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テーマ 第二次世界大戦
第二次世界大戦


by秋光

〜前書き〜
 1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆が落とされた。これにより多大の被害を被ったわけであるが、本当に原爆を落とす必要があったのだろうか。それについて考えてみようと思うがそれにはまず第二次世界大戦を知らなければならないだろう。日本は1930年前半頃から領土拡張を試みた。満州事変、上海事変、日中戦争などがあるが、これらの最後に第二次世界大戦がある。第二次世界大戦と言うだけあって世界各国を巻き込んだわけであるが、ここではあえて日本を中心に考えてみたい。

〜大戦の給まり〜
   連合国 VS 日本・ドイツ・イタリア
 おおまかに書くと上のような対立であるが、まず1940年9月、イタリア、ドイツ、日本の間で日独伊三国同盟が締結された。1941年6月、ドイツがソ連に宣戦、独ソ戦争が開始され、7月、日本ではこれに対応するために御前会議が開かれ、軍部の強い主張によって対米英戦を覚悟のうえで南方進出と情勢が有利の場合のソ連攻撃をきめた。その一方で当時の内閣、近衛文麿内閣は日米交渉の継続をはかっていたが、これに反対していた松岡外相をのぞくのに手間どっているすきに南部仏印進駐が実行に移され、アメリカは対日石油禁輸、両国の関係はますます悪化した。そして9月の御前会議で日本は10月までに対米交渉がまとまらない場合の対米開戦を決定した。しかし日本とアメリカとの間に妥協をみいだせないまま10月を迎え、日米交渉を継続しようとする近衛首相と交渉打ち切りを主張する東条英機陸相が対立、近衛内閣は総辞職した。次にできたのが東条英機内閣である。東条内閣は11月末、アメリカが満州事変以前の状態への復帰を要求したためアメリカと断絶、こののち日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともにアメリカ、イギリスに宣戦布告し、第二次大戦が始まった。


〜緒戦の勝利〜
 日本の宣戦とともに、ドイツ、イタリアも三国同盟により、アメリカに宣戦した。日本軍は先制攻撃によりハワイでアメリカの戦艦群や飛行機を撃破した。奇襲は完全に成功し、アメリカは惨敗をきっしたが、日本の勝利は当初考えられたほど大きなものではなく、日本軍は目標であった空母を一隻も見出すことができず、修理施設、燃料タンクを見逃した。これがのちに大きな意味を持つことになる。そしてマレー半島沖では南部仏印基地から発進した日本軍によりイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、日本は一方的な勝利をおさめた。


〜連合国軍の反攻〜
 日本は緒戦の予想以上の大戦果を実力の差によるものと過信し、安易な情勢判断と作成計画に走っていた。こうした中で日本はミッドウェー・アリューシャンを攻略する作戦を計画した。その直後、連合国の爆撃機が東京、名古屋、神戸を奇襲爆撃し、中国大陸、ソ連沿海州へ飛び去った。空襲の被害は軽微であったが、軍部、政府は衝撃を受け、ミッドウェー・アリューシャン作戦に乗り気となった。ミッドウェー作戦とは哨戒にあたる潜水艦の先遣隊が展開したあと、戦艦などでミッドウェー島に奇襲を加え、米鑑隊が出現した場合はそれを撃滅し、ミッドウェー島を攻略するというものであった。これに対して、すでに暗号書を手に入れていたアメリカは日本の作戦を察知し、ミッドウェー島の防備を固め、日本艦隊を迎撃する態勢を取った。結果はアメリカの大勝、日本海軍は大敗をひたかくしにし、かえって勝利したかのような大本営発表をおこなったが、ミッドウェー海戦は太平洋戦争における日本軍の優位が崩れる転機となった。続くガダルカナル島戦も、日本は米軍におされ逃げることに、さらに飢餓とマラリア、赤痢などにもより、日本軍はなすすべもなく大敗した。こういった中で東条内閣は東南アジア地域の一部の人々から協力をえて、1943年にその地域の代表者を東京に集めて大東亜会議を開いた。しかし、このいわゆる「大東亜共栄圏」内でも、欧米列強にかわる日本の支配に対する反抗が次第に表面化していった。その後、サイパン島が陥落し、東条内閣が倒れ、小磯国昭、米内光政の連立内閣が成立した。


〜降伏へ〜
 アメリカ軍は1944年フィリピンに上陸、翌1945年2月硫黄島、4月沖縄本島に上陸した。日本の敗北が必至となったこの段階で、小磯内閣が退陣して戦争終結の任務を期待された鈴木貫太郎内閣が成立した。イタリアの降伏に次いで、1945年5月、日本が頼りにしていたドイツも無条件降伏し、日本は孤立、軍部は本土決戦を決めた。だが、鈴木内閣はソ連を仲介とする和平工作を進めようとした。しかし、この時すでに日本の敗戦後の方針を決める会談がおこなわれていた。それか、ヤルタ・カイロ・ポツダム会談である。

カイロ会談・・・1943年、米・英・中、対日戦遂行、処理案を決定発表。第一次世界大戦後の日本取得の太平洋上の諸島奪取、満州、台湾の返還、朝鮮の独立など。

ヤルタ協定・・・1945年、米・英・ソ、対独処理方策、国際連合問題などを討議、対日秘密協定でソ連の対日参戦と千島、南棒太領有を承認。

ポツダム宣言・・1945年、米・英・ソ、欧州の戦争処理と対日戦終結方策を討議。のち米・英・中の三国の名で日本に降伏を勧告。終戦の条件として軍国主義の全滅、領土制限、民主化促進など。


 その後、日本政府が対応に苦しんでいる間に8月6日広島、9日長崎に原爆投下、また8月8日ソ連の対日参戦、日本は8月15日ポツダム宣言を受諾し戦争は終わった。


 と、以上が第二次大戦であるが、ここで注目しなければならないのが最初に書いたとおり原爆である。

1、アメリカ側は戦争を早期解決するために落としたと言っているが、本当にそうであったのだろうか。実験的に使われたのではないだろうか。

2、原爆の被害は落とされた時だけでなく、子孫へと遺伝していくこと。

 以上の2つに問題点を絞ってみたが、1ははっきりしていないが結果的に見て戦争が早く終わったのは確かだと私は思う。落とさなくても、すぐに終わったと思うという人がいても否定できない。
 2については今、現在もこれによって苦しんでいる人がいる。とにかく原爆によって多くの死者を出し、それが危険であることがわかった今でもなお破壊力のある爆弾を作ろうとしている国々がある。私にはとても理解できないことである。

<参考文献>
十五年戦争小史 江口圭一 青木書店

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