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テーマ冷戦
冷戦と55年体制
by トジ
1.冷戦とは
WW2終結後の米ソの対立が持つ厳しさ、深刻さなどを、単なる二国間の緊張状態では片づけられないとして、戦後のアメリカでは、評論などで「Cold War」という言葉が使われ始めたとされている。
しかし、別の説もある。ドン=ファン=マヌエルという14Cのスペインの作家が、当時のキリスト教徒とイスラム教徒との間の対立について、「Hot war」と「Co1d War」との区別を論じた中で用いられたらしい。
14Cのヨーロッパは、十字軍という大戦後でローマ教皇を頂点とした封建制が動揺し始め、中央集権制へと国家体制に変化が起き始めていた。それに対してイスラム圏では、十字軍と戦った西アジア諸国が、モンゴル帝国によって征服され、ヨーロッパ諸国は、いつモンゴル軍が攻めてくるかと過剰に反応していたに違いない。つまり、いつ「Cold War」が「Hot War」になるかと……
WW2終結後も、十字軍終結後と同様に、西ヨーロッパ諸国は疲弊していた。しかし、旧ビザンツ帝国領であった東欧は、14Cの頃と異なり、共産化という形で、ソ連に帰順した。そして、中華帝国も共産国家として生まれ変わった。ところが、14Cの頃の世界と大きく異なるのは、アメリカという大国が存在していることである。このアメリカという国は、世界大戦において受けた被害は小さく、また十字軍ごっこをやろうと言わんばかりに張り切って、旧枢軸国が生まれ変わった後、今度はソ連(共産主義国)を仮想敵国化した。そして、疲れきっていた西ヨーロッパ諸国に復興援助をする変わりに、共産主義の打倒のために手を組もうと言い出したのである。それに対して、ソ連もアメリカの過剰反応に対応せざるを得なくなり、軍備拡張や技術開発に邁進したのである。
2.冷戦 〜対日講和以前〜
WW2で敗北した日本は、アメリカを中心とした連合国軍の中の極東委員会で決定された占領政策により、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令・勧告によって、間接的に統治されていた。
GHQは日本が再びアメリカの脅威とならないように、日本の非軍事化、経済的・社会的基盤の民主化を考えていた。この政策が行われるための絶対的な条件として、中華の地が蒋介石の国民政府による存続が必要であった。しかし、アメリカの期待に反して、毛沢東が率いる中国共産党によって、全土が制圧されたのである。そこで、アメリカは極東における政策を大きく変えることとなる。アメリカは、とりあえずは日本の経済を自立させることによって負担を減らして、日本に「極東に起こるかもしれぬ新しい全体主義の脅威に対する防壁」を期待して、新しい展開を待った。
しかし、アメリカに政策の変更を迫られる事態を迎えることになる。アメリカが世界の覇権を維持するためのカードであった原子爆弾を、ソ連が保有していると宣言したのである。そのような状祝のもとで朝鮮戦争が起こり、在日米軍が投入される。その穴埋めのために警察予備隊と海上保安庁が作られた。アジアの「冷戦」が「熱戦」へと変わると、戦後冷め切っていた日本も徐々に熱を持ち始めることとなる。
ここで、対日講和が急加速して、全面講和か単独講和か国論を二分した。ここでの選択が今日の日本を示していると行っても過言ではない。冷戦の中での日本のポジショシを決めることとなるのである。日本は結局アメリカを初めとする資本主義陣営の49カ国との間に平和条約を調印した。日本は相手国に戦争賠償をしなくてもいいと言うアメリカのダレスおじさんの提案にのったのである。
3.冷戦(対日講和以降)と55年体制
連合軍による占領政策が終了すると、安保闘争や高度経済成長があったわけだが、国内で国際政治の縮図ともいえる状況が生まれた。それはいわゆる55年体制である。再軍備反対、憲法擁護を旗印とした革新勢力が徐々に勢力を拡大していったのである。1955年2月の総選挙で、議員の3分の2を保守合同によって成立した自民党が占めた。しかし社会党の左派と右派の議席をあわせると議員の3分の1となり、憲法改正を阻止する形となった。この後社会党も1つになり、国会という舞台で議席数によるバランス・オブ・パワーが見られることとなるのである。
つまり私が言いたいのは、冷戦と55年体制はつながりがあるのである。1960年に日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)が調印されたが、このときに与党であった自民党が強行採決を行い、抗議を行ったデモ隊に連日国会議事堂を囲まれ、当時の岸信介内閣は総辞職に追い込まれた。これは、与党と野党と市民との間のバランスを崩すような政策を行うと、反動が来ると言うことである。
ここで視点を世界に戻すと、1962年にソ連がキューバに核ミサイル基地を設置し、それに対してアメリカは海上封鎖を行い、核戦争が本当に起こってしまうのではないかと危慎された。これも、ある2つの大きな勢力が存在したときに、一方が突出した行動を起こすと、もう他方がそれを止めようとし、それでも駄目ならば第3者的立場に立っているアクターが支援するという構図に当てはまるのではないだろうか。
この構図が当てはまる例をもう一つ挙げてみると、ベトナム戦争もそうである。1965年当時、南北に分かれていたベトナムで、社会主義国家であった北ベトナムの軍隊が、資本主義国家であった南ベトナムに侵入した。それを資本主義の危機と察したアメリカは、核兵器を除くあらゆる兵器を用いて北ベトナムを攻め落とそうとした。それに対して、北ベトナムは、ソ連などの社会主義国から軍事援助を受け、ゲリラ戦術で応戦した。これによってアメリカ軍をベトナムから追い出した。そしてその裏では、世界的な反戦運動を忘れてはならない。
このような当時の国際情勢の中で、第3者としての立場をとるアクターが国際舞台に現れた。アジアやアフリカ諸国、すなわち、資本主義陣営にも社会主義陣営にもつかない、第3世界の国々である。これらの国々は、軍事力や経済力から見ると、国際舞台において、特別な脅威になるわけではないが、その陣営に属している国家の数が多く、国際政治の上では、大きな派閥となり、アメリカとソ連の二極による国際政治に、一石を投じる形となったのである。これによって、決して安定しているとは言えないが、世界史においても希な、穏やかな時代を我々は過ごすこととなる。
視点を日本へ移すと、冷戦(55年体制)が熱戦(革命?)に変わるときというのは、憲法改正のときではないかと思う。今日存在する日本国憲法は、日本人が自らの手で作り上げたものではないと言う説がある。それゆえに、さまざまな問題がある。天皇制や自衛隊などがそうである。戦後、民主的な平和国家として日本は生まれ変わったはずなのに、この2つの制度は一体何なのかということなのである。この2つの制度を、暗黙の了解という形で、与党(自民党)と野党(社会党、民社党、公明党、共産党など)との間で、55年体制は続いていったのである。
しかし、国際政治における冷戦と比較すると、日本の55年体制と言うのは、一方の勢力が圧倒的に強くて、もう一方が最終ラインで踏ん張っているという感じがするのである。つまり、社会主義国家で行われていた一党独裁制の一歩手前という状況の中で、およそ10年前まで我々は生活していたのである。まあ、自民党一党独裁などというのは、まったくの夢物語であるのは皆さんわかるでしょう。
4.冷戦と55年体制の終焉
戦後、世界と日本国内での2つの体制が、絡んでいるような、絡んでいないような(おそらく後者であろう)事態で、90年代に実入しようとしていた。世界では、米ソの間で、核兵器削減交渉が進み、冷戦終結の道を歩み始めていた。このきっかけと言うのは、端的に言うと、両大国とも、経済的にかなり苦しくなってきたのである。とりあえずは、地球が青いこともわかったし、月にウサギがいないこともわかった。人工衛星も打ち上げて、世界で何が起こっているのか手に取るようにわかるようになった。核実験もシミュレーショシでできるようになった。やるべきことは大体やり終えたのである。このような雰囲気の中で、冷戦の象徴ともいうべき、ベルリンの壁が壊され、二極の一方であったソ連も崩壊した。世界では、冷戦の幕が呆気なく降ろされたのである。
日本では、戦前戦後の象徴とも言うべき、先帝が崩御すると、国内情勢が急激に変化し始めた。その年に、あの消費税が導入されたのである。そしてリクルート事件なども絡んで、自民党政権が揺らぎ始めたのである。そして、東京佐川急便事件や、PKO協力法の強行可決などが後押しをして、与党であった自民党内部の分裂なども絡んで、93年8月に非自民連立内閣が成立し、55年体制に終止符を打った。
5.まとめ
日本人は、冷戦下の世界で何をしてきたのだろう。日本人にとって冷戦は何だったのだろう。所詮、国際政治を学ぶのに必要な語句に過ぎないのだろうか。このレポートでは、冷戦を出来るだけ身近なものに感じてもらえるように、強引に55年体制と結びつけて話を進めてきた。中には、荒唐無稽であると言う人もいるだろう。中には、冷戦と55年体制を並べて書くなど無礼であると激怒する人もいるかも知れない。
しかし、ここで言いたいのは、バランス・オブ・パワーシステムが国際政治だけでなく、一国の政党政治においても作用しているというのを感じていただきたくこのレポートを書いた次第である。そんなことがあるわけが……
−参考文献−
国際政治の基礎 斎藤孝著 有斐閣双書Gシリーズ
教養の日本史 宮崎章 東京大学出版会
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