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ナチスは何故成功したのか
ナチス=ドイツの勃興
世界恐慌の結果、国民経済に深刻な影響を受けだドイツでは、右翼のナチスと左翼の共産党の勢力が急速に増大した、ナチスは大戦直後ヒトラーによって育成された政党で、正式な名称を国家社会主義ドイツ労働者党と称した。その綱領は、イタリアのファシスト党と似ていて、ドイツ民族の優秀性を説き、ヴェルサイユ条約の破棄、植民地の再分配、ユダヤ人の排斥をとなえる一方戦時利得の没収やトラスト国有など一見、社会主義的な政策を掲げて、国民生活の安定を約束した。その過激な言動は始め国民の支持を受けなかったが、世界恐慌の結果生活の不安に悩んだ中産階級の人々のなかにはそれに動かされるものが増え、また共産党の進出に脅かされた資本家や軍部がナチスを援助したので、1930年ごろからその勢力は急速に拡大した。ナチスは32年の総選挙で第一党となり、翌年ヒトラー内閣か成立した。
新政府は国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧し、社会民主党などを解体させ、ナチスの一党独裁を実現した。ナチスは民主主義を否定し、大規模な土木工事や軍需工場を起こして失業者を救った。1934年、ヒンデンブルク大統領が死ぬと、ヒトラーは総統と称して最高主権者となり、言論・出版の自由を無視し、労働組合を禁止し、教育を国家の支配下におき、秘密警察・突撃隊・親衛隊などを通じて厳重な統制を行い、ユダヤ人を迫害した。そのため、社会主義者・自由主義者・ユダヤ人などで海外に逃亡するものが多かった。ヒトラーの指導のもとで国力を貯えたドイツは、ヴェルサイユ条約破壊に乗りだし、33年には軍備平等権を主張して国際連盟を脱退、35年、ヴェルサイユ条約の規定による人民投票にしたがってザール地方を併合した。また義務兵役の復活と再軍備の宣言を行い、イギリスと海軍協定を結んで対英35%の海軍力を持つことを承認させた。このドイツの再軍備に対抗して35年フランスとソ連が相互援肋条約を結んだことを理由に、トイツは36年ロカルノ条杓を破棄してラインラントに進駐して、列国を驚かせた。
〜ナチスについてはこんなもんです。
さて、それでは、どうしてドイツ国内においてナチスが成功したかを考えよう。
〜北ドイツにおけるナチスの成功〜
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州 …西ドイツの北端、面積は15070平方キロ、人口151万9365人(1925年)、圧倒的な農業国。
州全体を見ると
・大規模な名農家と一般自営農民の区別はない。
・多くは郷土の熱愛者。
〜農村住民運動→古い農業国体の権威を徹底的に失わせ、結果としてはナチスの勝利を許した。
1928年夏から秋、農業恐慌→農場の強制競売→納税拒否運動。
マルシュ地方(この地域の西海岸)→徹底的に痛め付けられた。
運動は議会主義的方法を否定し、直接行動を扇動した。
・納税の拒否、差し押さえと強制競売の禁止、この運動に参加しない農民をボイコット。
・現体勢の行政機関への協力を拒否。
国家機関と農民の間に衝突事件、農民の大量処罰。
運動は北ドイツと中部ドイツの各地に広がったのだ!
農村住民運動は自分らの組織を作らなかった→運動の行動性と闘争心が弱まらないように。
1929年秋、応急委員会→各地において農協同盟、シュターヘルム、ナチス、etc……。
保守系と極右系の活動家の参加。
ところが、金融機関や郡役所に爆弾を投げたりもした……
↓
農民らが運動から離れだし、ナチスもいったん手を引いた。
ナチスが関係ありと見られ迷惑→ナチスの競争相手ともなった。
↓
運動は夏から秋に再建・拡大→しかし、その主導権はナチスに奪われていく。ナチス系の農民同盟は農民の見方をする形式を確立、一連の経済政策的要求を提出。
この運動がテロル事件や冒険的な極右運動指導者の活動によって一般の信用を失うと、この運動に対する反対を表明し、農民の抵抗運動そのものへの指導権は維持した。
農村住民運動の特色
まず、この運動の指導者のほとんどすべてが公的にはまったく責任のある地位をもっていなかった。つまり、農業利益団体の公式代表者の権威と指導に対抗するためである。
しかも、最初から国家権力の奪取を拒否し、ただ既存の支配体制を動揺させるためだったので、運動の浸透力は限られていた。
堅固な組織を作らなかった理由
1)官僚的機関を作り上げれば、運動が柔軟性と新鮮さを失う。
2)官憲性の弾圧をかわそう。
3)広汎な農民大衆は過激な反逆運動にはとてもついてこない。
4)ゆるやかな組織にしておけばいろいろな既存右翼組織や団体の活動と競争したり衝突することもない。
・農民たちは運動が失敗、農民自身の政冶活動だけではダメ
既存の農業利益団体も政党も共産党もダメ
↓
社会的変革を阻止しながら、伝統的農村の古い身分的体制や大資本の農業経営の諸弊害を変革して、農村の再編成を行い農民を救済できる政党…
ナチスしかない!!
〜1930年のナチス農業綱領〜
1930年、3月農民運動が鎮静し、しかも他方では旧来の諸政党が農民層の信頼を失っていた時に、ナチスは新しい農民綱領をもって大衆の前に現れた。
そこでは農業生産率の低減による利潤の再確保(利子の引き下げ、人造肥料と電気料金の価格の引き下げなどによる)、仲介商業の利益の引き下げ、保護貿易、農業経営に対する租税の単純化と引き下げ、土地価格の切り下げ、
−以下による農業利潤の再確保、農業労働者を農民職業共同体の中に編入し、公正な労働契約を結ぶことによる労賃問題の解決(したがって、工業における賃金協定方式を農業労働者の賃金決定のために導入する事には反対、農業労働者にとって極端に不利にならない程度で、農業労働者と大農業主の双方を満足させるような賃金協定)、さらに外国人の季節労働者の排除、住宅事情の改善、内地植民による生活向上などが主張された。
こうして、ナチスは、他の政党と比べ、農業を優先するという事で農民をひきつけた。
↓
こうして、農民の大半は加入していった。
ナチスが成功した原因は、ワイマール共和制を攻撃したためではない、この点だけならドイツ国際人民党もひけをとらない、また党が農業保護関税、利子引下げなどと具体的な要求を引下げたわけでもない、この点においては、ラントフォルク党、経済党、その他の中産階級党も大資本や大土地所有者に対して具体的要求を掲げていた。
〜ナチスが成功した原因
ナチス党が大発展した原因は、これらの要求を十分にふまえ、かつ統合しながら、革命運動まがいの運動形式をとって、社会主義運動にも規制市民政党にも飽き足りない、中産階級の大衆の政治的エネルギーを結集することにした点にある。党は権力を奪取して自党の独裁を立てることを不動の目的として活動し、党費、演説会入場料、寄付金などの徴収を厳密に実施して党財政を確立し、運動形式としては党員に全生活を党活動のために集中することを要求した。このことは農林地帯においては、夏になると生活上で莫大な犠牲を要求する結果となった、しかし、また全生活を党活動に集中した人々の間では、一種の生活共同体が生まれる事になった。この生活共同体をバックとして強制競売を阻止し、党員である小商売店主や職人のために広汎な顧客層を確保し、党活動のために地位や就職を失った人々のための相互援助を行い、その他の各種の困難が起こったときに、党員が相互に助け合うことなどが行なわれた。
民主主義と社会主義の牙城といわれてきた資本家農業地域、シュレスビッヒ・ホルシュタインで、ナチスが他の州に勝る大成功を収めた原因は、以上見てきたように、党がこの州で積極的な業績をあげたこと、また他のすべての政党に飽き足りない大衆をひきつけたこと、そして多くの有能な地方下級幹部に恵まれていたことなどのためであった。
しかし、それにかえてこの州の自由・民主派との間に民族共同体思想。農本主義・反大資本主義・強烈な国家主義など、多くの共通地盤があった事実、また、当時の農業経済の体制が自由放任主義から統制経済主義に移りつつあったこと、そして農民層がそのような農業統制政策による保護を望んでいた事実も強調しなくてはならない。
このうち、農業統制政策の要求、すなわち適正な農業物価格の制定、経営の収益性の確保、その他要求の背後にあるのは、経営の自由性の制限と農業の国家的統制と保護の思想である。この州の農民たちは、投機性の強い個人的農業を行っているうちに、農業市場の不安定性という壁にぶつかった。
作物を専門的に単作化した先進的経営ほど、市場の不安定性に悩まさねたし、この不安定性は多角経営の可能な大農場よりも、中小農場のほうがずっと大きかった。中小農民たちは個人生活と営業の双方における自由を選ぶべきか、それとも経営と生活の安定を選ぶべきか。
ためらうことなく後者を選んだ。
感想・質問・意見…
◆国の基本は農業である→その農民の意見を聞けば党は発展→一党独裁も夢ではない。←ヒトラーはこれを実現していったんだなぁ。
◆重商主義だなぁ。
◆ヒトラーの個人的資金というのは大変謎である。クルップなどの大資本が資金を出していたらしい。(←農民は、これにくっついてきただけなのではないか?)
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