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・11月危機(94/11)
・11月危機(94/11)
どういうきっかけだったかは覚えていない。しかし経過と結果はいやというほど覚えているし、不毛論争の歴史部の常には反して建設的な結果を生んだといえるだろう。けれでも俺的にはああいうのは二度とごめんである。
さて、1ケ月前後論争の続いたこの11月危機は、様々な問題を取り扱いながらもその根底は代表会と部員たちの距離にあったと言えよう。当時の言葉で言うならば代表会が枢密院化していたのだ。部員の意思が反映されない独裁機関となりかけていた。そのもっとも顕著な例がグループ制であったのである。
部員にあまり相談されずに代表だけで決定したグループ制の段取りは、まったく代表会の独裁であった。それを始めとした、さまざまな事柄に対して代表の独裁と横柄が糾弾されたのだ。
冷静に歴史として書いてはみたが、その責任者は私であり、今もって反省すべき点は多かったと思う。ついでに述べておくなら、この歴史記もこの11月危機のさなかに歴史部を見直すために書き始めたのである。
さて糾弾される代表に対して、糾弾する側の面々は“ぢ”を中心とする一年生、そしてこぱっちである。
疑問をもった読者もいるかも知れないので説明しておくと、こぱっちはグループ制が実施される前に代表を辞任していた。だから?代表を糾弾する側にいたのである。
まずはグループ制のテーマや実施方法が、ほとんど部員の意思を反映しなかったことが最初の論点となった。これは形だけ開かれていた部会において、賛成の方は挙手してくださいとかそんな程度にしか、部員が内容に係わることができなかったことである。そしてそれを皮切りに代表会への不満が噴出した。
“ぢ”が吠える、湊が冷める、きゃみさんキレる、いくまやる気なし、素子あたふた、こぱっちかきまわす、その他の人早く帰りたい。記憶のかぎりでは論争はこんな様子であった。
その際私はこぱっちに、おいおい、おまえがグループ制の発案者だったやんけ、自分で代表抜けといていまさら文句つけんなや、とは口がさけても言えなかったが、もう書いてしまったのでおんなじだ。
ところで3ページ前の代表会組織のくだりを思い出して欲しい。代表会が組織される際、私は部員との間に溝ができるのを恐れて、少しだけこぱっちの代表会案に反対した。ところが7ケ月たって見ると、かつて私がいった理由で私が非難されている。部員の意見を聴きながらものすごいデジャヴュを感じた。あれ? これと同じこと誰かがいったよな・・・俺じゃん! これは弁護とかじゃなくて、批判と実施の相違性、まあ要するに私が鳥頭だってことを言いたいだけです。
ここまてが11月危機の第1ラウンドである。
第2ラウンドは部則からやってきた。
第1ラウンドは最終的には、代表会の権限を明確化しなくてはならないということで一応の決着は着いた。代表会は部会に対しての助言のための機関であり、また部会において決定したことを実施していくものと定義されたのだ。
それを実施するためには部則を改正しなくてはならない。そしてこぱっちは、部則に11月危機の第2ラウンドの場を設けたのである。
その改正案の骨子は以下のようなものである。
1.部会の強化
2.代表会と部会の関係を明確化
3.代表の任期の期限(具体的には素子の代表からの除外)
4.部長再選の禁止(当時、私は来年も部長をやるといっていた)
これを見るとこぱっちの意図が何であったのかが分かるだろう。1と2は第1ラウンドの争点である。しかし3と4は明らかに別の意図をもって提案されたものだった。歴史部運営に新たな血の導入をこぱっちは考えていたのである。
これはこぱっちが私をみかぎったとか、素子の影響力を除外したいとかいった次元の低い問題ではない。こぱっちには遠大なビジョンがあったのだ。こぱっちはシステム化と法制度のエクスパートである。最良のシステム化とは、誰が実行しても一定水準以上の結果が導き出されることである。そのためにシステム内に古株が居座っていてはいけない。古株という人材に類らずにシステムの独力で結果を出すべきなのだ。
以上がこぱっちのビジョンを勝手に私が想像したものである。
しかし手前味噌ながら私にもビジョンはあった。手前味噌なので簡潔に書く。
まず私は長期政権論者である。システムは、システム独力で対応できない事態に際しては、結局古株の力を頼ってしまう。しかしそのシステムの外の存在だからして責任能力を有していない。無責任な古株であるよりは、責任を持った古株であるべきだというのが私の考えである。つまり当人が責任を負う意思があるかぎり、システムとしてそういった排除を行うべきではないと思う。
書いてみたらちっとも簡潔じゃねえじゃねえか。まあいいや。めんどくさい人は飛ばしてください。
ここでこぱっちと私の争点は、すべてを独力で解決しうるシステム化が可能かどうかということに集約される。私は不可能だと思い、こぱっちは可能だと思った。こぱっちはシステム主義者であり、私は能力主義者だった。それだけであり、それ以上でも以下でもない。
結果としてはその部則は1と2だけ可決となった。
さて、この11月危機は様々な副産物を落としていったが、中でも収穫だったのは1年生の活性化であった。それまでは学習会でも運営においても3Kにおされて引っ込みがちであった、きゃみさん・ぢをはじめとする1年生が、この11月危機の論争でキレたことによってなんだかアグレッシブになってきたのである。学習会での発言も増し、運営面でも積極的に係わるようになってきた。良質の部員では収まりきらない毒がにじみ出してきたのである(かなり猛毒)。95年度は彼等が主役になっていくのだ。
ふと思いついたことだが、もしかしてこぱっちはこれを目論んで11月危機の中心になったのだろうか。だとしたらこぱっちおそるべし。でも・・・まさかねえ・・・。
書き忘れていたが、11月危機の最中に私は部長に再選された。対立候補はなし。また、いなちんが局役員となったが、おそらく最初で最後の立候補であろう。
そうそう、最初で最後と言えばグループ制の冊子を読んで入部してきたbashiがいた。奇特な方だ、といっておこう。まあ、その後のbashiの働きを考えれば冊子を作ったかいもあった・・・かな?
bashiが入部した当初は11月危機の真っ最中。部則とかそういうつまらないやりとりを良く我慢できたなあと思う。私がその立場だったら、絶対次の週は来ない。
・魔首領奴素子・破壊王カツヒコ一本勝負(04/12)
それはカツヒコ秩序と素子秩序の対決をまさに象徴するような事件であった。
口論の原因はよく知らないし、私は現場にいなかったので分からないか、素子が女性でなかったら間違いなくカツヒコは殴っていたというくらいのやりとりだったらしい。あー! ほんとに惜しいものを見逃した! 毎日学校行けばよかった! 大後悔時代。
94年度はこぱっちを中心にして歴史部が動いた感がある。すなわちこぱっちが物事の重心であり舵であり、それに対して素子はその情熱とカリスマで歴史部の推力となった。いくまはなにしていたかって?
お客さん、ヤボだねえ。そういうことは聞くもんじゃないよ。
ともかくこの3人は3K(頭文字Kだから)と呼ばれ、94年歴史部の中枢であった。学習会においても、運営面においても。
あれ、BC=ビフォーCサワのC澤はCなのに、3KのK澤はKなのはおかしいな? と考える人がいるかもしれないが、語呂合わせなんてそんなものよ。だいたいあれ嘘だし。
さて、95年度は11月危機でブレイクした50’sが主役となっていく。
中でもきゃみさんと“ぢ”はおおいに主力となっていった。きゃみさんは学習会での槍働きは無双、その技の数々は私から学んだものである。えーと私淑の反対の言葉……そんなもんないか。とにかく私は勝手に弟子と思っている。ちょっとキャラクター食い合うけどね。
また“ぢ”は学習会の働きもさることながら、こぱっちが局役員の任期満了にともなって半隠居生活を送る中、事務面や企画面で活躍した。
それはプチいくまとプチこぱっちと言えるかもしれない。
しかしプチ素子はいなかった。それが95年度の大きな痛手となっていく。
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