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第二章 93年4月〜11月ルネサンス
・第一民族大移動〜カツヒコ秩序と素子秩序(93/4〜)
93年より始まる民族大移動は、歴史部に多大な波乱を巻き起こした。大量の新入部員は旧秩序の大きな破壊をもたらしたのだ。
最も大きな変化は、平日派と呼ばれる人間を多く生み出したことである。
学習会を中心とする90年体制は、裏返せば土曜日以外には人はいない、と言う状況であった。そのためかどうかは分からぬが、新入部員の多くは歴史部に定住しなかった。
しかしながら、カツヒコの入部によってその状況は崩れ、平日にも部室には人があふれかえることとなった。カツヒコは、その強靭な肉体と年齢に裏打ちされた経験とからか、人を引きつけてやまない何かをもっていた。それがカリスマというならば、まさしくそのとおりなのだろう。
さて、カツヒコの入部を皮切りに、次々に新入生が歴史部にやってきた。私もその一人である。この93年入部者は、歴史部を良くも悪しくもおおいに変革し、その後の運営の中心となっていったため、この世代を特別にフォーティーナイナーズ(ほぼ昭和49年生まれ。以下49’s)と命名したい。
さて、カツヒコに魅了された数人の部員たちは昼間に部室にきてはダベり、そして相対的に学習会の地位は下がっていくのである。
90年体制では、学習会は歴史部のすベてであった。なぜなら、平日に歴史部は存在しなかったからである。平日の部室は、単なる誰もいない部屋だった。しかし、カツヒコを中心とする平日に部室でダベっている人間が生まれて、学習会が歴史部の存存意義としては低下してきたのだ。49’sの意識の上では、歴史部というのは、荷物の置き場所兼ダベり場所、という認識があったと思われる。加えて、いつごろからかメガドライブとファミコンが導入されて平日はゲーム部とでも言える状況が出現した。
ただ、カツヒコの名誉のために付け加えておくが、彼は学習会には毎回真面目に参加していた。たぶんカツヒコの意識としては、学習会をやるのは良い、加えて平日に楽しいならばもっと良い、という考えであったと思われる。
しかしながら、学習会に全くウェイトを置かない部員、つまり純粋平日派とでも言われる部員が出てきた。例えばハスラーJH、そして後には狂王河合である。これは翌年になってから、歴史部を大いに揺るがす問題となってくるのである。
93年の状況は、平日はカツヒコ秩序、土曜日(つまり学習会)は素子秩序という微妙なバランスで成り立っていたのである。しかしそれは、少しでもバランスを崩せば秩序が全く失われるやや柔弱な構造でもあった。
さて、そのような形で徐々に変質してきた歴史部の体質は、不可逆性の力で持って90年体制をおし流していく。93年度学習会は、夏休みまでは物珍しさも手伝ってほとんどの部員が参加し、それなりに繁盛していた。しかし夏合宿以降、局との関係を中心として歴史部内に軋轢が生じ始める。その最大のものは局役員の選出にあった。素子が夏合宿で局役員の選出を持ち出して以来、だれしも局との関係を意識せずにはいられなくなる。軽い気持ちで入ったサークルなのに、意外に重い制約を課されることへの反発だったのかもしれない。
この軋轢が影響したのかどうかは分からぬが夏休みが終わって以降は学習会が低迷し始める。学習会の不参加者が目立ち始め、常日頃のことではあったが遅刻がうなぎのぼりに増加し始めた。これは94年度になるまで事態は悪化を続ける。
夏休みが明けてからは、歴史部も大学祭の準備に追われていくことになった。93年度の歴史部の大祭の出し物は、YGというテストを使った性格検査を行うこととなった、これはほぼカツヒコの一存で決定した方針である−−というよりも、他に案らしい案はなかったと言ってもいいのかもしれない。
他には、大祭に向けて有志の研究発表をすることになった。テーマは「原発」。そのメンバーは素子・亀さん・私・ランバ・ラル・西尾様といったものであったが、実質は素子・亀さん・いくま等3人のみの研究であったと言ってもいいだろう。
さらには、局への派遣部員として大学祭実行委員に亀さん・いくまが出稼ぎに出された。彼らは局合宿(局が主催する合宿。夏と春の一年に二回行われ、夏は大学祭、冬は新歓についての話し合いが行われる)にも参加し、夏休みが明けてからは毎日局室で強制労働の刑を受けていた。
もちろん、局役員のいとさんは言うまでもなく日夜局のために働く毎日であった。
これらが並行して大学祭に突入していったのである。その忙しさの中で学習会はなんとなくおろそかにされていったのだ。
大学祭が終わってからは(大学祭の詳細については大祭攻防戦記を参照されたし)、潜在的だった学習会の危機は顕在化してくる。11月末から3月末までは、学習会の平均参加人数は4人前後だったのではないかと推察される。約10〜12人の部員から考えれば、30〜40%の参加率であった。
学習会のための歴史部なのか、歴史部のための学習会なのか。この問いがこれほど意識されたことはなかっただろう。それはつまり、学習会が必要なのかどうかという疑問に直結するものだ。
90年体制では学習会のための歴史部だったと断言できる。なぜなら、学習会のない平日は、カツヒコもファミコンもメガドライブもなかったからだ。学習会に参加しない人間を収容するキャパシティが歴史部に生まれたからだ。そのキャパシティが良いものなのか悪いものなのかは私には判断できない。ただ、学習会が楽しいのはよい、平日が楽しいならもっと良いとは思う。このどちらかを選択しなければならない状況におかれないことを祈るばかりだ。(きゃみ注 99年いくまが懸念していた状況に陥り歴史部から学習会はなくなった。)
90年体制最後の年、93年度に学習会価値観が揺らぎ始めた。第一次民族大移動がもたらした最大のものは、学習会=歴史部の価値観への懐疑だったのである。
歴史部の自己同一性危機といえるこの懐疑が、デカルトのごとき建設的方法的懐疑となるか、破壊的懐疑地獄に陥るか。それが90年体制崩壊後のもっとも重要な課題であった。
ルネサンスの三大発明は活版印刷・羅針盤・火薬であったが、歴史部ルネサンスの三大発明はゲーム・悪口・カツヒコであろう。それまでは存在しなかったこの三つのために歴史部は発展しつつ苦悩するのである。
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