟を結び対立関係を避けていたが為にこのような事件に巻き込まれたのであろう。
参考文献:エミシ研究 −蝦夷史伝とアイヌ伝説− 田中勝也著 新泉社
熊襲・隼人の社会史研究 中村明蔵著 名著出版
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