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政党
by大僧正
日本における政党は、19世紀末に藩閥政府に対抗するため結成されたが、20世紀になると時には藩閥と提携しながら勢力を拡大していった。戦前の政党は自由党の流れをくむ政友会と、立憲改進党の流れをくむ憲政本党(のち憲政会→民政党)の二大政党でおおむね推移していった。大正デモクラシー期に入り、政党の力が強まると、1918年にようやく政友会の原敬を首相とする本格的な政党内閣が誕生した。原の死後、政党の力は弱体化したが、憲政会の加藤高明ら護憲三派は選挙で勝利すると、連立内閣を組織した。これによって、五・一五事件で犬養内閣が倒れるまで、衆議院の多数党(実際には二大政党である政友会と憲政会→民政党のどちらか)が内閣を組織するといういわゆる「憲政の常道」に則った政党内閣の時代が続くことになった。だが、この政党内閣時代は「憲政の常道」と呼ばれるほど輝かしいものではなかった。むしろ、この時代に政党は衰退への道をたどっていったのである。
ここで、政党内閣時代の特徴をみてみよう。まず、この時代は1924年から32年の8年間にすぎず、意外に短いことに気づかされる。そして、この間に実に七代もの内閣が組織されている。つまり、短命、不安定な内閣であったといえる。そしてその短命の原因は総選挙における敗北などではなく、政権を獲得するための政党の足の引っ張り合いであった。政党は政権を獲得するためには軍などの政党政治に否定的な勢力とも手を結んだのである。この結果、政党は自ら国民の不信を招き、さらには、軍部の台頭を抑えるどころか、その台頭に手を貸すことになったのである。政党は自己崩壊していったのであった。確かに戦前の政党は明治憲法や制限選挙といった障害のために戦後の政党ほど強力でなかったのは事実であろう。だが、それを差し引いても、政党を弱体化させていったのは政党自身であったといえよう。衰退していった政党は、戦争ムード一色の中で近衛文麿の新体制運動の下、すべての政党は解散して、大政翼賛会に組み込まれていった。
戦後の政党は日本共産党を除いて名前こそは変わったものの、明らかに戦前のそれの流れをくむものであった。とはいえ、戦前、政党の指導者であった者たちは、当初は公職追放によって新政党のメンバーではありえなかったが、1950年代に入ると次々に公職追放は解除されたため、その頃については人物の面からいっても戦前の政党との連続性を否定することはできないのである。
さて、戦後10年間はいくつかの保守・革新政党が離合集散を繰り返していたが、1955年、社会党の統一と保守合同によって、自由民主党と日本社会党の二大政党(実は1.1/2政党)を中心とするいわゆる「55年体制」が成立した。1960年代になると民主社会党や公明党の結成により多党化が進んだが、冷戦構造のもと、西側陣営と結び付いた自民党と、東側陣営に協力的な社会党の対立という構図は長く変わらなかった。しかし、1980年代後半から90年代始めにかけての冷戦構造の崩壊、さらには93年総選挙における自民党の一党優位体制の崩壊によって55年体制は事実上終焉を迎えたのである。
国民は自民党政権に取って代わった、新党を含む連立政権に大きな期待を寄せた。しかし、連立政権は短命で、めまぐるしく変わっていった。そして、政権獲得の過程で、政策を無視した多数派工作や数合わせが行われ、また総保守化が進み各党間の垣根が低くなったため、各党を無節操にくるくる入れ替わる議員も多くなった。このようなことから、国民は次第に政治に失望していったのである。期待を寄せた分、失望も大きかったと言えるだろう。そして、国民の失望は政治の不信にとどまらず、政党の不信にも広がっていった。「無党派」と呼ばれる人々が増え、政党そのものの存在意義が問われているのが21世紀を前にした現状であろう。
ところで、前述した戦前の政党内閣時代の特徴の中に出てきた「短命、不安定な内閣」「国民の政党不信」などは、近年まさに我々がよく耳にする言葉ではないだろうか、気になるところである。
このように、政党の危機が叫ばれている現状において、政党というものを考える際、政党の歴史を振り返ることは、時代の状況の差異はあるにせよ、無意味なものではないと思うのであるが、いかがであろうか。
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