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まったく役にたたないゲーム業界史3

 
byきゃみさん
 前回は任天堂の歩みとTVゲーム市場の誕生について述べたが、今回は、ファミコンと任天堂の勝利の秘密を詳しくみていきたい。今回もゲーム業界を中国の三国時代に例えながら話していこうと思う。さてある人によると任天堂は魏、セガは呉、ソニーは蜀なのだそうだ。しかし私に言わせると、任天堂は魏、セガが蜀、ソニーは晋、そしてPCエンジンや3DO、NEO・GEOなど他社のゲーム機が呉であると思う。そのへんを頭にいれてこれからの文を見ていただきたい。
〇董卓(アタリVCS)滅びる、世界を揺るがした「アタリ・ショック」
 1982〜3年、任天堂のファミコンが市場に出るのと相前後するようにアメリカでアタリの築いた巨大な市場が崩壊した。30億ドルを超えていたゲーム市場が突然なくなり、わずか一年で業界全体の総売上が1億ドルにまで激減してしまったのだ。「アタリ・ショック」と名づけられたこの出来事は、アメリカの経済学の教科書にも取り上げられるほど有名な経済事件で、典型的な悪貨が良貨を駆逐してしまった例である。事の顛末は、アタリのハードが普及するとともにゴールド・ラッシュに群がる開拓者のようにサードパーティが参入、粗製ゲーム(クソゲー)が氾濫した。さらに致命的なことに、当のアタリ社においてもプログラマーたちが一獲千金を狙って退社しVCS用のゲームメーカーを設立していったため、本家のソフト開発力までが低下し、本家自らクソゲーを乱発し始めたのだ。混乱した市場に、ノウハウも持たない他業種からまで金脈を求めて参入し、いよいよゲームの水準が落ち、そしてユーザーに呆れられ、この巨大な市場の崩壊となったわけである。
〇魏(任天堂)、アタリ・ショックを恐れ市場管理、恐怖政治を開始する。
 アタリ・ショックは任天堂を恐怖のどん底に陥れた、任天堂はこれと似たような経験を一度したことが有ったのである。それは「ゲーム・ウォッチ」の時である。ゲーム・ウォッチは前回話したように大ヒットし市場も爆発的に拡大したが、先行者利益を享受できたのはわずか3年あまりで、特許の取得に手間取っている間に他社の参入を許し、お互い食いつぶし会い、ブームも去って市場は一夜のうちになくなってしまったのである。
 同じ失敗を繰り返したくない任天堂、そこで考え出されたのが「ファミリーコンピューター、ファミコンは任天堂の商標です」の文句と、あの悪名高い「ライセンス制度」なのである。
 市場を他社に荒らされないように管理するには、ファミコンに法的保護を求めなくてはならない、と言うことで任天堂は商標に頼ることにした。(特許権や意匠登録では時間がかかるため)市場で商標を確立すれば、著名ブランドにただ乗りする商法を禁止する「不正競争防止法」に訴えることができるのである。例えば、他社が勝手にファミコンと互換性のあるソフトを開発しても、任天堂の了解を得ずにはファミコンの名称を使うことはできないのである。結果として、他社は任天堂の管理下に置かれてしまわざるを得ないのである。
 また当初、任天堂がサードパーティに課したのはそのソフトがファミコンのハードに適合しているかどうか、年間のタイトル数の制限などだけであって、最初にサードパーティに参入した通称6大国には比較的に自由にファミコンソフトを開発し、自社のルートで製造し、発売することが可能だった。しかし1984年、有る事件をきっかけにサードパーティに対してのしめつけがきつくなった。その事件はハードとソフトの規格が合わず、ソフトがハードに入らなかったりしたため回収騒ぎになったと言うだけの事件だが、これを機に任天堂はその後、すべてのソフトをOME生産に切り替えたのだ。つまり、ソフトメーカーが任天堂にソフトの生産を依頼し、任天堂はその本数のソフトを製造、(実際はシャープなどの家電メーカーの工場で行われた。)そして製品をソフトメーカーに納品するように改めたたのである。これが悪名高き「ライセンス制度」である。
〇濡れ手に粟、粟、粟、任天堂造幣局「ライセンス制度」(屯田兵)の仕組み
 さて、任天堂の「ライセンス制度」であるがもう少し詳しく述べたいと思う。一見すると任天堂がソフトメーカーの下請けになったように見えるが、実際はまったく逆で、任天堂の超高収益の構造を支え、同時に全ソフトメーカーを任天堂の管理下に置く体制の集大成と言ってもいい。その理由として任天堂のライセンスを受けたソフトメーカー(ライセンシー)にはある条件が課せられたからである。それは発注は1万本以上、しかも前金でと言うものである。(その他に、Hなものや暴力に対する規制)この仕組みをもっと具体的に見ると、まずソフトメーカーはおもちゃ屋に営業をして回り注文を取る、注文の総数がまとまったら、ソフトメーカーは任天堂にカセットの製造を発注する。(1万本以上)仮に標準希望小売価格1万円のソフトで仕切り価格を55%とすると、このときソフトメーカーが任天堂に支払う金額はおよそ3500円から4000円だと言われている。内訳は製造原価が1500円から2000円、任天堂へのロイヤリティが2000円であるが、カセットの納期は受注してからほぼ二カ月を要するため、例えば10万本の発注、支払いを3500円にすると、任天堂は労せずして得た3億5000万円を二カ月間にわたって運用することができる。(逆にソフトメーカーは任天堂に対して3億5000万円を前払いしなくてはならない。)その内、2億円はほぼ利益として計上される、もし100万本とすると利益は20億円。それらの莫大な金は営業費や広告宣伝費といった販売管理費もかからずに任天堂に転がり込むようになっているのである。もしもそのソフトが一つも売れなくても、すべて生産委託制度という名の下にソフトメーカーが買い取らなくてはならないので任天堂は損害を被ることはないときたもんである。
 任天堂のこの悪どい商売、(と、言いながらこの後のTVゲーム業界は多かれ少なかれ任天堂方式をまねしている)実際には日本型の古い流通機構のお陰で成立したと言ってもよいだろう。一時玩具の流通総額の70%が、ファミコン関係で占められる状態にまでなった。これが、どれだけ異常な事態かと言うと。例えば寡占状態がよく問題になる、ビール業界(最近はそうでもないらしいけど)でもキリンのシェアは50%には達していなかった。それも同種の商品の中だけの話で、ファミコンのそれは訳が違う。例えるなら食料品という業界全体で、単一の商品コイケヤ“ポリンキー”が70%に達するという状態を創造してちょうだい。そんな状態の中で流通側は、任天堂の意向にそわぬ行為は自粛してしまい、メーカーとしては流通を考えずに商品を企画するこはできない。つまりファミコンの一人勝ちのの構造が、一種の「権力」を任天堂に与えたのである。
 ここでちょっと考えてみよう。このライセンス制度、ファミコンで稼働するソフトを開発して販売するのだから任天堂にロイヤリティを払うのは当たり前だと思われるかもしれないが実は異常な話なのである。ビデオのことを考えてみよう、東映がVシネマを製作するときにハードを作っているビデオ・メーカーにロイヤリティを支払うなどと言うことは考えられるだろうか?これを認めさせる任天堂の権力、そして逆らえないソフトメーカーと問屋・・・これが任天堂独裁の実情である。この制度によって儲かったのは任天堂だけでありソフトメーカーや問屋、そしてライバルであるセガにとっては苦しい苦しい制度であったのである。では次にソフトメーカーについて述べたいと思う。
〇名将たちの参入
 ファミコンの発売当時はまだ先行きが不透明である上、厳しく商標を守りロイヤリティ契約を結ぶことを最初から要求するファミコン・ソフトを作るメーカーはなかった。(任天堂はもともとソフトもハードも自社で独占販売すると公式にコメントしていた。)しかし好調なファミコンの売上を見て任天堂のサードパーティへの参入呼びかけに他メーカーも腰を上げた。まず、ファミリーベーシックを任天堂と共同開発したハドソンが「ナッツ&ミルク」「ロードランナー」を発売した。ロードランナーはハードの普及が125万台の時代になんと100万個を売り切ったのである。この業績によりハドソンは前年比の4倍、53億4000万円円の売上を記録した。
 そして同時期に参入した業務大手のナムコも1984年9月から次々と業務用ソフトをファミコンに移植し始めた。そして同年11月8日に発売された「ゼビウス」はミリオンセラーとなった。このゼビウスのヒットでナムコがビルを建てたことは有名であるが、もともと業務用の傑作ゲームとして熱狂的なファンをもっていたため、ゼビウスをやれるからファミコンを購入すると言うゲームマニアが続出した。(いくまもそうらしいコンチクショー)
 このようなサードパーティとの相乗効果によってますますファミコンの普及に拍車がかかった。さてこの時期に任天堂の方から声をかける形で参入したサードパーティは先程のナムコ、ハドソン、それにタイトー、カプコン、ジャレコ、コナミの六社であり、これらの会社は六大国と呼ばれこれ以降に参入してきた他のサードパーティとは比べものにならないほど有利な条件を与えられていた。
(例えば、一般メーカーが任天堂に払っていたロイヤリティー5000円のソフト1本につき1000円だったのに対し六大国は200円程度、そして一般メーカーが年3本しかソフトを開発してはいけなかったのに対し六大国は無条件、ソフトも自社生産してもよかった。ただし先述のOME問題やスーパーファミコン発売における契約改正によって他社と同じ条件にもどされている。この特権の廃止に猛反発したのがナムコで後のPS移籍の布石となる。)
 その後、85年には「ドラクエ」のエニックスや「ダビスタ」のアスキー、そしてバンダイなども参入してきて、サードパーティは、どんどん増加し始めた。
 その背景には、当時のパソコン・ソフト業界は大きな資金がなくても開業が可能だったが、パソコン・ソフトでは売れてもせいぜい1万本程度であった。それに対しファミコン・ソフトは数十万単位で売れるソフトが続出したのだ。次から次ぎへと参入してくるメーカーから続々リリースされるゲームの中には粗製濫造のクソゲーが多発した。しかし、ブームの熱気の中でつまらないゲームまで十万単位で飛ぶように売れた・・・って、それじゃあアタリ・ショックの時と同じじゃん。アタリ・ショックの教訓から生まれた市場管理はどうなったのと思われた人もいるだろう。しかし市場管理は大成功していた。当初の目的であったソフトの質を支えるのではなく、任天堂の高収益を支える完璧なまでのマシーンとして大成功をおさめていたのである。
〇ファミコン、全盛期
 1985年、ファミコンの勝利を決定づけるソフトが本家任天堂から発売される。「スーパー・マリオ・ブラザーズ」である。これ、発売数カ月で200万個を突破し、このヒットにつられて同年6月、初のファミコン雑誌「ファミリーコンピューターマガジン」が徳間書店から発売(12月号ではすでに60万部)、また同時期に「スーパーマリオブラザーズ完全攻略法」なるいわゆる攻略本も発売され、2カ月で60万部売れた。これを見た他社も続々便乗し、マリオのキャラクター商品も街に溢れたのであった。この年の暮れ、任天堂が最終目標としていた600万個をファミコンは突破し、ファミコンはある意味で商品であることを越えた、社会現象になったのであった。だがそれと同時に、様々な社会問題を引き起こすことになったのである。

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