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時 代 背 景
by大僧正
聖徳太子の死後、蘇我氏の勢力が台頭し、権力を自ら手に集中させようとした。645年、中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした。大化の改新である。翌年、彼は改新の詔をだし、これにそって改革を進め、律令による中央集権国家が形成された。また、朝鮮半島では、新羅が統一にのりだし、百済が日本に助けを求めて使者を遣わし、それに応じて、朝廷は朝鮮半島に出兵した。しかし、日本軍は白村江の戦い(663)で敗れ朝鮮半島での勢力を失って行った。敗戦後、皇子は667年、都を近江に移し、翌年には即位し天智天皇となった。天智天皇は、さらなる改新政治を推し進め、近江令や日本初の戸籍である庚午年籍をつくった。その後の天皇たちは、飛鳥浄御原令や大宝律令(701)などを制定していき律令政治の完成に努めた。律令の律とは、現在で言うところの刑法であり、令とは、行政組織・租税などの国家統制に必要な規定を載せている。律令政治のもう一つの柱である班田収授法は、6才以上の男女に口分田を与え農民の生活を保障し、課税対象を確保するものであった。 710年、元明天皇は、都を藤原京から平城京に移した。また、このころ遣唐使が派遣され、数多くの困難をへたのち、吉備真備らが唐の文化を日本へ伝えた。その一方で、人口の増加にともなう口分田の不足が深刻な問題となり、722年には百万町歩の開墾計画を、さらに723年には三世一身の法、743年には墾田永年私財法と次々と土地の私有を認める法令を出して行った。このような情勢の中、朝廷では権力者がめまぐるしく変り、それに呼応するかのように各地で反乱が起こって行った。このような中、時の天皇である聖武天皇は仏教の教えである鎮護国家思想に沿い、国分寺・国分尼寺や大仏を建立した。しかし、その効果はあまりなく終わった。その後、孝謙(称徳)天皇・光仁天皇と政治の刷新をはかったがうまくいかずその後を受け、桓武天皇が即位した。桓武天皇は、794年に都を平安京に遷都し、更に坂上田村麻呂を征夷大将軍に据え、蝦夷征討を行うなどした。また、仏教界に対しても最澄や空海などの新仏教を保護した。桓武天皇は、専制的政治を行うことにより、政治の刷新を狙った。
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