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知多太郎侍
byきゃみさん
◇知多太郎侍
草木も眠る丑三つ刻、ところは美作58万石の城下町東粟倉村。今日も国家老サト蟹江守と材木問屋林屋が悪の謀議をおこなっているのであった。
林屋:「ふっふっふ、サト様…今回の粟倉農業空港の件すべてうまく運びまし
たな。これでご家老様の思うがまま、これは、ほんのお礼で……」
(黄金色の包みを渡す)
サト:「なになに、林屋そちもこれでますます甘い汁が吸えるというもの、互
いに巨大公共事業で肥え太ろうではないか、ハッハッハッハッハ。」
と、どこからか闇を切り裂くように、鈴のついた小柄が飛んできて畳みに刺さる。障子を開けると聞こえてくるのは、不気味な響きの笛の音と、鼓。闇の中に浮かび上がる、鈴木その子の面をつけた知多太郎の影。
サト:「何奴!」(ざわめく男たち)
知多:「知多から生まれた、知多太郎!」(用心棒が集まってくる)
「ひとーつ、人の血税をすすり」(頭上に掲げていた薄物を投げ上げ、
面をはずし、剣を抜く知多太郎)
「ふたーつ、ふらちな建設三昧」(襲いかかる用心棒を次々に斬って
いく知多太郎。バタバタと倒れていく。)
「みーっつ、醜い地方の鬼を、退治てくれよう、知多太郎!」(林屋、
そしてサトを斬り、知多太郎は眉間に皺を寄せ、大きく「ふーっ」と
息をつくのだった。)
知多:「武豊町は地方交付税交付金を一銭ももらってないの!!」
◇桃太郎侍の正義
もちろん、この作品は「桃太郎侍」のパロディーだが、知多半島在住の後輩がこよなく愛するこの時代劇、主人公はあくまで“正義”のために悪者を斬り殺しているのであって、決して他者からの報酬や尊敬を求めた行為ではない。だがしかし、こいつが殺人愛好家で、人殺しが好きで仕方ないことは明白である。そうでなければ、殺人の現場にあんな派手な扮装に着替えて行くわけがない。そして「ひとーつ、人の生き血をすすり」と言いながら人を斬り殺す様などは、はっきり言って常軌を逸した光景である。
奴は、あくまで自分のものさしで善悪をはかり、“正義”を行動基準に人殺しをする。元々人を殺すのが好きな奴が、自分の行為が正しいと思って人を殺す。そこには歯止めも何もあったものじゃない。だが、時代劇にはそういう抑止力なき、“正義”の殺人狂がけっこう登場するのである。
◇正義の虐殺
しかし桃太郎侍のような“正義”の殺人狂はフィクションだけの存在じゃない。人間は常に“正義”の名のもとに、ジェノサイドを行ってきたのだ。それは歴史を振り返れば明白である。ヒトラー、スターリン、ポル・ポト、文化大革命、そして原爆投下。オウムがサリンを撒いたのも、彼らにとっては間違いなく絶対的な“正義”というものをを信じていたからこそできたのである。
“正義”は“正義”であるが故に、全く歯止めがない。だから一度でも暴走が始まったら行き着くところまで行ってしまうのである。彼らのように絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させてしまうだろう。自分が善であり、対立者を悪とみなして思考停止してしまうと、そこには協調も思いやりも生まれない。自分を優越化し、相手を敗北させ支配しようとする欲望が正当化されるだけなのである。
正義とは立場や状況によって変化するおそろしく相対的な概念であり、それを絶対化しようとしたときファシズムという悪魔が顔をのぞかせるのである。
◇国連という正義
さて、現在“正義”の代表といえば国連、そして国連平和維持活動ではないだろうか。その実動部隊“PKF”も“正義”の名の下に愉快に殺戮を繰り返している。イラクでは塹壕ごと兵士を生き埋めにしてみたりしたのは有名だが、ソマリアやカンボジアなどでも相当悪いことをしている。特にひどいのはソマリアで、黒人国家ということや国連軍初めての武力行使ということでソマリアでの国連軍は目茶苦茶仕放題であった。この様な国連の正義に対して、国連とアメリカのやり方に批判的なイタリア政府は「国連の“正義”の名の下に虐殺をつづけるような」形のPKOからは手を引くと言明している。紛争国の当事者が各々の主観的な“正義”を掲げて争っているところに、第三者の国連が強大な武力を背景に新たな“正義”を押し付ける。国連の“正義”とは一体誰の“正義”なのだろうか、それとも客観的な“正義”とでも言うのだろうか、人殺しを正当化するほどたいしたものなのだろうか?
◇必殺という極悪
「のさばる悪を何とする 天の裁きはまってはおれぬ この世の正義もあてにはならぬ 闇に裁いて仕置きする 南無阿弥陀仏」 〜必殺仕置人より〜
“必殺”シリーズという時代劇がある。必殺に出てくる奴らはは他の時代劇の登場人物とはちがい悪、いや極悪な奴らである。奴らは桃太郎侍のように悪人を次々に闇に葬りさるが、奴らの殺人行為を行う最大理由はあくまでも金のためである。要は奴らは営利殺人者集団なのであり、殺しが大好きな異常性格者集団である。しかし彼らは自分たちが金を貰って人を殺す悪人であること、そして人殺しが悪いことであるというごくごく当たり前の常識を持っているのである。彼らは報酬を受け取らなければ決して人を殺さないし、時には自分の仕事に対して、深い葛藤を持っていたりする。(それに比べて桃太郎侍のエンディングの能天気なこと、昨夜ジェノサイドした人間には思えない)
◇必殺vs桃太郎侍
では、“正義”のために人を殺すのと、金銭のために人を殺すのとどちらがよりましなことなのだろうか、金銭は万人に共通の価値を有するが、“正義”の価値は当人しか通用しないということを考えれば、必殺のほうがまだましな殺人狂とは言えないだろうか。
さらに桃太郎侍がわざわざ正面から登場し首謀者を含め、ただ雇われている浪人や下級武士をジェノサイドするのに対して、必殺の奴らの依頼を受けた必要最小限の人間しか殺さない。綿密に相手の行動パターンを調べ上げ、最も人間の少ない時を狙う。そのために屋根裏に隠れたり、相手を分断したりと、けっこう大変な努力をしている。彼らは自分が“悪”、少なくとも“正義”ではないと自覚をもっているからこそ、決してジェノサイドは行わない。その逆に桃太郎侍は、自分が“正義”であるという狂信的な信念があるため、嬉々としてジェノサイドを実行するのだ。人間は、自分が悪であるという認識に耐えられるほど強くはない。人間が最も強く残酷に、最も無慈悲になりうるのは、自分の正しさを確信したときなのである。そして自分を“悪”と自覚している“悪”は悪であるが故に、現実世界ではそれ自体が大きな歯止めになっているのだ。人間とは“悪”を自覚しながらは、意外とそんなに無茶はできない生き物なのである。
◇正義とは
歴史上、動機さえ主観的に正しければ結果は問わない、という思想が、ろくな結果を生んだ例があるだろうか。神と正義を信じてうたがわない者こそが、もっとも残忍に、凶暴になりえるのではないか。
正義(信念)とは、あやまちや愚行を正当化するための化粧であるにすぎない。鈴木その子がそうであるように、化粧が厚いほど、その下の顔はみにくいのである。桃太郎侍の般若の仮面の下には、その子もびっくりの、偽善(正義)という化粧が塗りたくられているとは、「お釈迦様でも気がつくめえ!」である。
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