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帝国主義国の外交戦略(事実の羅列の時間)
byきゃみさん
今までのレポートで帝国主義とは何か、植民地での惨状、帝国主義になりきれなかった帝国、をやってきたので、私は帝国主義国の外交について述べたいと思います。
まず最初に帝国主義国が一堂に会したベルリン会議の頃から話したいと思います。ベルリン会議とは1877年〜78年に行なわれた露土戦争で勝利したロシアの南下を恐れた英・墺が露と土が結んだサン=ステファノ条約にいちゃもんをつけ、国際危機を招いたのでドイツの宰相ビスマルクが仲直りのために開いた会議です。この頃世界はドイツ(ビスマルク)を中心に回つており、この会議以後の国際情勢を『ビスマルク体制』と呼び、世界はビスマルクの思うがままに変動していきました。
ドイツはあらゆる手段を駆使して、ヨーロッパの平和と不倶戴天の敵フランスの孤立を進めていきました。その事は、このベルリン会議一つだけ見てもあきらかです。欧州の平和のために、力の均衡を謀り、そして各国の利害を調整し友好を深め、そしてフランスには起爆剤「チェニス」を与え、イタリアとの仲を裂くことに成功しました。(伊はチュニスがと〜っても欲しかった)
こうして、ビスマルクは1881年三帝協商(独・露・墺)1882年三国同盟(独・墺・伊)と次々に同盟を結び、当初の目的を果たしたのでした。
しかし、ビスマルクの引退とヴィルヘルム二世の新航路政策と3B政策により、このビスマルク体制は崩壊します。英国と同盟を結びたい二世はロシアとの再保障条約を更新することを辞めました。(英・露は仲が悪い)しかしその頃英国は「小英国主義」のグラッドストン内閣で、「名誉ある孤立」の立場を固持し続けている時期でした。そんなことで独は英と結ぶ事はできず、おまけに手を切ったロシアがフランスと手を結びドイツは二大陸軍国に挟まれる形になってしまいました。もう〜馬鹿っ面!!
この「露仏同盟」により世界は、三国同盟・露仏同盟・「名誉ある孤立」の三者によって分割される事になりました。イギリスはどの国とも手を結ばず「フリーハンド」を保つ方が得策であると考えていました。しかしこの政策も陰りが見えてきます。1894年の英国と蘭国王レオポルド二世との密約事件によりなんと独・仏・露が急にくっつくという奇妙な現象が起こりました。(なお、このとばっちりを受けたのは日本でこの後、この三国に三国干渉されるはめになるのです。)この対英連合の出現で英国は欧州でも極東でも「孤独」の悲哀を感じなくてはいけませんでした。
これは完全なイギリス外交の敗北で、英・独の亀裂は、親独派のソールズベリが首相になっても、トルコ分割での拒否、クリューガー電報事件などで完全に別れてしまいました。英国はボーア戦争により欧州諸国民の反感をくい、露仏同盟、三国同盟の二つの勢力集団のあいだに立って、「孤立」をつづけるのは不可能になってしまいました。
このように欧州がごたごたしている間に、新大陸ではアメリカ合衆国がフロンティアを開拓し、1880年代には海外へ膨脹し始めました。サモア諸島を手始めに、クーデクーに見せかけた(?)ハワイ併合、陰謀臭い米国の老朽戦艦メイン号爆破事件を切つ掛けにおつぱじめた米西戦争(満州事変とかわらんやんか。)とアメリカは極東に影響力を強めていきました。そして99年「門戸解放宣言」をだすにいたるのでした。
さて、イギリスがやっと孤立から抜け出す時がきました。その最初の相手は、極東の島国日本でした。何故英国が日本を選んだのかといえば、それはロシアの南下でした、清で起こった義和団の乱にじょうじたロシアの南下は止まることを知らずこれは列強各国の驚異の的でした、そこでイギリスはドイツに接近し1900年に「揚子江協定」を結び、それを他の八か国連合国に参加するように勧誘しました。(ここでいう八国とは、墺・英・仏・独・伊・日・米・<露>)しかし満州に権益のない独は露の進撃を容認し、英の考えたように防波堤の役割りにはなりませんでした。そこに現れたのが露の南下を最も恐れていた日本でした。日本はこの協定が発表されて三日目には、はやくも加盟したいといってきました。その同時期にボーア戦争をしていたイギリスの強力な(?)防波堤として日本はまさに渡りに船でした。そして1902年日英同盟が成立しました。
次に日露戦争が起こした世界的変化について述べようと思います。日露戦争が始まって一番困惑を感じたのはイギリスとフランスでした。イギリスは日本と、フランスはロシアと同盟を結んでおり、英・仏の関係を微妙にしました。しかし、「極東」での日・露の争いのためにヨーロッパで戦端を開くというような、国家利益を無視した愚かな考えは毛頭なく、それどころかナポレオン戦争、いや百年戦争以来の不倶戴天の敵であるのに、1904年の2月から四月までという短期間に英仏協商を結ぶまでに至ってしまったのです。そして日露戦争が終結しポーツマス条約を結ぶことになったのですが、この条約はご存じの通りに賠償金のとれない条約であり、日本は戦後処理をしようにもお金がないという状況になっていました。イギリスとは戦時中に多額の借金をしており、そこで金利の安いフランスに目をつけ、1907年に日仏協商を結びました。またイギリスは、戦争と革命で国力が衰退したロシアよりドイツを脅威に感じ、ロシアと手を結ぶほうが良策と考え、1907年に英露協商を結びました。そして1907年には日露協商が誕生しました。
こうした三つの協商はどれも他の国々には、予想もできない出来事で、半世紀ぶりに見られた国際上の大変動でした。一般的にこの出来事を「外交革命」と呼んでいます。この外交革命により今度はドイツ中心とした三国同盟が他の列強に包囲されています。
ビスマルク体制のときと比べると大きな差があることが分かってくれたでしようか。おまけに三国同盟の一角イタリアはフランスと仏伊協商を結び、ドイツがフランスに攻めてもドイツに味方しないと約束していたのです。三国同盟は1902年に実質的に二国同盟と化していたといわなくてはならないでしよう。
この外交革命は英・独の対立が生み出した結果で、ドイツの3B政策がイギリスそしてロシアを刺激し、またドレットノート級戦艦を切つ掛けに始まった建艦競争も大きくイギリスを外交革命に走らせることになりました。そしてこの国際関係の中で、サラエボの一発の銃声により帝国主義の終焉である世界大戦が始まってしまうのでした。
さて、続きは次のレポートで....完
話終わって、感想は?
・ヴィルヘルム2世にかわってから積極外交、特にアジアに対しては黄禍論を展開した。
・そのくせ日英同盟をお膳立てしたのはドイツである。ヴィルヘルム外交自体に一貫性がない。
・アメリカ帝国主義の出現は、日米対決を誘発させた。
・日露戦争は世界史のターニングポイントと考えるなら、イギリスは自らの首を絞めたことになるのではないか。
・現に日露戦争の結果は欧米の統治下にあるアジア・アフリカ諸国が極東の小国、日本が大国ロシアに勝ったことで勇気付けられたことは確かである。
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