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学習会いなちんレポート

byいなちん  帝国生義日本史班第二回 日清・日露戦争
日清戦争:1894年6月東学党の乱鎮定のため、韓国政府の依頼を受諾した、大清帝国が出兵すると、大日本帝国も出兵し、牙山〜京城間に対時。その後、大日本帝国は、朝鮮内政共同改革を大清帝国に提議して拒否され、他方大英帝国との条約改正に成功して同帝国の援助を期待し得るに至って、7月豊島沖海戦で戦線を開いた。8月1日宣戦布告した。陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領し、北京・天津を脅かした。海軍も9月には、黄海海戦に勝って制海権を握り、翌年1月威海衛攻撃で北洋艦隊を壊滅させた。このころ列国の講和勧告が相次ぎ、大清帝国からの講和の打診もあり3月下関の春帆楼で大清帝国全権伊藤博文・陸奥宗光との間に講和会議が開始された。

  日清戦争勝利による日本への影響と成果
影響:諸外国が、日本の実力を一定レベルまで認めたため、日本を危険視するロシア、ドイツ、フランスが日本に遼東半島の還付を要求するに至った。
成果:朝鮮の大清帝国支配からの完全な切断。
   遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲。
   償金二億テール(庫平銀)の七ヵ年賦支出。
   日清新通商条約の締結。
   威海衛の一時占領。

三国干渉:日清戦争の結果、大日本帝国が大清帝国から遼東半島を得ることになった際、露・仏・独3国がそれをもって大清帝国の首都を危くし、李氏朝鮮の独立を名目化して東洋の平和を害するとして還付を勧告することによって行った干渉。
大日本帝国は3国の圧的な軍事力の前に屈し、1895年、5月遼東を放棄した。この干渉は列強のシナ分割政策の契機となり、露は満州、独は謬州湾、仏は広州湾、英は楊子江沿岸におのおの権益を獲得。大日本帝国内では、臥薪嘗胆が叫ばれ、全力が次の戦争準備に集中されることとなった。

日露戦争:1904〜1905
満州を主戦場として戦われた戦争。帝国主義時代の最初の強国間の戦争で、日本の国際的地位、及び日本の東亜進出の基礎を確立した。帝政ロ
シアは三国干渉以後、東清鉄道敷設権を獲得し、大連・旅順を租借、韓国に手を伸ばし、更に北清事変以後満州支配の意図を露骨に示した。このため朝鮮・満州・華北に国外市場を求め大陸進出の機会をうかがっていた日本は、ロシアと真向から対立。共同利害をもつ大英帝国と、ロシアの南下政策を防ぐ目的で1902年日英同盟を結成。また米国は門戸開放・シナ領土保全を唱えて反露的対度を取っていたから、日本は米英の支持を受けて強硬政策をとり、朝鮮を日本の保護国化することを要求、容れられず、1904年開戦。日本の海軍は旅順及びウラジオボストクの艦隊を潰滅させ、陸軍もまた遼陽・沙河に勝利。旅順を開城させるなど軍事的には優勢。しかしロシア軍に潰滅的打撃を与え得ず。一方国内では日清戦争当時と異なり、非戦論や反戦論が、内村鑑三・幸徳秋水らにより主張され、アムステルダムの第二インタナショナル大会に出席、ロシア代表プレハーノフと両国の軍国主義打倒を誓うなど、反戦的世論も形成された。またロシアでは帝政末期の矛盾が激化し、1905年労働者、市民による「血の日曜日」とよばれる未遂の革命が勃発し、兵士は戦意を失った。国内の革命運動の激化と奉天の敗戦、バルチック艦隊の潰滅のため、ロシアはなお戦闘力を有したが、米国大統領セオドア=ルーズベルトの勧告を受け入れ講和に同意、ポーツマス会議を開催。曲折の後、日本は韓国保護国化、遼東半島租借、南満州鉄道割譲の要求を貫徹。更に樺太南部を領有した。これにより日本の資本主義は原料供給地を獲得し、商品輸出市場を確保して急激に発展したが、講和条件に対する民衆の不満はポーツマス講和条約反対運動として発展し日比谷の焼き打ち事件を起こした。

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