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PAX PREJAPANA

by大僧正
  <はじめに>                            日本で平和だった時代というといつを思い浮かべるだろうか。そう考えるとイメージとして、奈良・平安時代のあたりを思い浮かべるのではないだろうか。ということでここでは、中央集権的な古典帝国という性格を著しくあらわしている8世紀から9世紀にかけての時代を中心として、みていこうと思う。

[1] 律令による統治
 大化の改新以後、唐にならった官僚制的な中央集権国家が成立していく。646年の改新の詔では律令国家の基本方針が発表され、公地公民制などが打ち出された。そして、701年の大宝律令によって中央集権国家の形はほぼ整ったのである。
 まず、中央の統治組織をみてみると、神事を担当する神祗官、政務を担当する太政官の二官があり、さらに太政官のもとには八つの省が置かれ政務を分担していた。これらは弾正台(風俗取り締まり、官吏の監察)、五衛府(宮城警備)などと合わせて「二官八省一台五衛府」と呼ばれている。次に、地方をみてみよう。このころ全国は畿内・七道の行政区に分けられ、その下に国・郡・里が設けられており、それぞれ国司・郡司・里長がおかれていた。このうち国司は中央から貴族が交代で派遣されており、このことからも地方は中央の下に置かれていたことが分かる。中国の郡県制のようなものである。

[2] 土地制度と農民・貴族
 政府は班田収授法によって人民(農民)に口分田を与え(死んだら国に返す)、それを徴税の対象とした。農民は班田収授法によって最低限の生活を保障されたが、租・庸・調などの負担で生活は苦しかったようである。
また、役人(貴族)には位・官職に応じて位田・職田などが与えられ、その財力は増していった。
 ところが、奈良時代になってくると人口の増加などにより口分田が不足してくる。政府はこれに対応するため、723年に三世一身法、743年には墾田永年私財法を発布したが、これらによって有力貴族や寺社の私有地化が進み、後には荘園となるのである。このようにして公地公民制は揺らいでいくのであった。

[3] 経済・流通
 平城京・平安京など大規模な都城が造営されると、ローマのように都を中心に道路が整備され、各地の特産物が都に運ばれた。都には官営の東市・西市が設けられ、主に物々交換が行われた。
 政府は708年、銅が発見されると、日本初の貨幣である和同開珎を鋳造し、その後も958年まで12種類の銅銭(皇朝十二銭)を鋳造したが、物々交換が主流であったためあまり流通しなかった。

[4] 領域の拡大
 中央集権国家が確立してくると、政府は東北地方に住む蝦夷(えみし)や九州南部に住む隼人(はやと)を服属させていった。特に蝦夷については7世紀から9世紀後半までにわたって何度も征討し、そのほとんどを服属させている。その主なものとしては、660年頃の阿倍比羅夫(あべのひらふ)による征討、800年前後の征夷大将軍坂上田村麻呂による征討などがある。

[5] 政府(朝廷)内部の争い
 この時代、政府内部はどうだったのだろうか。天智天皇の死後、その後継をめぐって壬申の乱が起きたが、その後は乱もなかったようである。ところで、天皇中心の国家を目指す時に邪魔な者は誰であろうか。皇族あるいは王族である。そこで、天皇や皇后は自分や自分の子(皇太子)たちをおびやかす皇族たちに謀反の罪をきせ、粛清していったのである。そのため表面的には乱もなく平和なようにみえるのであろう。これは中国やローマにおいても同じ(というより、こちらの方が本家)で、PAX ROMENAと呼ばれている時期でもよく起こっていることである。だからこの時代も平和といっていいのだろうか。 729年の長屋王の変以後、今度は貴族も巻き込んだ争いが起きてくる。しかし、いずれの反乱もすぐに鎮圧されているのである。これについては[7]で述べることにしたい。

[6] 軍事制度
 律令国家には、中央に衛府、諸国には軍団という軍事組織が置かれていた。軍団は徴兵(成年男子の約1/3)された者たちが所属する所で、その一部は宮城や京内を警備する衛士となり、あるいは九州北部を守る防人となった。このように、形式的には軍備が整えられていたといえる。
 ところが実情をみてみると何ともお粗末であることが分かるのである。まず軍団についてであるが、軍団は国司の管轄に置かれ、郡司と同等かそれ以下に扱われており、そのトップである軍毅(ぐんき)は郡司のナンバー3と同じ地位だったのである。今で言えば市役所の課長ぐらいのようなものであろう。そして衛府であるがこれは軍というよりは宮城警備隊のようなものであり、更にその幹部の位は低く、五つの衛府(時代によって八つになったり六つになったりしている)に分割され、騎兵隊もなかったため戦闘などはできない状態であった。他に中央には軍事関係の省として兵部省があり、その長官である兵部卿の地位は高いものであったが、兵部省は軍事関係の事務局的なものであったため、軍を持っているわけではなかった。また、中央である畿内や京内の住民は地方の住民より裕福であったためか、銭を納めて兵役を免れており、軍団の数は地方よりも相当少なかったようである。
 こうしてみると平城京あるいは平安京は誰が守っていたのだろうか。誰も守っていないのである。更に前述したように畿内には軍団もほとんどないから首都は無防備であったといえる。それなのに平城京も平安京も攻められていない。世界史的にみるとあきれはてたものである。
 そしてもう一つ分かることは天皇・国家直属の軍隊がないということである。国軍の主力は市役所の課長率いる軍団であった。ただし、反乱や蝦夷の征討の際には軍団が各国から集められ、天皇から刀を授けられた臨時の将軍がそれらの軍団を率いて行くというシステムとなっていた。これで間に合っていたのだから驚きである。

[7] 軍事制度と反乱
 当然前述のような軍事組織を利用して反乱を起こした者がいるわけであるが、ここではその二つの乱についてみてみよう。まず、740年の藤原広嗣の乱であるが、これは藤原氏の勢いを盛り返そうとした広嗣(ひろつぐ)が、聖武天皇の信任を得ていた玄ボウ(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)の追放を求めて九州で乱を起こしたというものであり、彼は西海道(九州)諸国の軍毅を手なずけていたが、天皇の派遣した軍隊が攻めてくるとたちまち敗れてしまう。敗因は色々あるだろうが、その一つとして、彼が朝敵(賊軍)となったために彼に従っていた軍毅たちや軍団が朝廷側に寝返っていったということがあると思うのである。次に、764年の藤原仲麻呂(恵美押勝/えみのおしかつ)の乱である。これは孝謙上皇に信任され勢力を拡大していく道鏡を仲麻呂が倒そうとして起こしたもので、そのために以前から仲麻呂は衛府を勢力下に置いていたのだが、天皇を連れ出すことができなかったため衛府の兵士たちに逃げられ、敗因の一つとなったのである。 
 このように地方や中央の軍事組織を取り込んだ反乱はいずれも失敗に終わった。これは衛府や軍団が天皇に対してはほとんど無力であったことを表しているといえる。

[8] おわりに
 以上のように平和だといわれている当時の実態をみてきたわけだが、「平和」だったのだろうか、そうではなかったのだろうか。もし「平和」なのだとしたら軍事面でみてきた軍事色の薄さなのだろうか、それとも天皇の存在なのだろうか、あるいは他に理由があるのだろうか。私にはこの時代が事勿れ主義的な「日本の平和」の原点だという気がするのである。

   <参考文献> 律令国家の展開 角田文衛 塙書房
          古代国家と王権 長山泰孝 吉川弘文館

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