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[以下、性癖のことながら…]
by赤いナポレオン
1.売春之事
今日の世は経済社会である。経済社会というのは社会全体が一定の分業体制をとって全体として「富」を生産する仕組みが整備されている社会のことである。この様な社会においては社会の構成員、各々が「職業」を持つことによって全体の歯車としての機能を果たしている。当然のことながら、それぞれの「職業」は尊ばれて然るべきだが、中にはそうではない職業も存在する。本節で取り扱う「売春」などはまさしくその好例といえよう。
「売春」は人類最古の職業であるといわれる。「売春」そのものが常に人類史の傍らにあったことはローマ帝国時代の娼館街、16世紀フランスの「鹿の苑」、そして現在も性格を変えることなく綿々と続いている吉原の街並といった史実が立証するところであろう。実際、この業界自体が数千年の永きに亘って不動の姿勢を示し続けるのは、この市場のパワーリソースが人間の本能そのものに位置付けられるからである。
つまりその需要に全く哀亡の兆しが無いということも云える。全体に不景気が叫ばれる現状において、これだけ健全な状況を呈す業界に対して、何故世間はかくも厳しい視線を投げかけるのだろうか。道徳的背景?古来、日本で売春が断罪された事実がいかほどにあっただろうか。裁かれてきたのは、橋の下の世界、つまりお上のコントロールから逸したヤミの中だけだったではないか。結局の所、「売春」という行為自体の社会的正統性が厳格に問われることになったのは西欧的、というよりはキリスト教的価値観が本格的に流入し始めた明治期以後のことではないか。無論のこと、これ以外にも一連の近代化の結果、一億総中産階級といわれる様になった現状の中途半端なブルジョワ意識が、くだらぬ形で首をもたげている影響かと思うのである。
この職業が人間にとって一番、身近な理由は元手が全くかからないということにある。だから、ジャパゆき(今はあまり見なくなったが、地方へ行けば未だフィリピン・パブが闊歩している)はこの手の仕事に走るのである。
理性的な発想で、自分の体を切り売りするのはよくないというが、あれは思考こそが人間の本質であるとする哲学的な独善によるものである。要するに一見して思考という精神的創造が伴わない獣の如き交わりは否定されるべきと言うのである。しかし好いてもいない男との交わりが、一個の人間から思考を奪い去り本能の獣へと変容させる程、甘美なものだろうか?私は決してそうは思わない。彼女らは好いてもいない男と「寝る」という精神的・肉体的苦痛の対価として報酬を得るのである。この意味で言えば、資本家と労働者との関係と同様なのである。だから、シオニストが姦淫罪で娼婦を石打する方が、まだ人間としてのリアリティがあると思うのである。
イスラム圏やアメリカのペンシルバニア州などでは、一夫多妻の伝統が強く残っているが、あれは「男の甲斐性」に依拠すればこそ存立するシステムである。近代的な視点からすれば、原始的で愛のかけらのないアジア的封建制の残骸と思えるが、近代がその様な「もちつもたれつ」の寛容さを人間から奪い去ったのだとも思えるのである。
石田純一は「不倫は文化」だと宣った。いくら本能といえど、余剰生産なき所に売春行為が栄えることがないのは当然のことであるし、一人の人間としてその様な社会の豊かさと接した為に、批判を一身に背負った宇野宗佑の本音を今こそ聞いてみたいと思うのである。
2.色髪之事
色髪のこと。則ち「チャパツ」のことである。最近、街中で色鮮やかな頭髪を見かけることが多くなった。個人的には別段、不自然な髪の色そのものが悪いとは思わない。世間がこれを悪いと見るのは、自然の状態を人為的な手法をもって変えるからである。要するに頭髪の意図的な変色は、無意識のうちに生活を規定する「一般良識」に対する抵抗なのである。その意味では現在のコギャル文化も、アル中リーゼント俳優や、伝統的な学生闘争に代表される「抵抗文化」の延長線上にあるのである。故に文脈的には、そうそう目新しさを呈するものではない。
日頃は世俗のしがらみに縛られてぶちのめすのみである私だが、今日はコギャル文化の典型ともいえるこの「チャパツ」現象の現代史的意義を確認してみたいのである。
比較的近い過去、則ち冷戦期に思いを馳せたい。具体的には50年代〜80年代である。いつの時代も若者文化は敏感に当世の相を反映させるが、それを振り返ってみたいと思う。
・50年代
半島動乱に見られる様に冷戦華やかなりし時勢であり、日本も未だ敗戦の傷跡癒えぬ時期であった。この間、日本では目新しい抵抗文化は生まれなかった。この時期、日本の国家戦略の第1義は「再生・復興」にあったのであり、そうした大目標に照らせば、「抵抗」は本懐の障害物以外のなにものでもなかったのである。ところが海の向こう、アメリカでは全く状況が違った。アル中俳優が登場し、その外見を不自然に繕うことによってクールな抵抗文化を形成することに成功したのである。不思議に思えるのが、先にも述べた通り、ベルリン危機に半島動乱と当時の国際情勢が「封じ込め」に向けてかなり逼迫したものだったにも関わらず、保守的な世相に反して若年層に「抵抗」意識が育っていったことである。
私はこの現象を資本主義の宿命とも捉えたい。今更述ベるまでもないことであるが、資本主義の本質は「市場」にこそある。そして「市場」の本質は高度の情報処理能力だと思うのである。故に膨大な情報を処理する過程で様々な価値観が発生してくるのは資本主義の宿命に他ならないと考えるのである。また50年代はパクス・アメリカーナが隆盛を極めた時期であり、この時期に発生した先鋭的なまでの「抵抗文化」はアメリカの巨大な国力の象徴でもあったと思うのである。
・60年代
この年代の後半には、パクス・アメリカーナは後退期を迎える。アメリカの覇権衰退に関して、理由を探れば際限ないがその引き金を引いたのは間違いなくベトナム政策の頓挫であったろう。もっとも本質的な理由は、日本及びヨーロッパの経済力回復によって「ドル」の国際競争力が相対的に低下したことにあったのは言うまでもない。
ただ特筆すベきは、日本における「抵抗文化」の萌芽である。植木等の「なんとかなるさ」「無責任社員」の登場はその後の、日本における抵抗文化に先鞭を付ける役割を果たしたのである。この年代も後半に至ると、「カミナリ族」やら「ゴーゴー喫茶」やらが登場するが、これらは広く社会的に認知されるものではなかった。マスコミの対応もむしろ否定的であり、これらの抵抗文化は社会的に、まだまだ秘めたるものに過ぎなかったのである。しかし、それ故に「趣」もあったのである。これが70年代に入ると、マスコミも積極的に迎合の姿勢を示すようになるが、その端を開いたのは間違いなく11PMと大橋巨泉だったと思うのだ。批判精神こそマスメディアの政治的根拠だが、この番組の登場によっていよいよタブーヘの進出が始まり、社会的良識という聖域へ彼等は足を踏み入れていくのである。無論、日本におけるこうした状況も、フリーセックスとドラッグをこよなく愛したアメリカにおけるヒッピーの登場に強い影響を受けたとも考えられる。こうした抵抗文化の社会的良識への侵入現象は、60年代のデタントとパクス・アメリカーナの衰退という国際現象を背景に出てきたとも考えられる。
・70年代
この年代から、日本の抵抗文化も本格的に花開いていく。いや開くというより、売名と引き替えに良き趣を二束三文で売り渡したというべきか。
・80年代
この時期、日本の抵抗文化も隆盛を極める。芸能界の出来事にはとんと疎い私だが、よく記憶している事件が二つある。それらを詳述し、この年代の政治的背景と絡めて抵抗文化における80年代の歴史的意義を検証してみたい。
*其の1:本多美奈子の装い*
70年代を今風のアイドルが発生する諸条件を準備した年代と捉えれば、80年代はそれらが一斉に花開いた時期と捉えることができる。この年代には従来のアイドルとは一線を画した、「あみん」(1)に代表される女性シンガーが何人も登場した。本多美奈子もそんな一人であった。ところが彼女はその暴挙ともいえる装いによって他の競争者との差別化を図ろうとしたのである。則ち「ヘソ出し」であった。
無論、これ自体は先と同様に突然変異的に発生したものではない。これ以前に、ピンクレディーが極端に足を露出する装いと、いたずらに青少年を誘惑する舞によって、記録的なヒットと引き替えに保守層からの反感を買っていたし、かたせ梨乃が「平凡パンチ」どころか、媒体としてはより影響力の強い11PMで足どころかその肢体をカバーガールとして世に供していたのである。
こう考えると、本多美奈子の不運は何もゴールデンタイムという悪条件に収斂されることではなく、何かしらの社会的背景にも、その遠因があるのではないかと思えるのだ。そこで注目すべきは、共和党レーガン政権の登場による冷戦の再燃である。この時、日本でパートナーシップをとったのは元海軍主計士官の中曽根康弘であったが、彼の極端な共産政権への敵愾心は、かの浮沈空母発言からも伺い知ることができる。
要するに、この年代は東アジアが再び緊張状態に突入した為に、日本も西側世界の一員として果たすべき国際的責務が浮上していたのである。(2)故に国内が、「赤い人が攻めてくる」といった恐怖心にかられて、一種の攻勢防御状態に陥り、ちょっとした挙国一致状態にあったのである。こうなると俄然、保守層の発言力が高まってくる。だけども、世の害悪すべてを葬る事は不可能だ。故に一番目立つポジションにあった彼女がその槍玉にあげられたのである。
(1)椙山女子短期大学現役学生の二人組ユニット。コンゴの某食人大統領との関連は未確認。
(2)ベトナム政策の失敗によってアメリカは「双子の赤字」というべき状況に陥る。レーガン政権は新経済政策(レーガノミックス)を推し進め、アメリカの国益と明確にコミットしていない地域での展開兵力の見直しを図った。無論、日本にも安全保障政策の見直し議論が盛んになった。
*其の2:岡田有希子の憤死*
名古屋出身の岡田有希子というアイドルが自殺した。理由は神田正樹が松田聖子と婚約したからだと「女性自身」はいう。
まあそんなことはどうでも良い。本稿で彼女の自殺を取り扱ったのにはそれなりの理由がある。それは彼女の自殺こそ現在の様なアーパーな状況を準備したと考えるからである。
恋敵に好いた男を寝取られる→絶望→リストカットもしくはバンジーという屈折した図式は絵的には大変愉快なもののそれが与えた影響は図り知れぬものがあると思うのである。この図式をより明確な形で継受したものが二つある。ひとつはコミック(より具体的にはレディースコミック)、もうひとつはドラマ(恋愛モノ)である。理不尽な社会と人間に対する怒りを自殺という無言の抵抗で表現した、岡田有希子の死に様には感心を越えて感服の念すら感じるが、こればかりはいけないと流石の私も思うのである。別に社会通念上、悪いというのではない。世の中の人間すべてが、プラトンが言う様な分別つく「哲人」であれば何の問題もないのである。ところがそうもいかない。何故ならば、子供の存在があるからだ。J・ピアジエは子供が精神的に「白紙状態(タブラ・ラサ)」にあると述べ精神的発達段階の重要性を説いた。つまり幼児期は「ユークリッド的空間認識期」といってサルやキ〇〇イと大差ないのだが、これが少年期〜思春期に至ると「非ユークリッド的空間認識期」則ち、物理的な何かよりも精神的な何かを志向する傾向に入っていくのである。故に人格が完成するこの時期は子育てにも一層の配慮が要求されるのだが、幼い頃より前述した様な、屈折した情報にさらされてきたこの時期の子供が、目下のところ「デキちゃった婚」を皮切りにバカを生産し続けているのである。国が傾くハズである。そして何よりもコイツらが、「チャパツ」に代表される現在の抵抗文化を世に啓蒙し、我が国における抵抗文化をおとしめているのである。いや正確にはそれに迎合したマスコミの責任が極めて大きい。
誤解しないで頂きたいことは、私が抵抗文化そのものを害悪として見てはいないということである。寧ろ、私は抵抗文化に対しては好意すら抱いているのである。ただ、現状のそれのあり方に関して、この上ない怒りを覚えているだけなのである。ルーズ・ベネディクトは「菊と刀」の中で、日本文化を「恥の文化」として位置付けた。まさしく其の通り。我々は日々、様々な恥を警戒しつつ緊迫感の籠もった「生」を生きているのである。その中で、秘め事の中にささやかな抵抗を見出すことは我々の生きる糧となっている。
ところが現状は、これを曝し事の様に扱っている。これでは抵抗文化の本質が失われたも同然である。抵抗は全ての人間が抱くものではなく、それを感じた人間によって抱かれるものなのである。しかも、それを担うのは社会の中でも絶対的少数者である。
故に敗北は目に見えているのだが、彼等少数者の闘争によって社会は成長していくものなのである。だから負け戦にこそ意義があるのであって、それを一億全員がやっては、抵抗文化の政治的根拠がないのである。極言すれば社会は絶え間ない闘争によってこそ成長があるともいえよう。だから方法論の相違ではあるが、ア〇ルフの着想は基本的に正しい。
寧ろ害悪は、マスコミの垂れ流す毒電波のフィルターの役目を果たさなくなった、大衆にこそあると思うのだ。いや回り回って、やはりマスコミの原因か?いや極論を言えば大衆民主主義の宿命かも知れぬ。要は、それだけの情報処理のキャパシティーしか持ち合わせていない現在の社会が臨界点に迫っているのか。
とかくあわれなる抵抗文化に対して、
右千を挙げてファック・オプ!もしくは
静かに「いとわろし」と見送るべきか・・・・・
3.淫乱電影之事
近年のアダルトビデオ(以下AVと略)でわろきこと2〜3。
自身の趣向を込めて。
個人的には気にしないと前節で述べたが、自分が付き合う、もしくは性交場面を自身に投影するAVにおいては別の話である。やはり黒髪しかないと思うのだ。自分が一番興奮するシチュエーショシとしては・・・
(場所):汚ねえ和室。詳細を言えば、広さは10畳くらいで間取りは北向き、障子は南向きに一枚。東向きには押入があって西向きには何も無し。そして北向きには観音の掛け軸と行灯、更に言えば掛け軸の下に大黒の木彫りなどが配置されていればなおのことよろしい。
(刻):草木も眠る丑三つ時。
(布団):せんベい布団。枕はそばがらが良い。最近は羽毛布団やシュークリームの如き枕がもてはやされるがよくない。また布団の下地は赤色、そしてシーツは白がよろしい。
(家具):何も無し。敢えて言えば、西向きに道具箱とキセル入れくらいが良い。テレビはよくない。
(相手):やはり黒髪がよろしい。長ければなおのこと良し。寝間着は死に装束の白がよろしい。男も同様であるが、着用の下着は赤のふんどしに限る。なお、女性の胸がことさら大きいことは良い。なぜなら和服は貧弱な日本人のイメージを想起させるので、そのアンバランスが良いのである。
(畳):縫って5年ほどしたものが良い。あまり新しいものは場にそぐわないし、かといって年代物は見苦しい。やはり5年前後のものは、適度に生活を感じさせるので良い。
だからダイヤモシド映像が好きなのである。
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