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第3章 93年11月〜95年4月 近代歴史部の夜明け“宗教戦争”
・新体制〜第2次民族大移動と一応の安定(93/4〜)
93年度11月末大学祭終了後に、素子引退後の新部長といとさん任期終了後の新局役員が決定した。
まずは、局役員の決定であった。部員一同そろうなかで、資格者一年生の様々な条件を加味して候補者を絞っていく。時間が空いているかどうか、家が近いかどうか、局役員に向いているかどうかなどの条件である。
結果としては、こぱっちと狂王河合が候補者として残る。
結果としては、こぱっちが折れる形で局役員となった。
結果だけ記していけばあっさり決定したように思われるかもしれないが、実に不毛で責任回避的でうんざりする話し合いであった。最終的にこぱっちが折れなかったら、と考えると身の毛がよだつ思いがする。これから局役員決定は歴史部の年間最大わずらわし&おおもめ行事となる。
次に新部長であった。部長選出に関しては、何ら前例がないために前任者の指名、つまり素子の鶴の一声であった。初め素子はいとさんを部長に、と考えていた。94年度に3年生になる部員はいとさんとカツヒコだけでありいとさんは局役員も勤めており部長候補として当然の選択とも言えた。
しかしながら、素子の懸命の説得にもかかわらずいとさんは強硬に部長職を辞退しつづけ、素子は次の候補者を選択しなくてはならなくなった。その結果として私が部長として祭り上げられたのである。
現職部長として歴史を記していると、「いくまはその人柄を見込まれて素子の後継者になった」とか、「いくまはその人望ゆえに部員の推挙で部長になった」とかかっこいい選出理由をつづる誘惑にかられる日もあるが、実質は単なる消去法で部長になったのだった。かっこわりいなあ。
たーぶんこんな消去法があったんやと思う(以下二行は全くの推測)。
「条件:来年度の三年生が望ましい→いとさん→拒否。カツヒコ→拒否が予測される。来年度二年生で我慢しよう→こぱっち→すでに局役員。他の二年生→いろいろ問題あり。まあ、いくまでいいかなあ」
歴史部はこうして部長いくま・局役員こぱっちの新人事で、難局に望んでいく。
結論から述べるに、94年度はこぱっちの八面六臂の経営手腕が、歴史部を秩序化していった年であった。こぱっちは様々な方法をもって、なんとか歴史部の混乱に決着をつけようと尽力した。それについてはおいおい記述していきたい。
この時点でのいくまの方針は以下のようなものであった。
1.学習会の再生。
a.出席人数を50%以上にすること。
b.新たな学習会形式の模索。
c.歴史部の学習会についての認識追求。
2.局に対する可能なかぎリの抵抗。
a.局合宿への反対。
b.局費を節約−部員の二重名簿作成。
c.可能ならば、局役員選出義務の免除。
3.新歓活動
a.なんもせーへん。
まだ方針はあるが、国家機密に関係することなのでここでは公表できない(嘘です)。これらの方針の多く、特に二.局に対する可能なかぎりの抵抗、はまったく実現できていない。日を追うにしたがって、いくまの局に対する日和見態度は増していった。
代表会が創設されるまで歴史部の運営は、旧部長素子・日和見部長いくま・局役員こぱっちの三名によって実質的に運営されることになる。
その代表会がこぱっちによって提案されたのは94年度の4月である。
こぱっちの認識の中では、今後人数を増していく歴史部にとって行政機関の欠落は致命的なものであり、その整備なくしては歴史部はおおいに揺らぐだろうと考えられていたようだ。その時点で部員数10名前後、来年度には5名の侵入部員が入ったとして(卒業生はいない)、15名の大世帯になる。こぱっちの懸念は当然といえた。10名の部員でさえろくに統一が取れていないのだ。単純に考えて1.5倍の混乱が予測される。
しかしいくまはこの執行部創設案に、穏やかに反発する。執行部(当時はそう呼んだ)と一般部員の認識のズレが生じ、混乱は一層増すのではないか、執行部だけで歴史部が仕切られることにはならないか、といくまは反対する。もっと部員本意の行政を行うべきではないか、と。けれども日和見いくまはそれほど強硬に主張したわけでもなく、同時に部員本意の行政と言っても部員自身にそれほど情熱が感じられるわけでもなかったので、結局執行部創設に賛成した。
7ケ月後に、いくまが主催する代表会が、まったくいくまがかって主張していた理由で、こぱっちを中心とした部員から非難されたことは、歴史の皮肉というべきか。私はこれに対して、予測力と実行力が完全に別物であること、そして自身の鳥頭を痛感した。
ともかく4月には執行部組織の運びとなり、名称も代表会と決定した。その果たす役割は、1部生と2部生の連絡業務、部費の徴収、行事の運営などとなる。
さて、94年度も五月となると、さっそく歴史部は第2民族大移動の波に洗われることになる。参考までにつけ加えておくが、歴史部に入部する連中の約95%はクラブガイドを見てやってくる。というか、クラブガイド以外の方法で歴史部にきたものは、bashiくらいしか知らない。
この第2民族大移動の恩恵か、学習会の出席率低下の問題は一気に氷解した。少なくとも現象面では、氷解したように見えた。
歴史部に入部することは学習会に参加することだ、とクラブガイドの文章はうたっている。それを見てやってきた新入生が、学習会に参加するのは当然といえば当然ではある。彼らに刺激されて、出席率がいい加減だった在来部員も学習会に参加するようになった。参加率は一気に80〜90%にはね上がったのである。
さて、第2民族大移動の部員50’s(昭和50年生まれが多いからフィフティーズ)◆きゃみさん的には“50年マフィア”の方がお気に入り◆は、49ersに比べてはるかに歴史部に対して従順であった(決して部長に対してという意味ではないことを強調しておく)。エゴイスティックでアナーキーな49ersと比較すると、歴史部の秩序に対して挑戦するようなことは少なかった。少なくとも入部当初は。良く言えば従順で良質の部員、悪く言えばやや活力に欠ける面もあると言える。例えば学習会でも、自分から意見を押し出していくというような姿勢は割合なく、聞かれてから答えることか多かったような気がする。これは新入部員の性格によるものというよりも、歴史部に秩序が生まれつつあり、それは自分たちではなく先輩たちが作っているもの、という認からではないだろうか。
私が入部した当時の、ほとんど白紙で好きな色をぬりたくっていける歴史部はもうないのかもしれない、49ersのエゴむきだしのアナーキーパワーは、今後は新入部員全般からは得られないのだろうか、良くも悪くも歴史部を変えた49ersは、歴史部をつまらない部にしていっているのではないんだろうか、50’sを見ながらそんな数々の思いを抱いた。
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