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本紀
第l章90〜92年
本紀
部長の施政を中心に、歴史部の経過を追う。一応レキシキの中心出あるが、残念ながら最もつまらない。本紀がつまらないのは史記以来の伝統なので、歴史部の歴史を知りたい人は我慢して読みなさい。
第l章90〜92年 中世歴史部〜左翼王国の建設と崩壊
・誰も認識せず、知らない間に解決された危機(1990〜92)
始め、歴史部というものは存在しなかった。そこは部員ゼロの名簿と、誰もいない部室が存在するだけだった。
そこに魔首領奴素子が、歴史部へ息を吹き込んだのである。
彼女が90年、ゼミの仲間と語らって、名前だけの空白サークルとなっていた歴史部に侵入したのだ。90年を歴史部元年として、それ以前をBC(ビフォーC澤:C澤以前)〇年、以後をAC(アンノCサワ:我等のC澤の)〇年と呼ぶ。嘘です。今考えました。
それ以前の歴史部がどうなっていたかは、今となっては誰も知らない。ただ漠然と我々は「古代歴史部」と呼んでいる。古代歴史部の記録に関しては、私が入手した古代部則と、初代法王がはるか以前に古代人と思われるおっさんに部室で接触したことがある、という記録しかない。発掘調査の結果、将来古代歴史部の詳細な歴史が作成されるかも知れないか、現在の時点では全くの白紙である。
さて、これからは魔首領奴素子がいかに歴史部を築き上げていったかを記していきたい。古代歴史部と魔首領奴素子の作り上げた90年体制(素子秩序をこう命名しよう)との間には3年前後の完全な断絶があったため、魔首領奴素子の歴史部再建は事実上歴史部の創部だったと言える。
素子は初代部長となり、以後93年の12月にいくまに部長職を譲るまで部長であり続けた。では、90年体制とはどのようなものだったかを検証していきたい。
まず、素子は学習会というものを歴史部の根幹に据えた。これは歴史・現代情勢などについて部員同士で行う討論会である。このような学習会を中心とするサークル路線は、他のサークルとの重大な相違であり、歴史部の自己同一性(アイデンティティ)であり、また歴史部に絶えず内紛を引き起こす遠因ともなった。この、歴史部の学習会中心路線は続いている。(きゃみ注:99年学習会中心路線は崩壊する。)その価値判断はいまだ、特に私がするべきではないだろう。ただ私個人としては素子の作った学習会こそ私が歴史部に在籍している理由であり、もし将来学習会が行われなくなったとしたら大変残念に思う。
さて、ここであまり意識されていない危機があった。列伝にも記されているように、素子は熱烈なマルクス主義者であったのだ。それもすっげーバリバリの。そもそも学習会というネーミングも、左翼学生臭いと言えば臭い。いつぞや見た映画(たしか中国映画)で、左翼学生の学究サロンが学習会と言う名前だったのをおぼえている。その世界で学生の討論場と言えば学習会というネーミングなのだろうが、幸か不幸か今の学習会はそれとは違ったものになっている。
素子にもう少しの布教能力と知識があったならば、歴史部は現在のような右翼的傾向の歴史討論会ではなく、労働者の皆さんとエイエイオーとやっていたかも知れないのである。しかし(残念ながら、あるいは幸いにして)そうはならなかった。その原因としては素子の布教能力の低さもあるが、名城大学という大学の学風の限界もあったのだろう。推測の域を出ないが、初期の歴史部員は素子の左翼傾向に耐えかねて歴史部を離れていったのではないかと思う。
さらに推測を重ねるなら歴史部の左翼化を押し留めた最大の要因は、「歴史部」という名前そのものにあったのではなかろうか。歴史のみを愛好するものは保守右翼的な傾向がある。歴史部という名前で入ってくる新入生もしかり。左翼的傾向の欠けた新入生が入ってくるにつれて、素子の夢であった名城大学の左翼学生の砦としての歴史部は永遠に闇に消え去ったのである。まずサークルの名前を変えるべきだったね魔首領奴素子、と言っておこう。たとえは「社会科学研究会」とか。
それでも素子の野望はついえなかった。多少なりとも骨のありそうな者は、のこらず名古屋大学の左翼サークルの集会に誘われたのである。あすか嬢をはじめとしてその毒牙にかかったものは数多い。かく言う私もそうである。が、どうやら一人として染まってしまったものはいないようだ。名城の学風を示すようで興味深い。
素子の左翼傾向のマイナス面のみを述べてきたが、数多くのプラス面もあった。素子在部中の学習会は、歴史者の右翼傾向VS素子の左翼傾向の対決が論争の争点になっており、学習会の活性化に大きく寄与していた。部としての思想的中立性も持ち得た。素子の退部以後の学習会の混迷化は、その争点の片翼が存在しなくなってしまったことにあるのかもしれない。
最も重要なことは彼女の左翼思想に支えられた、めったやたらなバイタリティが歴史部を生み出したことである。その点に関してのみ、私はマルクスに感謝する。クレオパトラの鼻が低かったらアントニウスが惑わされなかったのと同じくらい、素子がマルクスに出会わなかったら歴史部も存在しなかったのである。俺、何書いてんだろ。
・魔首領奴独裁制とその周辺(1990〜94)
90年体制の重要な特性としては、慢性的小人数・行政機関の未整備による、部の意思決定における素子のワンマン体制があげられる。ただし、素子嬢の名誉のために付け加えておくならば、それは彼女自身の権力欲などは無縁であり、制度的に部の意思決定がなされる機関を全く欠いていたため、結果的に素子ワンマン体制となってしまっただけのことに過ぎないといえる。むしろ部長独断体制は、魔首領奴素子に多大な心労をもたらしていたのではないかと推察される。意思決定機関が部に創設されて部長独断体制が解除されるのは、事務能力に長けた“こぱっち”の出現を待たなくてはならなかった。
さて、90年体制における部員の変遷を見ていきたい。
歴史部創部の時点では、とれだけの部員がいたのか正確な資料はないが、隠れキャラ平野氏・あすか嬢・山崎(兄)などがしられている。初代法王から聞いたところによると、彼の入部時点で10人ほどの部員が在籍していたらしい。参考までに、新たなサークルを作るためには20名前後の部員が必要である。創部当時は名簿上ならばそれくらいの人数がいたと予想される。
その人たちの印象も聞いてみたのだが、いいかげんな人らだったと初代法王は証言している。証言者もいいかげんな人なので、この証言にはあまり意味がない。
91年には、幾人かの入部があったらしい。しかしその多くは事実上来なくなり、唯一初代法王のみが部員として残っていた。去っていった部員に関しては、初代法王から「桃井君と加藤君」がうんぬんと言う情報をつかんだことがある。
92年に関しては、詳しい情報はない。“いとさん”が入部した以外は、新入生らしきものはいなかったらしい。一般的に、歴史部をのぞくものは多かったか、定着するものはほとんどいなかったようだ。
歴史部は、オール名城文化局、正式名を文化会設立実行委員という組織に所属していた。名城大学の自治会組織については、これらの説明は繁雑を極めるのでごく簡単に説明していきたい。
名城大学には高校でいうところの生徒会が十個ある。オール名城文化局(以降局と略称)はその十団体の一つであり、その目的としては正式名にあるとおり文化会を設立することにあった。平たく言えば、十個の生徒会を一つにまとめたものが文化会と思っていただければよろしい。
さて、この局との関係は歴史部にとって望まざる関係であった。具体的には局費納入義務があったり(94年度時点では年1800円)、大学祭には下劣なゲーム(例えば素子は、コンドームをふくらませるゲームに参加させられた)に部員を派遣しなくてはならなかったり、最も大きな負担としては局役員(局の構成員。任期一年であり、1年間を棒に振らなくてはならないほどの労働を要求される)を選出しなくてはならなかった。
素子の部長任期四年間は、局との抗争の四年間であったと言える。
そして素子の局との関係の中で、大きな敗北は局役員選出を義務付けられたことだった。それは92年に義務付けられ、素子の強硬な反対にもかかわらず局に押しつけられてしまったものらしい。結果としてはいとさんが初代局役員となった。私は、これが素子政治の最大の失態であったと思っている.以後、歴史部は局役員選出の義務をおってしまったのだ。
90年体制とは、小人数の部員が穏やかに和やかに生きていた時代であったと推察される。その秩序は魔首領奴素子から生まれた。まるで原始共産制のようなゆったりとした時代であった。歴史部の揺籃期であった。
それは93年の民族大移動によって、無残に引き裂かれ、歴史部は全くの混乱期にはいるのである。
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