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・不参加者論争と部則(94/6〜11)

・不参加者論争と部則(94/6〜11)
 その問題ははじめ遅刻者への対策をどうするか、という小さな話から始まった。それがあれほど大きな事件になるとは、誰も想像できなかった。6月のことである。
 初めはささいな問題からの出発であった。いくま、素子、こぱっちなどが、学習会の諸問題を論じ合っていただけだった。その中では、学習会をどのように変えていくか、部員の中の学習会の認識、そして数多い遅刻者。遅刻者については、学習会が部員にとって魅力的ではないからではないか、と誰かが言う−ならば学習会をより愉快なものにしていこうという建設的な意見はもちろん出た。しかし、それにもまして今現在の遅刻者にどのように対処するかということに重点がおかれたのだ。
 ここで誰かが言った。遅刻者に問題があるのならば、学習会にまったく出席しない部員はどうなるのか。それは遅刻者以上の問題ではないのか。
 今思うと、この時点ですでに地獄の扉をノックしていたのだと思う。無論、それが地獄の扉だという自覚はまったくなかった。
 こうして学習会不参加者論争が勃発した。
 まずは各所で論争が起こった。大きく分類して不参加者に対してどうするかという方法論と、不参加者をなぜ何とかしなくてはならないのかという学習会論の二つの議論があった。これらは様々な主張や立場によって、もっと細分化される。
 それを紹介していこう(あくまで極端に要約してある)。

1.方法論争
 a.右翼派:不参加者は歴史部を去るべきだ。
 b.左翼派:説得すべきだ。
 c.中道派:説得するべきだ。そのうえでなお参加しないなら、手段を改めて講じる。

2.学習会論争
 a.右翼派:歴史部は学習会を行うという前提で、それを承認して入部したのだから、その上で学習会に出席せず歴史部に在籍するのはおかしい。何のために歴史部にいるのだ。
 b.左翼派:歴史部は自由なサークルであり、なぜ学習会のためのサークルだと規定してしまうのだ.この自由な空気を愛する人間には、歴史部は場所を与えてくれないのか。
 c.中道派:話し合う必要がある.学習会というものの認識からずれているからだ。

 論争は、右翼系中道派、左翼系中道派などを交え、ぐちゃぐちゃのへげへげになっていく。誰もが血眼になって、自分の主張を通そうとした。それぞれの危機意識が、エゴむき出しの論争を引き起こす。右翼派は93年度末のあの状況を恐怖して、左翼派は自らの除籍にかかわる恐怖から。右翼派としては素子・いくま、左翼派としては狂王河合・ハスラーJH、中道派としてはこぱっち・他多数、右翼系中遭派としては50’sの数人、左翼系中道派としてはギャンブラー湊・カツヒコなどがあけられる。
 あらゆる論争の常としで、初めは論理面で相手を非難し、最終的には相手の人間性を非難していく結果となっていった。「君のここが間違っている」から、「あんたが嫌いだ」になっていく。
 その根底には、まさしく平日派と土曜派の対立があった。多くの人間は気がついていなかったか、この問題に積極的に関与していくことは、まさしく地獄に通じる道だったのである。私はそれを知りつつも、なお地獄に踏みこんだ。決して避けて通れる道ではなかったと今でも思っている。90年体制の負の遺産を、いつかは精算しなくてはならないはずだ。
 ちなみにハスラー・狂王に対する代表会からの一連の質問(なぜ学習会にこないのかとか)の審問役は私だった。今思い出しても胃が痛くなるくらい嫌な役目だったス。もう、空気が重くて重くて。
 歴史部の自己同一性危機はこの論争で激しく吹き出した。最終的には学習会に対する懐疑にまで論争は至ったのである。けれどもその懐疑は、まさしく、破滅的懐疑地獄であった。

 時間が、ようやく論争を沈静化していった。だれしも長々と続く論争にうんざりし始めたのである。何度も開かれた部会で決定されたことは、不参加者を何とか説得しようということだけだった。右翼派・右翼系中道派の試みであった、不参加者の除籍・説得後の除籍については、一切不問となる。あれだけ不毛な議論を交わした結果にふさわしい、まことに不毛な結末であった。
 この論争が引き起こした影響は大きい。以後、不参加者問題は歴史部の鬼門であることが認識された。不参加者自身も歴史部について考え直す結果になった。そして50.sの認識の上で、学習会が歴史部の第一義であること、すくなくとも歴史部を運営している人間はそう考えていることが認識されたと思う。成果と言えば、唯一これだけが不毛な論争の成果ではあった。

 この論争がが沈静化しはじめたころから、こぱっちは部則制定の必要性を感じていたらしい。この論争がどのような形で終わるにせよ、その結果を実践していくためにはそれを裏づけしていく法的手段が必要である。それまでの歴史部には文章化された秩序は存在せず、ただ慣習法のみが存在するだけだった。結果を厳格に実践するためには、成文法が必要である。それがこぱっちの頭脳の中で、部則の制定という形にまとまった。
 こぱっちといくまは、局室から古代歴史部の部則を着服してくる。これは我々が唯一知り得る古代歴史部の状況であろう。こぱっちはそれを元に、現在の歴史部にそった新たな部則草案を作成していくのである。法律大好き人間のこぱっちは、うきうきしながら部則草案を作っていたのではないかと推測される。その部則草案に、いくまはなんやらかんやらケチをつけて一部修正した後、部則は部会の承認を得るまでの運びとなった。
 こぱっちは不参加者論争を終わらせるためというよりも、論争で明かになった部としての法的手段不在の状況を打破するために、部則を作成したのだと思う。ともかく新部則は不参加者論争のごたごたで皆が混乱している最中に、誰もあまり注意を払うことなく批准された。
 素子が歴史部の存在意義(レゾンデートル)を与え、こぱっちは代表会と部則をつけ加えてそれをシステム化した。いくまが何をしていたかというと、何もしなかった。ぼけーと日々安穏と生きていたのである。しかしちょっとだけ自己弁護しておくと、劉邦も言っているように、兵の将たるはたやすく、将の将たることが“つまり人をいかにうまく使うか”ということが指導者の能力なわけで、その点俺は自分で何もしなくても・・・すみません。何もしていませんでした。ごみんなさい。もう自分の無能の自己弁護はいたしません。
 閑話休題。部則第一号(11月に第二号が作成される)には、代表会の立場というものは明記されていなかった。これは11月にまたもや大きな問題を引き起こす遠因の1つになる。

・グループ制学習会(94/7〜)
 7月頃、こぱっちは学習会に新たな方法論を提示する。それは学習会をイベント化し、新鮮さ・やる気・出席人数を引き出そうとする画期的な法案であった。すなわちグループ制学習会である。
 代表会で決定したテーマにそって、そのテーマ内のジャンルごとに小グループを作り、みなでレポートを持ち寄って学習会を行う。そして全部員の学習会でグループごとのまとめを発表する。これがグループ制学習会の骨子である。
 このグループ制学習会は様々な問題に対するこぱっちの回答であった。その目的を解説していきたい。
 ・部員増により、レポーターになれる回数が減ってきたことに対して、グループ制ならばグループの個数倍だけ学習会か増える。だれしもレポーターになることができる。
 ・大祭の研究発表に全員で参加できること(させること)。
 ・今まで一回で終わってしまっていた学習会を、一定期間継続的にに研究できること。
 ・一定方向になりがちな学習会を、グループに分けることによってより多角的な結論を求められる。
 ・学習会日時の設定はグループごとにひ小回りが利くので、忙しい人も参加が可能。
 このこぱっちの案を代表会は可決した。代表会のみでである。このことが11月危機の原因となった。

 さてその内容についてであるが、代表会内で案を出し合った結果、ランバ・ラル案の「帝国主義」と決まった。それにそってグループが結成される。素子がキャップの現代史班、こぱっちがキャップの日本史班、私がキャップの世界史班の3つである。今考えると豪華なメンバーだね、こりゃ。
 すべて段取りが決定した後に、合宿にてこのグループ制は発表された。そして夏休み明けの9月から実施されたのである。

 グループ制とは、おそらく代表会以外の部員には、何がなんだか分からないうちに決まってしまったことを、何がなんだか分からないうちに実行させられたという感があったのだろう。
 さしあたっては、グループ制そのものは、初めての試みにしてはまずまずの成功を収めたといっていいだろう。けれども一年生たちの中では、自分たちがカヤの外におかれている感じは強かったのかもしれない。
 代表会はその感情にまったく気がつかず、そして大学祭のいそがしさの中で耳をかたむけようともしない代表会に対して一年生のいらだちは強まっていつた。 。
 発火点はグループ制も大学祭も終わった後の11月。

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